第七章 赤錆


 さん、須貝明奈

  ……弱虫で泣き虫でちょっと自己チュー。本人はかわいいつもり。追いつめられるとヒスを起こす。めんどくせえ女。


 し、色川祐助

  ……お調子者の盛り上げ役。そのくせなんにもいいことの回ってこない損な役回り。あーあ、かわいそうに。チビ。




 五台のパトカーがサイレンを鳴らして清野病院に急行した。

 病院に近づくと、一台が、病院を望む道路端にタクシーを止めて外に出ている運転手を見つけてその前に止まった。

 降り立った警官が職務質問すると運転手は説明した。

「わたしね、N大学から学生さん一人乗せてきたんだけど、その学生さんがね、どうもあの病院跡に入っていっちゃったみたいなんだよね」

「男?女?」

「男だよ」

 警官は緊張し、相方が無線で本部に連絡する。四十代の、タクシードライバーにしては少々身だしなみの悪い無精ひげを生やした、あごの突き出たプロレスラーを小型にしたような運転手は続ける。

「いやあ、うっかりしててね、すごい事件があったんでしょ? その学生さん乗せた時はなんか騒がしいなくらいにしか思ってなかったんだけど、走ってる内にパトカーがどんどん走ってくるでしょ? 学生さんになんかあったんですかねえって訊いても、さあ、としか言わないで。でもすっごい顔色悪くってね。で、行き先が清野病院でしょ? わたしね、あそこはもう潰れてやってませんよって教えたんですよ。そしたら、いいんです、行ってください、ってね、自分が幽霊みたいな顔して。で、そこで降ろしてから、気になってラジオ聴いたらあの事件でしょ? もうビックリしてね。で、ビックリしてたらあの学生さん、フェンス乗り越えて中入っていっちゃって。気味悪くてねー……。こういうのって警察に報せた方がいいのかなあって考えてたら、あんたらが来てね」

 警官が人相風体を訊くと、それは色川祐助であるらしかった。


 警官たちは入り口を捜して建物の周りを歩いた。玄関の観音開きのドアは四角い取っ手同士がっちり鎖で巻き付けてある。新館の給食室の窓が開くのを発見して這い上がった。更に裏手で折れた桜の木にガラスを破られた窓を発見し、ここからも侵入した。他に入られそうな所は見つからなかった。色川が、もし中にいるのなら、どちらから入ったのかは不明だった。

 それぞれから侵入した警官たちはそれぞれ、

「おーい、誰かいるかー? 助けに来たぞー。出てきなさーい」

 と呼びかけて廊下を歩き、各部屋を確認していった。

 色川祐助は程なく見つかった。

 新館四階を見て回っていた警官が廊下を歩いていると、室内から物音がした。

 ナースステーションだった。

 ナースステーションは廊下側に大きなガラス窓があって中が覗けた。L字型の机の向こう、若い男の後ろ姿が外に面した窓の、戸の開いた窓枠に足をかけてよじ登ろうとしていた。

 男の首に、カーテンで作った紐が巻かれていた。

「おい、止せ!」

 警官が慌ててドアを開けると、男、色川祐助は、泣きそうに歪んだ顔を向け、横なりに外に飛び出した。警官はゾクリと一瞬立ちすくんでしまった。外から白い手が色川の腕を引っ張ったような気がしたのだ。

 下から「わっ」という声と、遠くからキャアという悲鳴が聞こえた。下に見張りの警官もいたし、廃病院の異様な騒ぎに向こうのJAビルから不安そうに見守るOLたちがいたし、駐車場向こうの表通りから眺めている通行人もいた。

「くそっ」

 と警官は窓から顔を出して覗き込んだ。色川は下の方の壁に背を付けて苦しそうにバタバタ暴れていた。カーテンの布が柔らかく太かったため首回りでクッションになったのだ。

「くそっ……」

 警官は迷った。引き上げれば首を絞める、紐をほどけば落下する。ロープ代わりのカーテンは窓と窓の間、窓一枚分ほどの幅の柱に掛けられている。カーテン一枚を柱に回して、結び目があり、継ぎ足したもう一枚が伸びて、先の輪っかに首を入れて色川はぶら下がっている。どこから調達したのか長いカーテンだ。計算を間違ったのか、長過ぎて、色川は二階と三階の間まで落ちてバタバタしている。

