第九章 ワイヤ


 し、色川祐助

  ……やり直し。頑張れ、男の子!(笑)




 翌日火曜日。

 低気圧の前線は北上し、大分県内の激しい雨はだいぶ収まった。しかし代わりに紅倉芙蓉の辿る広島山口の道のりがもろに前線の通り道になった。しかも速度を落として長時間とどまることが予測された。畔田は朝のニュースを見ながらやはりという思いがした。




 警察病院。

 朝七時二十分。色川祐介の病室に看護婦が検温に回ってきた。

 看護婦が入ってくると、きつい消毒液の臭いがした。色川の監視に就いている男性警官は、看護婦なのだからそういう仕事もするだろうと、しごく自然に考えた。彼は足下の椅子に座ってその看護婦が色川の脇の下に体温計を入れている後ろ姿を見ていたが、何故か急激な眠気に襲われた。いかんいかんと両手で頬を叩いて頭を振ると、色川のうめく声がした。

 色川はひどいむち打ちのため首をコルセットで固定され、舌を噛むのを防止するためマウスピースを噛まされ、マウスピースを吐き出すのを防ぐためヘッドバンド式のマスクをさせられていた。手足はベルトでベッドに拘束されている。

「色川さん。どうされました? 落ち着いてください」

 看護婦の冷静な声に色川は血走った目を張り裂けそうに開いて頭を振りたくった。警官はやれやれと思った。薬が切れて目を覚ますとすぐにこれだ。

「看護婦さん。わたしが見てますから先生を呼んできてください」

「はい」

 看護婦が体を起こして去ろうとすると色川は「ううう~~~~っ」と大きくうめいた。血走った目が警官を見て、しきりと顔を振った。

「色川? どうした?」

 何か訴えるような仕草に警官が体を乗り出すと、看護婦が振り向きざま腕を突き出し、グサリと警官の喉に注射器を突き刺した。そのまま手のひらでグッと中身を押し込んだ。

「ぐうううう~……」

 瞬時に警官は目玉から火を吹くような衝撃を感じ、喉を押さえて後ろにひっくり返った。顔が紫色になりガタガタ激しく全身が痙攣した。

 看護婦はゆっくり色川を見下ろした。

「うううう~~、うううう~~、うう~~~っ」

 色川は、涙を浮かべて恐怖の悲鳴を上げ続けた。看護婦の手が、ゆっくり、色川の顔へ伸びていった。



 病室に警官が倒れ、色川祐介がいなくなっているのが発見されたのは八時三十五分、本物の看護師が検温に訪れた時だった。院内に緊急警備が敷かれ、直ちに本署に通報が行き、周囲にパトカー、警官が配置された。

 昏睡状態で倒れていた警官は医療器具の洗浄液を打たれたらしかった。しかも気管=肺にそそぎ込まれており、ショック状態を起こしていた。明確な殺意が感じられた。緊急手術が行われ予断を許さない。

 色川の犯行とは思われない。何者の犯行か?

 女性看護師が一人出勤しておらず、連絡が付かなかった。事件に巻き込まれた可能性が心配された。

 色川はどこに消えたのか?

 それは、じき、見つかった。



 ナースステーションから屋上の鍵がなくなっていた。警官が婦長から予備の鍵を借りて行ってみると、鍵はかかっていた。しかし開けて屋上に出てみると、果たしてそこに色川は発見された。

 屋上はこうした施設なので自殺防止のためフェンスは高く、先が内に折れて乗り越えられないようになっていた。しかし色川がいたのはフェンスの所ではなく、鉄の架台に載った円筒形の貯水槽の上だった。

