第十四章 怨霊迷宮


 紅倉はパトカーに乗って清野病院に到着した。

 降り立った紅倉は羽英神宮で借りた巫女の装束になっていた。

 波多野も一緒に降り、後続の車から伊藤と加賀も降りてきた。

 波多野は見張りに立っている警官に訊き、

「どうだ、異常はないか?」

「はっ。異常ありません!」

「だそうですよ」

 と、皮肉な目を紅倉に向けた。

「大門マリイはここにゃあ来てませんよ」

 警察もバカじゃない。表向き目立つ警官を配置しているが、実は周囲に私服警官たちの目が光っている。そちらからの大門マリイ出現の報告もない。

「いいえ。彼女はここにいますよ」

 自信満々に言う紅倉に波多野はあきれて肩をすくめた。

「ま、どうぞ気の済むように調べてくださってけっこうですよ。我々もお供します」

 紅倉も皮肉に笑い返した。

「大門さんはいないんじゃないんですか?」

「あなたが極度の方向音痴と聞いてますのでね。サービスのエスコートです」

 あらあらと紅倉も肩をすくめた。波多野は油断のない目で紅倉を観察する。大門マリイがこの中にいるとは思えないが、本庁から、この女の能力は絶対だと忠告があった。

 あの畔田敏夫も紅倉美姫を非常に高く買っていた。表には出さないが、波多野は畔田をあんなひどい目に遭わせてしまったことに負い目を感じていた。

 南国のジャングルみたいに巨大に成長したシュロの硬い葉の落とす濃い影の中を歩き、正面玄関に向かう。

 鍵を外して、鎖を解いた表のガラスドアを開けると、中の自動ドアも手動で開いた。

 受付カウンターと待合ロビーがある。あの夜、ここで色川たち居残り組は肝試し組の帰りを待っていたのだ。

「フウーン、ここでね」

 何かを見て紅倉は言ったが、後ろで加賀が「ゲエッ」とうめいて、隅に行って吐きたそうに背を丸めた。伊藤が「おいおいどうした?」と心配した。

「すみません。なんだか急に……、オエエッ」

 また、さっきよりひどくうめいて苦しそうにする。紅倉が冷たく忠告する。

「あなたは影響されやすいようですね。すぐに出て行きなさい。この先、ひどくなる一方ですよ」

「す、すみません、そうさせてもらいます……ウエッ」

 加賀は今にも吐きそうにしながら転がるように表に出ていった。


 紅倉は非常にクリアーに病院内の様子を見ている。

 光学的には非常に弱い視力だが、霊的には物凄くいい。

 しかし紅倉は通常霊的視力を発揮すると目が異常に充血し、赤く染まる。しかし今、紅倉の目は実に健康的な澄んだ水色の白目をしていた。薄い緑色をした瞳もくっきり黒くなっていた。

 自分が霊力を発揮するまでもなく、院内は異様に霊媒物質が濃かった。

 紅倉には過去そこで展開された光景がはっきりと見える。

 説明してやった。

「ここで待っていた四人は車に戻ることにして歩いていきました。その後に赤西翔太さんと阿藤桃子さんが帰ってきました。

 二人はすっかりラブラブで、若い肉体的欲求がはち切れそうに高まっていたようですねえ。しかしさすがに院内でエッチをするまでには及ばず、怖い雰囲気の中エッチな妄想を楽しむだけで帰ってきました。

 彼らは色川さんから借りた鍵穴を照らすための小さなライトしか持っていませんでした。その頼りない灯りが二人の体を密着させる小道具として重宝だったようですね。なかなか戻ってこない仲間たちにジリジリし、ロビーにはおあつらえに長椅子が並んでいる。いっそここで前戯だけでも……と思っていたところ、

 小さな明かりの中に、彼らが、見えてしまったのですね」

 紅倉は、うえ〜〜、とイボガエルでも見ているような顔をした。

「彼らは二人の密着した体の間に後から後からわき出てきた。彼らも、生身の肉体のぬくもりに飢えていたんですね。

 赤西さんと阿藤さんは、お互いを突き飛ばし、非常に気まずい思いをしました。さらにその後、体中をはいずり回る不快なむず痒さを味わいました。二人が体をくっつけ合っていたところからです。

