第十章 拡大
大門マリイの車の行方に関して、もしやと思われる情報が寄せられた。
昨夜遅く、別府湾の工業港で乗用車の転落事故があったらしい。
らしいというあやふやな情報だが、あの豪雨の中で、保安作業を行っていた荷役作業員が離れたところから「どうも落ちたらしい」のを見ただけで、それ以上の情報がなかった。港では一時大騒ぎになったが、とにかくあの天候で、湾内も危険で救助作業などとても出来なかった。
今朝になって嵐が弱まり、ようやくダイバーが濁って全く視界の利かない海中に潜って捜索した。
車はあった。しかも大門マリイのセダンと同じタイプ、色の車体であった。しかしナンバープレートが外れていて、持ち主の確認は出来なかった。
作業に安全な天候になるのを待って、車体にワイヤを回す水中作業をし、クレーンが出て、フックに掛け、二時過ぎに車は引き上げられた。
水上に上がった車はドアの下部から勢いよく水を吐き出した。
ガラスは泥にまみれ、外から内部は窺えなかった。ロックを切断してドアを開けると、残っていた水が一斉に溢れ出した。
後部座席に二つ、泥まみれの体が座っていた。若い男女だ。二人とも全裸で、腹部が刃物でめった刺しにされ、女の方は臓物が引っぱり出されていた。
鬼畜の狂った所行に現場は怒号が行き交った。
車は、車体番号からやはり大門マリイの物であることが判明した。今度は男女の身元の確認が急務となり、二人が乗っていたであろう車が捜索された。
これもやはり大門マリイの犯行であろう。
警察も大学も対処に苦慮した。大門マリイが未成年であるからである。
一般には「十八歳女子大学生」としか報道されない。
彼女が今や危険きわまりない殺人鬼であるのは明白な事実だが、未成年の、しかも何らかの精神疾患が疑われる人権的配慮から実名の公表はためらわれた。生徒たちに警告を発するにもこれでは不便きわまりない。
大学は警察から「生徒の所在を一人残らず確認してほしい」と要望されたが、小中学校でもあるまいに、事実上それは不可能だった。さらにN大学では昨日の学内での残虐極まりない事件のため全校休講、構内立ち入り禁止になっていた。どうにもならない。
羽英神宮にかくまわれる三人には色川の自殺は知らされなかった。雑念を断つという理由からテレビラジオも禁止されていた。それでも既に死亡が知られている須貝明奈の件に関して、大門マリイが関係しているらしいことは知らされ、所在の心当たりが訊かれた。
初田も阿藤も特に親しいわけではなく、心当たりはなかったが、赤西が言った。
「あいつなら、見ればすぐに分かるぜ。なにしろ…………」
刑事の前で赤西は見る見る真っ青になり、顔面を痙攣させた。
「……ひでえ顔をしてるだろうからな…………」
どうひどいのか尋ねると、赤西はさんざん躊躇した挙げ句ようやく口を開いたが、その途端過呼吸を引き起こし、白目を剥いて卒倒した。激しいひきつけが止まらず、医者が呼ばれた。何があっても絶対に神社から外に出さないように畔田が厳命していた。
赤西の有様を見て阿藤と初田は怯えた。二人は大門マリイがどうなったのか、見ていない。モンスターに変じた彼女のイメージが膨らんでいく。そのイメージに睨み付けられ、二人は心の芯まで凍え震えた。
今更ながらどうしても思ってしまう、どうしてあんな場所に行ってしまったんだろう、と………。
畔田は加賀たちの車に同乗してB市内をパトロールしていた。
B市を選んだのは勘だ。自分の霊感を信じるしかない。
ただ信じるのではない、そのために最大限に霊波のアンテナを広げていた。自身の霊波の出力を最大にし、些末な霊的波動まで神経を尖らせる。ものすごく疲れる。頭痛が凄まじい。端で見ている加賀たちが痛々しそうに眉をひそめた。