 彼は首のコルセットを剥ぎ取り、鉄製のワイヤを掛けていた。輪っかを首に掛け、とぐろを巻いた根元をタンクを上るはしごに縛り付けていた。

 警官は直ちに下に連絡し、ベテランの刑事が説得に駆けつけた。

「色川君」

 と、刑事は呼びかけた。

「何をしているのかね? こちらに降りてきたまえ」

 色川は刑事の声が聞こえていないようにぼうっと、灰色の空を眺めていた。雨はまだ降り続いている。

 刑事は色川の正面に出て注目させるように大きく手を振って呼びかけた。

「君は何故死のうとするのかね?」

 色川のうつろな目が刑事をゆっくり見た。

「死のうと……」

「そうだろう? なんでだ? 何で君が死ぬ必要がある? 君はいったい何に責任を感じているんだ? 教えてくれ、我々はさっぱり分からない。君は、それが言えるのかね?」

「……………」

 色川は疲れ切った顔でますますぼうっとした。少しは思考を働かせようとしているらしいがどうにも頭が働かないようだ。

 警官が一人に足場を組んでもらい色川の背後からタンクに取り付いた。できたら安全に降りさせたいが、この際多少の怪我をしようとタンクから降ろそうと考えた。タンクから跳んでフェンスの外へ、運動選手ならどうかという距離だ。

 色川はまっすぐ前を向いて、徐々に、ハッとした顔になった。ベテラン刑事は(いけない)と思った。

「色川祐介君!」

 刑事が名前を呼ぶのを合図に下で足を支える警官二人が(えい!)と勢いよく持ち上げた。飛び上がった上の警官は、足りない分を腕力で這い上がり、とっさの判断で色川の足を突き飛ばした。上手く行けば、ストンと尻餅つくはずだった。待機の警官たちが横から前からいっせいにわっとタンクに駆け寄り、落ちてくる色川を捕まえようとした。しかし色川は体勢を崩しながら腕を回して前のめりになると、水泳のスタートのようにジャンプした。片手がフェンスの先を掴み、ブランと揺れながらもう片方の手も取り付き、ガシャガシャ音を立ててよじ登った。警官たちが慌てて捕まえようとしたが、フェンスの高さが災いした。

「馬鹿はよせっ!」

 しかし、

「うわああああああああっ!!」

 叫んで色川は思いきり飛び出した。

 はしごに取り付いた警官が、降ってきたワイヤを捕まえようと手を伸ばしたが、

「ぎゃっ!」

 ビンと張るワイヤに指を二本弾き飛ばされ、鮮血が散った。



「!……」



 色川の体重を受けて、グッ、と締まったワイヤは、きれいに色川の首を切断した。

 胴体と首が分かれて下に落ちていった。

 跳ね上がったワイヤは白い壁に赤くしずくのはんこを押した。

 雨に濡れた地面に赤い色が広がっていった。





 現場は直ちにブルーシートが張られて目隠しされた。

 パトカーから降りた畔田は血の気の失せた顔を野次馬たちに向けた。規制線と警官に押しとどめられながら突発的なイベントに好奇のまなざしを向け、多くの者が携帯電話をかざして写真を撮っている。

「先生、あんまり顔を見せないように」

 出迎えた波多野に注意された。

「うん。そうだね」

 畔田は素直に従い、ブルーシートの幕をくぐった。畔田は灰色の目立たない背広に着替えている。和服では目立つからと。警察は事件をオカルト扱いしていることを世間に知られたくないし、畔田も事情は同じだ。

 畔田は立ち止まり、色川の生首と、首なしの体を眺めた。

 言葉のない畔田に寄り添い、苦り切った顔で波多野が言った。

「信じられねえ。同じ方法で、本当に死んじまうなんて」

 反応のない畔田にさらに言った。

「一度自殺に失敗した人間は、同じ死に直すにしても、怖くて同じ死に方はできねえもんだ。それを、やりやがった」

 波多野は生首をにらみつけ、ケッと横を向いた。腹が立ってならなかった。

 畔田はやっと言った。

「…………許せん……」

 その畔田にさらに追い打ちを掛けるように伊藤から報告がされた。

「用水路でここの看護婦、目加田聖子の遺体が発見された。頭を硬い、スパナみたいなもんで殴られてて、ひどいものらしい」

 くそっ、と波多野がわめいた。加賀が先輩たちにどうもと挨拶してやってきた。

「丸山巡査を襲ったのは大門マリイです。注射器と体温計から指紋が出ました。色川が首をくくったワイヤは外から持ち込まれた物です。その先の工事現場から持ち出されたようです」