 二人はお互いに、非常に不快な、不潔さを感じた。

 それで、二人の仲はすっかり冷え切ってしまったのですねえー……。ま、一時的にね。

 うじゃうじゃ湧いてきたのは低級な鬼の類ですが、

 二人に主体的に取り憑いていたのは……、ま、後にしましょう」

 紅倉はさっさと歩き出した。

「さ、次行きますよ」


 新館へ向かう廊下は、てかてかした床に歪んだ影が映り、陽炎のようにうごめいてじわじわ広がってくるような錯覚を起こさせた。

 外光の差すブリッジ部に出た。壁に突き当たり、左手に行くと壁の向こうに階段があり、右手に行くと窓から隣の部屋の窓を突き破った桜の木が見える。枝が破った小窓は病院のコントロールルームの物だ。

 紅倉は右手に折れ、突き当たりで廊下が曲がる手前でせっかちに左に向かい、思いっきり壁にぶち当たった。

 後ろによろめいて、鼻を両手で押さえてしゃがみ込んだ。

「おいおいあんた、大丈夫かい?」

 波多野があきれて、ハンカチを差し出した。

「すびばせん」

 鼻に当てるとハンカチに血がにじみ出した。しばらくじっと固まって、ようやく鼻血が止まったようで、立ち上がると、汚してしまったハンカチをどうしようか途方に暮れた。

「ああいいよ、やるよ。それよりあんた、気を付けなよ。ほんとどうしようもねえなあ」

 紅倉はむっつり怒って言い訳した。

「昔はここに廊下があったんですう。

 そして、雷の光の中で、須貝明奈さんはそれを見てしまったんですね」

「須貝明奈が? 何を見たって?」

 紅倉は壁の先に「それ」を見ながら、平気で言う。

「死体の列です。爆弾や火でやられた、手足のちぎれた、火傷に膨れ上がったね」

 刑事二人は白い壁を気味悪そうに見つめた。本当にそんな光景が見えているのだろうか? 何か資料を見て、妄想をたくましくしているだけではないのか?

 紅倉は、見ながら、解説する。

「苦しんで助けを求めていますが、ここは、見捨てられた人たちの、仮の死体置き場ですね。向こうには」

 窓の方を指す。

「死んじゃった人たちがゴロゴロ投げ捨てられています。今も、運ばれてきて、放り投げられています。何度も、何度も、エンドレスにね」

 波多野は紅倉にハンカチをやってしまったことを後悔した。なんだか鼻の奥に焼けこげた肉の臭いが差してくるような気がした。

「ま、行きますか」

 紅倉は向きを変えて、反対の階段の方へ向かう。刑事たちは後ろを気にしながら紅倉の後を追った。


 コツコツと靴音を反響させながら階段を上がっていく。

 四階に上がり、廊下を歩いて、狭い階段を上がり、展望室に出る。

 南向きの広いガラス窓から眩しく昼の光が射し込んで背後の壁を真っ白に照らしている。

 その白い光を見たとき刑事二人はひどいめまいを感じた。この階段を上がっているときからどうにも胸が気持ち悪かった。紅倉は振り返って言う。

「お二人もだいぶやられているようですね。この先はかなりきついですよ。下で待っていてください」

 波多野は、へっ、と突っ張った顔で言った。

「お気遣いどうも。だがけっこう。最後までつき合いますよ!」

 紅倉は意地悪に笑った。

「最後まで持つかしらねえ? ま、お好きに」

 紅倉は奥への廊下を進んだ。曲がると、男湯と女湯が並んである。異様に暗い。南の窓の光をまともに見たせいだ。男湯から女湯、ランドリー室まで、まとめて立ち入り禁止のテープが張られている。

「いいですよね?」

 紅倉が指さして訊ね、

「よかねえんだがな。ま、いいや」

 二人視線を交わして波多野が許可した。紅倉はバリバリ、子どもみたいにはしゃいでテープを引きちぎり、丸めて捨てた。刑事たちは呆れた顔で眺めている。

 女湯に向かった紅倉は、引き戸に手を掛け、思い出したように刑事たちに言った。

「びっくり」

 何が?と顔で問うと紅倉は笑って戸を開け、入った。刑事たちも続く。

 脱衣所。その奥の凹凸の型板ガラスの戸は閉まっている。ここのドアは開けると、自然にゆっくり閉まってくる作りになっている。

 ガラス戸に映る窓明かりは、今日も暗い。その暗い光影が瞬いた。空を鳥がよぎったのだろう。

「びっくり」

 また言って、紅倉は引き戸を開けた。背後から見た刑事たちは、

「うっ!……」

 とうめいて、体が退けた。

 ブラインドガラスが閉まって薄暗い窓明かり、その下の暗がりにある浴槽に、女が浸かっていた。縁に左手を肘から横に掛け、その手の甲の上に顔を半分乗っけて、目を剥いて刑事たちをじっと見ている。浴槽にはいっぱいに、赤黒い水が張っている。