 警官はおーいと叫んだ。

「三階! 誰かいないか!? そっちから引っ張り込め!」

 しかし下の窓は開かない。

「えーい!……」

 仕方なく自分が走ろうとしたとき、色川がとんでもないことをしだした。

 壁を蹴ってバウンドし、


「ゲッ」


 と、あくまで首を吊って死のうとした。

「わっ、馬鹿……」

 仰向けでは勢いが付かないと見ると、色川は壁を向き、思い切り蹴って、首でブランとぶら下がって、振り子で戻ってくると、顔面を壁に打ち付けた。それを二度三度繰り返した。

「おっ、おいっ……」

 コンクリートの壁に赤い血が塗りつけられていくのを見て警官は腰が引けた。

「…………狂ってやがる…………」

 しかし気を持ち直すと身を乗り出してカーテンのロープを捕まえた。色川はバタバタと自傷行為をくり返し、警官は自分も危険な姿勢で少しでもロープの動きを抑えようと頑張った。

「おーい! 早く! 早くこいつをやめさせろおっ!」

 ようやく下の窓が開き、警官が二人手を伸ばして色川の体を捕まえ、窓の中に引っぱり込んだ。

 向こうの方で首からカーテンを外したらしく、軽くなった手応えに自分も手を放すと警官は床に降りて「ふーーー」と息をつくと、どっかと尻をついた。

「まったく、なんなんだよ………」

 しばらく放心して、落ち着きを取り戻すと警官は改めて室内を見渡した。時刻は四時になろうという頃、そろそろ夕方の薄暗さが気になり出す中、ナースコールのパネルの前に、警官は、なんとなく人が立ち働いている姿を想像した。病院は廃業したとは思えない整理整頓と清潔さを保っていた。

 警官は先ほど色川が飛び降りるときに彼の腕を引っ張った白い手の幻を思い出した。

 立ち働く看護婦たちのイメージが、ピタリと動くのをやめ、警官に注目した。

 警官は(ヒッ)と息をのんだ。

 コンコンとガラス戸を叩く音に警官はひゃあと飛び上がった。仲間が廊下の窓をノックし、ドアを開いた。

「ごくろうさん。まあなんとか助かったみたいだぜ?」

 警官は立ち上がり、「ああ……、そうなのか……」と、ぼうっとした顔で言った。

「大丈夫か?」

「ああ……」

「上は調べたか?」

「上?……」

「もう一つあるんだよ。隅から隅まで徹底的にってお達しだからな。おまえ、休んでるか?」

「いや、行くよ」

 相棒が歩いてくるのをドアを開けて待って、二人は揃って廊下を歩き、洗い場とトイレの間の狭い階段を上がった。



「女の子がいるかも知れないそうだな」

「ああ」

「ハーフの、モデルみたいな美人だってな」

「なに考えてんだよ」

「確認だよ、確認」

 二人は腰に下げた懐中電灯をつけ、隅の暗がり、枯れた観葉植物の鉢植えの陰、長椅子の下を照らして確認した。

「こっちは風呂だな」

 狭い通路を曲がると手前に男湯、奥に女湯が並んであった。

 手前の男湯のドアをガラガラと横に引いて開けた。懐中電灯で照らすと棚にかごの置かれた脱衣所だ。表面のザラザラしたガラス戸に外の明かりが滲んでいる。またガラガラ引くと、浴室だ。洗い場は病人のためにゆったり広くとってありシャワーが二つある。奥の家庭風呂よりちょっと大きな正方形の浴槽は、もちろん湯は入っておらず、懐中電灯で照らすとさすがにカサカサに乾いたほこりがたまっていた。床も溝が黒ずんで黴がわいている。

