第十三章 クライマックスへ


 しち、初田香織

  ……性格のいいポッチャリちゃん。



 朝六時。まだ夜の暗さの中、パトカーはU市のU病院に着いた。芙蓉と紅倉は降りると、芙蓉が運転席に声をかけた。

「ありがとうございました。どうぞお気をつけてお帰りください」

「は。失礼します」

 パトカーは名残を惜しむ事もせず出発した。最初元気の良かった若い巡査たちは、すっかり無口になっていた。すっかり紅倉の「死の臭い」に当てられたのだ。芙蓉は今更気にも止めないし、またおっちょこちょいに変な方向に行こうとする紅倉を捕まえて「こっちです」と入り口に連れていった。

 畔田は、危篤状態だった。

 集中治療室に入ったまま、三時間が過ぎ、手術はようやく先ほど終わったところだ。

 あれからもトラブル続きで、医師も看護師もぐったり疲れ切っていた。助かるとはもはや誰も思っていなかった。

 紅倉は上方のどこか遠いところを睨んだ。

「先生ったら、柄にもない事をしようとするから」

 会いたいと言うと、すんなり許可された。

 芙蓉は看護師と同じグリーンの衛生服を着せられたが、紅倉は着なかった。

「わたしは会いません。美貴ちゃん。先生をよろしくね」

 芙蓉は驚いた。自分なしに、紅倉先生がどうすると言うのか?

「あらあら、馬鹿にしないでちょうだい。わたしだって、自分でどこにでも行きます」

 視線を泳がせ、

「またお巡りさんのお世話になるからいいわ」

 芙蓉はちょっとがっかりして寂しく思ったが、紅倉の珍しい積極性を尊重する事にした。紅倉はぎゅうっと芙蓉の両手を握った。

「美貴ちゃん。畔田先生を、絶対に死なせないで。いいわね!」

「分かりました。全力を尽くします」

 先生が自分を信頼して任せるからにはこれが自分の仕事だ。畔田先生は先生がいけない事をした時に叱ってくれる大事な人だ。……他の大人は面白がって煽るばかりの小悪人ばっかりだ……。

 先生の強い思いを知って芙蓉も強くうなずいた。

 紅倉美姫が、どんな極悪な悪霊どもだろうと、負けるわけがない!!

 紅倉は集中治療室の前まで一緒に来て、ドアの前で、

「えいっ!」

 手刀で斜めに斬った。芙蓉には室内が清浄に戻ったのが分かった。

「よろしくね」

「はい」

 芙蓉は一人部屋に入った。雑然としながら白々した部屋。薬品とは違う臭いが漂っているが、芙蓉は慣れている。

 看護師が二人緊張した面もちで見守り、畔田は点滴を二本つながれ、計測器をつながれ、酸素のマスクをしていた。

 もう死んでしまったように力無く蒼白の顔をしていた。

 壮絶な戦いぶりに心が痛んだ。畔田は本来こういうことをやる人ではないのだ。彼には心優しい悲しい幽霊の相手が似合う。

 芙蓉は畔田の脇に寄り添い、左手を握って目を閉じた。

「畔田先生。芙蓉です。紅倉先生の伝言です。絶対に、死なないでください。わたしも、絶対に死なせませんよ!」

 芙蓉はいつも紅倉の褒めてくれる「治癒の気」を畔田に送った。もう疲労を感じる。風邪なんかもう吹っ飛んでしまったが、この疲れは畔田から伝わってきたものだ。

 どっと疲れながら、芙蓉は強い念を送り続けた。

 これが芙蓉の戦いだ。




 紅倉はうろうろしながら病院前に出てタクシーに乗った。清野病院に向かおうとしたが、あらそういえばと、自分が財布を持っていないのに気がついた。運転手はパジャマにカーディガンを羽織った頭の白い女に最初から警戒している。

 紅倉は仕方なくため息をつくと、行き先を告げた。

「羽英神宮にお願いします」


 羽英神宮の駐車場は早朝から大変な騒ぎになっていた。

 しかし、どことなく白けた感じが漂っていた。

 駐車場に至る道路の入り口でタクシーは止められた。警官が運転手に言い、

「この先は立入禁止です。引き返してください」

 そして後部座席の紅倉をちょっと奇異な目で見て、言った。

「羽英神宮は今日は入れませんよ。当分駄目かも知れません」

 紅倉には分かっている。

 もう全て終わっていることが。

 この疲れ切った白けた空気は、そのためだ。

 紅倉は言った。

「すみません。お金、払っていただけませんか? わたし、持ってないんです」

「ええ~っ!?」

 と、運転手が怒った声で言った。

「すみません。あの、わたし、紅倉美姫と言います。ごめんなさい。責任者の方に会わせていただけません?」


 婦警に手を引かれて、紅倉は社務所に上った。

 そこも事件現場になっていた。

 女性用トイレで初田香織が死んでいた。

 その死に様も凄惨なものだった。

 初田は服を脱ぎ散らかしたほぼ全裸の状態で、頭から足先まで全身に渡って、バックリ、楕円形の傷が口を開き、その数は百を越えていると思われる。

 周囲の床に、切り取った皮膚が、大振りの花びらのように散乱していた。

 現場を覗いてしまった巫女はすさまじい悲鳴を上げ、すっかり狂ったようになってしまった。

 状況的に他殺は考えづらく、初田は自ら果物ナイフで、つまんだ肉を、切り取っていったと思われる。挙げ句、出血多量でショック死したと。

 波多野は初田香織がそこでしていたことを想像して顔を歪めた。忙しくしていたとは言え建物内には多くの人間がいたが、誰一人香織の悲鳴を聞いていなかった。一連の作業を行うのに相当の時間を要したと思われ、少なくとも一〇分以上は掛かっただろう。彼女はここで一人、声一つ上げず、黙々とこの作業を続けていたのだ。