 女は須貝明奈だった。

「…………………」

 刑事たちがバカな、と思うと、幻は消えた。

 空っぽの浴槽。

「おいおい、冗談じゃねえぞ……」

「見たのか、おまえも?……」

「……………」

 刑事たちは自分たちの頭の中を信じるため浴槽を覗き込んだ。底に大量の赤錆が残されたままになっている。


「須貝明奈さんは」


 背後からの声に刑事たちはビクリと振り返った。

「アパートからさまよい出たところを大門さんの車に呼び止められ、ここまで連れてこられたのですね。

 須貝さん、シャワーを浴びていて、血の幻を見たのですね。それで恐慌を来したのです。アパートを逃げ出して、大門マリイに呼び止められ、謝りに行けば許してもらえると言われて、怯えながら、従ったのです。大門マリイに、自分のようになってしまうぞ、と脅されて。

 殺されることを、須貝明奈も半分分かっていたのですね。自殺した他の人たちといっしょです。

 自分は生きていてはいけない、と、そう思い込んでいたのです……」

 紅倉の眉がかすかに動いた。不機嫌そうに。

「大門マリイにここに連れてこられ、お風呂に入るのだから服を脱ぎ、独り、閉じこめられた」

 背後で、ゆっくり、引き戸が閉まった。

 紅倉が指さす。

「わき出し口から水が噴き出した。激しく。排出口からも逆流して噴き出してきた。水道からも、シャワーからも」

 ゴゴゴゴゴゴゴ、と音が響いて刑事たちはひいっとすくみ上がった。紅倉は物凄い顔で笑った。

「我に返った須貝明奈は悲鳴を上げて逃げ帰った。大門マリイは引き戸を閉め切り、そこで笑って見ていた」

 ひいっとまた刑事たちは悲鳴を上げた。本当に、そこに凸凹に歪んだ女の顔が笑っていた。

「ほーら、大門さんですよ」

「なにいっ!?」

 しかし顔は奥に下がり既に消えていた。追おうとする刑事たちに、

「いいです。すぐに会えますから。

 須貝さんは、穴から溢れてきた物によって浴槽に押しやられ、それらにもみくちゃにされて、体が、手足が、ねじれ、あんな格好になってしまった」

 刑事たちは思い出す。あの、超人的なヨガのポーズを。するとまた浴槽にその幻が現れた。ただし、今度は須貝明奈に無理矢理そのポーズを取らせている物たちも一緒に。

「うわわわわわあああ〜っ」

 腰が抜けてひっくり返った。

 バラバラになった手足が、浴槽いっぱいに詰め込まれていた。これではどれが須貝明奈の物であるか分からない。

 血の臭いがむせ返り、刑事たちは今度こそたまらず吐いた。紅倉は冷たい横目で見て続ける。

「事が収まって、大門マリイは見物に戻ってきた。浴槽の中を楽しそうに覗くと、鬼の形相の須貝明奈が掴みかかってきた。須貝も、自分がどのような怪物に変身してしまったか分かっていました。おまえも道連れにしてやる!、と、逆に大門を呪ったのです。しかし大門は、須貝にまだ息があるのを知っていて、最後の楽しみのために戻ってきたのです。須貝の顔をぐいぐい中に沈め、須貝は大門の髪をかきむしって、苦悶の内に息絶えました」


 声がした。


『おもしろいか?』


 刑事たちはもう役に立たない。


『おまえも、おもしろいかあ〜!?』


 浴槽から、ピョコンと、手足が複雑に絡み合った裸体の須貝明奈が現れた。

 横にねじれた顔が憎悪に歪みきっている。

 怒りと憎しみが、今は紅倉に向けられている。

 紅倉は白々した目で見返して言った。

「ま、愉快な格好ではありますけれどね。わたしも、不快です」

 紅倉がパチンと手を打つと、まるで魔法が解けたように須貝の手足がスルスルほどけて、ちょこんと縁に腰掛けた。須貝はびっくりしている。

「赤錆た水以外は全部まぼろし。あなたは、自分でそのポーズを取っていたんですよ? さ、お逝きなさい。もうこんなところにいなくていいわ。あなたは、ちゃんと成仏できますね?」