 確認を終え、行くか?と示し合わせてとなりの女湯に向かう。

 入り口のドアを開くと、なんとなく男湯より暗い感じがした。ガラス戸に映る日明かりが暗い。

「おい!」

 二人はさっと緊張した。

 床に、女物の服が脱ぎ捨てられている。ブラジャーにパンティーも。

 一人が衣類発見の旨無線連絡した。

「行くぞ」

 ガラス戸に向かうと、


 ピチャン、


 と、水の音がした。

 一瞬止まった手を取っ手に掛け、引いた。

 途端に湿った錆び臭い空気が吹き付けてきた。

 女湯が男湯に比べて暗い理由が分かった。二重窓の内側のブラインド式の回転窓が閉まっているのだ。

 足を踏み入れると、ピチャンと、床が濡れていた。その場にとどまって懐中電灯の明かりを巡らせていく。

 天井に水滴がいっぱいぶら下がっていた。

 窓の下で陰に沈んだ浴槽に、縁いっぱいに水が張っていた。

 しかし変だった。

 色が付いている。懐中電灯の光では判然としないが、赤茶色い。

 そして、

 中央に小さな丸い山が浮かんでいた。

 二人は懐中電灯をそれに当てて近づいていった。ピチャピチャ濡れた床を踏んで。天井から降ってくる水滴が手や肩で弾けた。

 水面はやはり濃い赤茶色が全面を覆い、下は見えなかった。浮かぶ丸い物も赤茶色に汚れているが、その物自体は白くなめらかだった。

 一人が引き寄せられるように手を伸ばし、それに触った。かすかに沈んで、浮き上がり、いっぱいに張っていた水がザバリとあふれて二人の足を濡らした。かすかにぬるかった。床に、革靴の上に、こまかな赤茶色のまだらができた。どうやらそれは大量の赤錆らしかった。

 二人はまるで憑かれたようにじっと丸い物を見つめた。どういう対処が正しいか? 仲間……刑事や鑑識が来るのを待つべきか。しかし一介のお巡りさんがこのような現場に巡り合わせることは滅多にない。好奇心……その丸い物の下に続く物を見てみたいという誘惑が、抑えがたくわき上がってくる……。

 一人が掴み、軽く揺すった。動きは鈍く、元の位置から動こうとしない。ここで警官はハッと実に当たり前のことを思い出した。

 まず、生死を確かめなくてはならない。

 腕まくりをし、見当をつけて水の中を探り、けっきょく浮き上がっている部分から下に手探りしていった。手先が何かザラザラ嫌な感触を得た。何かが大量に「女」の上に乗っている……。

 ゴボリ。

 大きな泡が浮き上がって弾け、ゾロリ、水面下で女の体が動いた。

 頭をのぞかせていた膝頭が浮き上がってくると、足先がにょきりと飛び出した。そして二本の腕が。

 警官が慌てて腕を引っ込め、その時とっさに浮かんだ言葉は、

(グチャグチャ)

 だった。

 まとまっているから切断されているわけではないだろうが、足と、また足と、腕と腕が、バラバラに、あり得ない向きに突き出していた。

 ゴボリ。

 赤い泡が弾けて、ぐるりと手足が回転し、女の臀部と、顔が、浮き上がった。

「ぎゃっ、うわああっ」

 大の男、警官二名が、悲鳴を上げて飛びずさった。

「どうした!?」

 無線を受けて上がってきた同僚たちも、懐中電灯の光の中にそれを見ると息をのんで立ち尽くした。


 真っ赤な錆に隈取られた女の恐怖と苦痛に悶絶した凄まじき、ゆがみきった、顔。


 グググ……ゴボンッ。

 ググゴゴゴゴゴゴゴ!……ゴボッ!、グゴゴゴゴゴゴ!……


 異様な音と泡をを立てて浴槽の水が抜け出した。水が減っていくと栓のあると思しい場所からブシュッブシュッと激しい噴出が起こった。赤黒い、血のような。錆とどぶの臭気が混じり合った強烈な臭い……つまり臓腑の臭いが、室内に充満した。

 警官たちはたまらず口を押さえ、堪えられず、吐いた。



 水が抜けてそこに現れた物、それは、

 まるでヨガの達人のように体と手足を折り曲げ、結んだ、あり得ないポーズを取った女の裸体だった。

 白い肉体は大量の赤錆に汚れ埋もれていた。

 蝶結びのポーズ、とでも言おうか。

 斜め後ろに折り曲げられた腰の、乳房の下のあばらがやたら突き出しているのは、折れて押し出されているのだろう。

 顔は、それこそ己の腕で首をくくったように後ろにギリギリつり上げられ、横向きに肩に乗っていた。

 股が限界を越えて開き切り、突き出され、女の秘められた肉が見せつけるように剥き出されていたが、もちろんそれを見て欲情する男はいなかった。


 女は両手に、かきむしった黒い長い頭髪を握りしめていた。水抜き栓の付近にも錆にまみれて大量の女の毛髪がとぐろを巻いていた。



 女は、須貝明菜だった。

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