一時間あちこち走り回って、畔田はB大学の学生たちの多く住まう学生アパートの集合区でカッと目を見開いた。
「刑事さん! ここだ、そこ! そこの、二階!」
クリーム色の壁に茶色い焼き煉瓦で装飾したおしゃれなアパート、そこを指さして畔田は叫んだ。
車を飛び出した畔田が階段を駆け上り、その部屋のブザーを激しく押し、ガンガンガン、とドアを連打した。
「先生」
加賀が前に出てノックし、
「警察です。いらっしゃいますか?」
返事はなく、
「失礼します」
ドアノブをひねったが鍵がかかっている。相棒に言う。
「管理会社を」
相棒は隣の部屋の小窓から不安そうに覗く女性を目聡く見つけると「警察です」と手帳を見せ、「協力願います。大家さんか、管理会社に連絡は?」と訊いた。ただならぬ様子に女性は引っ込み、ややあって、玄関のドアを開けるとバインダーに挟まれた書類を見せた。居住者への注意書きがされた管理会社の案内だった。刑事はその番号に電話した。
加賀が尋ねた。
「お隣の方は、どなた?」
女性はこわごわ言う。
「井守幸美さんです……」
「あなたは、B大学の生徒さん?」
「はい……」
「井守さんも?」
「先輩です。三年生……」
「……大門マリイさんという生徒はご存じですか?」
「い、…………いえ…………」
この女子生徒は殺人鬼大門マリイの名を知っているようだ。
「隣に何か変わった様子はありませんでしたか?」
「……………いえ…………」
「井守さんは車は持ってますか?」
「……いえ。あ、でもスクーターなら……」
「スクーター? 今、ありますか?」
「えーと……」
女子学生は伸び上がるようにして、加賀はお願いしますと外に導いた。女子学生はこわごわ井守の部屋の前を過ぎ、階段の手すりから駐車場を覗いた。
「あっ、ありません。そういえば朝早くエンジンの音を聞いたような……」
「何時頃です?」
「ええー……、分かりません……。まだ眠くて…………」
五分もせずに警備会社の警備員二名が鍵を持って駆けつけてきた。警察手帳を見せる加賀たちにマニュアル通り説明を求める。
「いいからっ、早くここを開けたまえっ!」
すっかり度を失っていらいらしていた畔田が怒鳴った。
「後からいっくらでも謝ってやるから!」
顔を真っ赤にしてぷるぷる震わせている畔田を見て加賀は警備員に言った。
「お願いします」
警備員もすっかり雰囲気に飲まれて素直に鍵を開けた。
「失礼」
加賀がどかしてドアを開けた。
「井守さんっ……」
その場に固まった。背中で警備員が「わっ」と声を上げ、思わず後ろから覗いてしまった隣の女子大生は声も上げられずにその場にへたり込んだ。
玄関には大量の血が振りまかれていた。
「井守さん」
加賀と相棒は血痕を避けつつどかどか土足で上がり込んだ。
血痕の続くドアを開けると、トイレ洗面所セットのユニットバスで、浴槽にビニールカーテンが引かれている。床にも、カーテンにも、引きずり拭い着けられた大量の血痕があった。
カーテンを開くと、真っ赤な水が張った中に、目を見張った女性の顔が上半分出ていた。
刑事たちの後から入ってきた畔田は、女性の目を見た途端、
鮮烈なイメージの中に取り込まれた。
チャイムに返事をしてドアを開けると、真っ黒に顔を塗りつぶした女が包丁でいきなり腹を刺してきた。引き抜かれ、突然の激痛と噴き出す血潮にショックを受けていると、スパッと、真横に喉を切り裂かれた。それで悲鳴も上げられず、ゴボゴボ血の泡を吹いて、井守幸美は絶命した。
(くっ………そおおおお………………)
畔田は歯が砕けそうに噛みしめた。全く無意味だ。何故、何故彼女を殺す!?