 紅倉が天を指すと、光が射し、その光に溶け込んで須貝明奈の姿は消えた。

 光が消え、元の暗い浴室に戻ると、



 ゴゴゴゴゴ、ガゴン! ゴゴゴゴ……



 と、また壁から、床から、狭い中を物がつっかえながら無理やり移動する音が響いてきた。

 音の移動するのを顔で追いながら、波多野は、

「おい……、まさか…………」

 とつぶやいた。紅倉が言う。

「大門マリイさんですよ」

「馬鹿なっ!?」

 波多野は怒鳴り声を上げた。自分の恐怖心を否定するようにむやみと怒って。

「人が、こんなところに入って動けるわけないだろう!?」

 自分の尻の下を移動する音にひいっと飛び退いた。

「でも、動き回っているじゃないですか?」

「違うっ! これは、ネズミかなんかだっ!!」

 紅倉は笑った。

「じゃ、そういうことにしておきましょう。さ、次行きますよ」

「おいっ!」

「お化け屋敷ツアーはここまでにしますか?」

 波多野はむっつり立ち上がった。おい、と伊藤にも声を掛ける。

「行くさ。これは人殺しの事件なんだ。刑事が逃げてどうするよ」

「ご立派」

 紅倉は笑って出ていった。またドアが閉まるのが怖くて刑事二人は急いで後を追った。

 背後でゴボゴボと不気味に音が響いた。



 四階に戻ると、


  ……………………


  ………あ…………


  ………あああああ……ああ……


  あああああああああああああっっっ、


 と、遠くから女の悲鳴が聞こえてきた。

 新たな被害者か!? しかし刑事二人は真っ青な顔にいっぱい脂汗を浮かべ、その場に立ち尽くす事しか出来なかった。

 紅倉はこともなく言う。

「あれも大門さんですね。なあに、私たちを怖がらせようという子供だましの演出です。でもま、

 あれを聞いて、展望室から逃げてきた五人、麻倉尚樹さん、相川一哉さん、色川祐介さん、須貝明奈さん、初田香織さんは、二手に分かれ、女の子たちは車へ戻り、男の子たちは悲鳴の主、大門マリイさんを助けに向かったのですね。

 女の子たちは、下で言った通りです。初田さんは幸い鈍くて直接は見てなかったようですね。わたしがもっと早く到着していれば助けてあげられたと思いますが、かわいそうなことをしました。

 今度は男の子たちを見に行きましょう」

 紅倉は彼らの駆け下りた大きな階段を二階まで下り、旧館へ向かった。

 中央中庭吹き抜けの窓を見ながら歩く。外の光が妙に白っぽく見える。刑事二人はふらふらしていた。胸が気持ち悪くてならず、頭がガンガンに痛い。

「無理なさらない方が……」

「うるせえよ。さっさと行ってくれ!」

 紅倉は肩をすくめて歩いた。吹き抜けを越えて広くなった廊下で止まる。左右に外の窓がある。

「ここで雷が鳴り、豪雨となり、真っ暗になりました」

 窓の外が、大きな黒雲に隠されて日が陰った。偶然だろうが波多野は嫌あな気分がした。

 絶好調でくっきり黒目の紅倉がはつらつと説明する。

「懐中電灯を持っていたのは麻倉さんですね。彼は何者かに手を叩かれて懐中電灯を取り落とし、壊してしまいました。そして三人はパニックに陥りました。ずっと狙っていた悪霊の第一弾がここで三人に襲いかかりました」

 突然、天井から、真っ赤な男が逆さまに飛び出した。逆さ吊りの、血塗れの兵隊だ。刑事たちは「ぎゃあっ」と悲鳴を上げた。

「子供だまし」

 うそぶく紅倉に、天井に下半身を埋めたままの血塗れ兵隊は、逆さのまま軍刀を振りかぶり、振り下ろした。

 グサリと、刀は紅倉の顔面を切り裂いた。

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