 鬼気迫る。

 紅倉は遺体を冷静な目で見て言った。紅倉は波多野が許可して連れてこさせた。

「体から生えてくる物を切り取ったんですね」

「どういうこってすか?」

「幻を見たのです。自分の中に巣くっている悪霊たちが、自分の体を乗っ取って外に出てこようとする幻を。体中から手や足や顔が生えてきて、彼女はそれを一生懸命、切り離していたのです」

「こいつも狂っちまってたか……」

「そうです」

 紅倉は表情を変えずに言う。

「ここにいれば、そのようなことは起こらないはずだったんですけれどね」


 そこへ宮司が挨拶にやって来た。宮司も顔つきがだいぶ変わってしまっている。宗教的長であると共に地域の伝統ある重要施設の管理者として、重い責任を感じざるを得ないだろう。気軽に三人を引き受けてしまった事を後悔する気持ちが、今はないとは言えないのではないか。

 紅倉は宮司に丁寧にお辞儀した。

「この度はご迷惑をおかけしました」

「いえ、こちらこそお力になれず……」

 宮司はどうしても納得がいかず、紅倉に訊ねた。

「この神の聖域で、このような事が起ころうはずはなかった。いったいどうしてこうなってしまったのか……」

「そうですね。先手を打たれていた、と言うことでしょう。

 彼らは既に、心に呪いを焼き付けられていたのです。それはお祓いで消せる類の物ではありません。それそのものはどうしようもありません」

「祓えてなかったのですか……」

 落ち込む宮司に紅倉は慌てて言った。

「いえいえ、ですからこちらのような清浄な環境で過ごす必要があったんですが……。

 畔田先生も失敗しました。大門マリイをおびき寄せる為のエサが、彼女の手に渡り、恰好の呪術アイテムになってしまいました。

 その人形を使い、彼らの呪いを活性化させたのです。

 恋人同士の赤西翔太と阿藤桃子は死ぬほどの淫行にふけり、清潔好きな初田香織は自分の汚れた体をきれいにしようとした。

 彼らの内側から溢れた衝動ですから、どうしようもありません」

「うむ……。そうなのかも知れないが……」

 宮司はやっぱり納得できないように苦悶した。

 紅倉はもっと深い事情を知っている。その中には、もっと宮司を苦しめる事柄も含まれている。

 紅倉も困って、ふと何かを見つけると、空中で蝶々を捕まえるみたいにそっと両手で包み込んだ。

 フッと息を込めると、ふわっと放してやった。

「もういいんですよ。お逝きなさい」

 そこには何も見えなかったが、宮司は察し、合掌した。波多野は宙を睨みながら、芝居がかった二人にしかめっ面をしている。

 紅倉は波多野に訊いた。

「病院から連絡は?」

「いや、何も。畔田さんは、……どうなんでしょうなあ…………」

 紅倉はにっこり笑った。

「大丈夫ですよ。わたしの美貴ちゃんがついていますからね。きっと、元気になってくれます」

 そう言いながら紅倉は額の際にうっすら汗をかいていた。

 紅倉はきびすを返すと言い切った。

「事件は終わりました。もう何も起きません。どうぞ安心なさってください」


「なんだと……」

 波多野が愕然として、噛みついた。

「終わった? 冗談じゃない! 警察の仕事はこれからだ! 犯人!……大門マリイをとっ捕まえて、刑務所にぶち込んでやる!」

 紅倉は冷ややかに言った。

「彼女を刑務所に入れることは出来ないでしょうねえ」

「大門も死んでるってえのか!?」

「いえ、生きていますよ、まだね」

「だったらあ……」

「わたしがさせません!」

 紅倉はピシャリと言った。

「この一連の事件、彼女が最大の被害者です。彼女だけはわたしが救います、なんとしても! そして、彼女はわたしが守ります、何者からも」

 波多野は怒った。

「彼女が一番の被害者だあ? 寝ぼけたこと言ってんじゃないよあんた! 何人殺したと思ってんだ! 一番かわいそうなのは、死んだ人間だろうがっ!?」

 紅倉は鼻でため息をつき、頷いた。

「確かに、その通りです。死んだ人はかわいそうです。でも、わたしのような人間にはそれ以上に許せないことがある。

 ……確かに、彼女が馬鹿な事をしなければ一連の事件は起きなかったでしょう。でも、全て彼女が悪いのかと言えば、そうではない。

 奴らはやり過ぎた。…………

 大門マリイ。彼女の受けている苦しみを理解できるのはわたしのような人間だけでしょう。だから彼女はわたしが救います。例え、普通の人に全然、理解されなくてもね」

 紅倉は東を向くと、くっきりと、目に殺意を交えた怒りを燃え上がらせた。

「全てが終わった後でざまあ見ろと笑ってる? 終わってないわ、わたしにとっては、何も!

 これからよ。絶対に許さない。絶っ対に、自分たちのしたことを、死ぬほど後悔させてやる!」

 波多野には紅倉が何を考えているのか分からない。しかし、非常に恐ろしいことであろうことはその目で分かった。

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