畔田はまだイメージの中にいる。
彼女は井守幸美の死体を引きずり、このバスタブに押し込めると、ザーッと水のシャワーを降らせた。血が洗い流されるのを見て、思い出して底の栓を閉めた。水のたまっていくのを確認するとカーテンを閉めた。部屋に上がり、彼女が食べかけの夕飯を、彼女の血が大量に付いたままの手で食べ出した。テレビで衛星放送の海外ドラマを見て、終わると風呂場に様子を見に戻った。床に水があふれ出していた。大門はシャワーを止め、トイレで立ったまま小用を足すと、ようやく石鹸を使って念入りに手を洗い出した。血はなかなか落ちない。大門マリイはそれを見て、フフッと、笑った。あきらめてタオルで手を拭い、部屋に帰ると素っ裸になってベッドに潜って眠った。朝、まだ暗い内に起き出すと、今度はゆっくり座って用を足し、ベッドの下の引き出しから井森幸美の下着を物色して着け、井守の服を着て、出かけていった。
畔田はイメージから解放された。立ちすくみ、白目をむいてヒクヒク瞬きを続けたかと思えば、突然ガクンと前のめりに倒れそうになった畔田を支えて加賀が心配そうに話しかけているが、畔田はまったく気がつかないように、
「畜生め!」
と叫んだ。
畜生、畜生、畜生…………
「先生。先生。大丈夫ですか? しっかりしてください」
「奴らは僕を知っている。僕が調査に協力していることを知った上で、…………彼女を置き土産にしたんだ……」
大丈夫だ、と加賀の腕を叩き、自分でしっかり立つと、畔田は無惨に目を開く井守に手を合わせ、話した。
「大門マリイの人格はまだ残っている。だがそれを支配しているのは、彼女の肉体に取り憑いた男どもだ。
夕べ見ていた海外ドラマは大門マリイが毎回楽しみに見ているものだ。だが、こんな状況で楽しめるわけないだろう? むしろそれは、拷問だ。大門マリイの人格を残しながら、なぶりものにして、楽しんでいるのだ。
そう、奴らは楽しんで人を殺しているのだ!・・・」
畔田は再び高ぶってきた気持ちを抑える為に沈黙した。
これでは奴らの思うつぼだ。冷静になれ。
イメージの中で顔が真っ黒に塗られていたのは、畔田にマリイの顔を見せないためだ。自分の存在を知った上で冷静に状況を分析している。
こいつらは普通の悪霊とは違う。生身の人間と同じように高度に思考している。大門マリイの肉体を得たからか。精神にまともな人間性は皆無だが。
奴らは悪意の固まりだ。墓に土足で踏み込まれた怒りなんてものではない、大門マリイも彼らも、どす黒い欲望を満たす為の道具にされた、被害者だ。
畔田は清野病院に対する認識を改めた。肝試しの若者たちに成り代わって申し訳ない気持ちでいたのだが、そんな相手ではなかったのだ。
畔田は現地を外から眺めただけだ。それでもう十分だと思っていたが……
清野病院の中で、いったい何が起こっているのだろうか?
港湾で大門マリイの車が引き上げられ、中から若い男女の惨殺体が見つかった報せは、またも畔田を打ちのめした。
怒りを通り越した暗たんたる思いに沈みながら、それでも頭を働かせた。
車が湾に転落したのは夜中のことだ。
大門マリイは夕飯前に井守幸美のアパートを訪れ、テレビでドラマを見て、翌早朝、スクーターで発って警察病院に向かうまで、アパートは出ていないはずだ。
「加賀さん」
畔田は言った。
「港の事件は大門マリイの仕業じゃあない。おそらくはタクシー運転手、猪口寅太郎の仕業だろう」
「なんですってえ!?」
加賀たちは仰天した。
また一人、殺人狂が誕生したのだ。
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