「大門マリイは!?」

「見つかってません」

「先生っ!」

 波多野が噛みつくように畔田に迫った。

「いつまで続くんですかあっ!? みんな、殺されるまでですかっ!?」

「そのつもりだろうなあ……」

 もはや、いつまで続く、ではなく、どこまで広がる、になっているように思う。タクシー運転手や警備の警官や看護婦や。邪魔な者を手当たり次第だ。

「大門マリイですよっ」

 波多野は吐き捨てるように言った。

「色川は鍵を持っていなかった。大門がナースステーションから鍵を持ち出し、色川を屋上に出して、鍵を掛けたんだ。あのワイヤだって、色川が取って来れたわけがない。大門マリイの仕業だ。あの女が首吊りのお膳立てをしたんだ! 看護婦を殺したのも大門だ。ここに入るには入場証のチェックを受けなければならんからな!」

「チェックはどうやってるの?」

「警備員がいちいち見てます。しかし……、ちくしょう、大門には気づかなかったそうですよっ」

 波多野は完全に頭に血が上っている。畔田も暗い目でつぶやくように言った。

「もう……救えんか…………」

 気持ちを切り替えて問うた。

「大門の車はどうです?」

「まだどこにも引っかかっていません。しかしこうして本人が現れたんですから、今度こそ、捕まえてみせますよ」

 畔田は考えた。

「神宮周辺の警戒も厳重にお願いします。それと、B大学、N大学、双方職員生徒に注意を促してください」

 刑事たちは驚いた。

「大学に、大門が現れると?」

「可能性もある。言ってはなんだが、検問に大門の車は引っかからないと思うよ。彼女は手段を選んでない。周りを巻き込み利用するのに躊躇がない。危険な自分の車をいつまでも利用しているとは思えない」

「じゃ別の車を?」

「使うんじゃないかと思う。もう既に使っているかも知れない。全く関係ない一般人を襲うこともないではないが……、隠れ家もいるだろうし、事情の分かっている知り合いを襲う方が都合いいだろう」

 刑事たちは色めきだち、直ちに動き出した。

「もう一度大門マリイの関係者をチェックだ! 一人残らず本人を直接確認しろ!」

 さて大門マリイの関係者というのはいったい何人いるのだろうと畔田は思った。初田香織たちに聞いたところどうやら大門マリイは性格がドライで、特に仲のいい親友はいなかったようだ。一方裕福なお嬢さんで、つき合いは広いらしい。土曜日に阿藤桃子の誘いで合コンに参加したのは、たまたまスケジュールが空いていて、とりあえず暇だというその程度の理由だったらしい。

 ルックスが抜群にいいながら、性格的に問題のあるマリイは男たちへの当て駒としてちょうどいいと、阿藤桃子は思ったようだ。

 かわいそうに……、と畔田はやはり大門マリイに同情する。実際会っていたら畔田も苦手な女の子に思うだろう。しかしそれが悪霊たちにひどい目に遭わされていい理由にはならない。

(紅倉君なら救えるのだろうか?……)

 もう頼みの綱は彼女しかいない。しかし、少なくとも日中の到着は難しいだろう。

 敵の動きは異様に早い。畔田たち霊能者の存在を嗅ぎつけて邪魔される前にすべて片づけてしまう魂胆のようだ。

 彼女の到着までに自分がどれだけの被害にとどめられるか……。畔田はもはや完全な敗北者の心境だった。

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