第四章 疾走


 いち、麻倉尚樹

  ……ガタイがいい。後ろからみんなを見守る頼れる兄貴タイプ。を気取っているが、頭の回転の鈍い、うどの大木。鈍い分、キレると暴れん坊大将。




 日曜の午後、畔田俊夫は紅倉美姫の邸宅を訪れた。噂には聞いていたが都内中心部のお屋敷街に広大な敷地を持ち、どっしり堅牢華美な、贅沢に平屋の広い邸を見て、改めてとんでもない娘だなと思った。自分の持ち家ではなくさる大物政治家の裏財産であるのを只に近い家賃で借りているということだが。

 駅まで迎えに来るという紅倉のアシスタント芙蓉の申し出を断ってここまで散策がてら歩いてきたが、どうやらそれは正解だった。

 芙蓉も紅倉も、そろってひどい風邪をひいていた。

「悪かったねえ、急にお邪魔しちゃって」

 大きなマスクをした芙蓉にお茶を出してもらいつつ畔田は恐縮した。早朝居ても立ってもいられず電話をして昼から訪ねてきた。訪ねてくることに、彼女を巻き込むことに、躊躇があったが、どうにも自分だけの手に負えるとは思えなかった。

「いえいえ……」

 向かい合う紅倉も大きなマスクの中でモグモグ言ってズルズル鼻をすすった。

「まったく、このところ夜遊びが過ぎましたね」

 アシスタントと言うより姉妹のように仲の良い芙蓉が遠慮なく紅倉のとなりに座って言った。

「はいはい、ごめんなさい」

 紅倉は素直に頭を下げて謝った。私生活においては芙蓉の方が完全にお姉さんだ。

「それで」

 と紅倉は病に疲れた目を畔田に向けて問うた。

「わざわざ先生が見えられたのは南の方の問題ですか?」

 畔田は重苦しく頷いた。

「君も分かったかね?」

「まさかそこまでは。先生のお電話の声で感じられました」

「そうか。君がその程度に感じただけなら、僕の杞憂かな?」

 畔田は少し安心したように言ったが、紅倉は見抜いて言った。

「ご覧のように今のわたしは使い物になりません。先生の霊能力はとても優れていらっしゃいます。自分をごまかしてはいけませんわ」

「こりゃどうも。お褒めに与りまして」

 畔田は沈思し、お茶をすすった。

「美味いねえ。入れ方も上手だ」

「先生のお手並みを真似しただけです」

 畔田は芙蓉にニッコリ微笑み、もう一口お茶をすすると決心して言った。

「八月に放送された番組で僕は九州のある廃業した病院を紹介した」

 紅倉も別のコーナーで出演した「本当にあった恐怖心霊事件ファイル~夏休み恐怖現場スペシャル」でのことだ。別々の収録を編集した番組だったのでその時は顔を合わせていない。

「僕は現場に連れていかれて、霊視して、自分の見識を述べただけだが、その際にきちんとその場所の危険性を警告し、決して興味本位で近寄らないように注意したつもりだ」

 紅倉は頷いた。

「わたしも番組を見ましたが、先生の真摯な思いはちゃんと伝わっていたと思います」

 紅倉の慰めにも畔田の暗い表情は和らがない。

「僕は後悔している。いかにまじめに注意を行ったにしても、それが結局、興味を引き、人を招き寄せてしまう。僕は、あの場所をいかなる形でも世間に紹介するべきではなかったと悔やんでいる」

 まじめな畔田に紅倉は両手でお茶らけたポーズをとった。

「仕方ありません。わたしたち、それでお金をもらっているんですから」

 畔田は渋い顔で苦笑した。自分もそれなりのギャラをもらっているが、紅倉はその何倍もの金額を受け取っているだろう。

「僕はそう割り切れない。

 昨夜、夢を見た。とても、恐ろしい夢だ」

 紅倉は黙って聞く。

「人が死んでいく。次々に。とても、恐ろしい、残虐な死に方で……」

 畔田は辛そうにぐっと眉間にしわを寄せてしばし下を向いた。顔を上げて紅倉に問う。

「君は……、霊が人を殺す気持ちというものが、理解できるかね?」

 紅倉はマスクの中でニンマリ笑った。

「ええ。とっても」

 畔田はああいやだと頭を振った。

「僕には分からんよ、人殺しの気持ちなんて……」

「先生は善人でいらっしゃいますわね」

 紅倉の皮肉に落ち込みながら畔田は言った。

「そうだね。その僕の甘さが、あの場所の凶悪さを看破できなかったんだ……。あそこは僕が視ていたよりずっと恐ろしい場所だったのだ……」

 いつまでも悩んでいる畔田に紅倉は妖しい目つきになって本題を突きつけた。

「先生はどうされたいのです?」

 畔田はうむと頷いた。

「僕は現地に行く。なんとしても……、最小限の死者で終わらせたい……。できたら君にも来てほしい。是非、力を貸して欲しい」

 畔田はグッと頭を下げた。

「三津木さんや等々力さんには頼まないんですか?」

 件の番組のチーフディレクターと、その悪友の制作会社の社長だ。畔田はうーむと考え、首を振った。

「今回は頼めない。彼らが関わってしまうと……」

「これから起こることの責任を問われることになる?」

「うむ……」

 番組がきっかけで事件が起こり、自分たちが引き起こした事件を取材していたなんて事になれば、番組の存続が危ぶまれる事態になりかねない。

「それでもあの二人なら大喜びで首を突っ込みたがるでしょうけどね。むしろ仲間はずれにしたことを恨むんじゃないかしら?」

「いや、今回はやはり駄目だ」

「はいはい。律儀ですわねえ」

 紅倉は畔田の頑固さにお手上げした。

「美貴ちゃん。先生に飛行機のチケットを手配してあげて。それで申し訳ないけれど先生を空港まで送ってあげてちょうだいな」

 芙蓉は頷き、さっそく携帯電話を操りだした。

「行き先は?」

 芙蓉に紅倉ほどの霊視能力はない。

「大分だ」

 畔田は芙蓉の指の動きを見守り、紅倉に言った。

「すまないねえ」

「いえ。一刻も早く現地に行きたいのでしょう? ただし」

 紅倉は顔の上半分でもはっきり分かるひどく嫌そうな顔をした。

「わたしの到着は遅れますよ。この風邪ですし、わたし、飛行機は乗れないんです」

 紅倉はわざとらしくゴホンゴホンと咳をした。芙蓉が携帯の画面から目を離さず注釈した。

「先生はエレベーターに乗るだけで鼻血が出るんです。飛行機なんて乗ったら出血多量で死んじゃいます」

 紅倉は肩をすくめて見せた。畔田はガッカリしたように言った。

「そうか、たいへんだね。しかし、来てくれるんだね?」

「ええ。でも美貴ちゃんにも無理させられませんし、ま、ゆっくりのんびりと……」

 紅倉は芙蓉の運転する車以外では決して外に出たがらない。

 畔田は、落ち込んだ悲しそうな目で紅倉を見た。

「君は、あまり乗り気ではないようだね?」

「風邪なんです」

 またゴホンゲホンとやって、さすがにわざとらしさに白けて言った。

「本当に風邪なんですよ? そのせいかしら?バカな若者たちがどうなろうと、勝手に恐い目に遭えばいいと思っています」

「死ぬんだよ?」

「わたし、どちらかというと死んだ人の方が得意ですから」

 紅倉は携帯電話を相手にじっと押し黙っている芙蓉をちらりと気にして、さすがに申し訳ないような目をした。

「言い過ぎました」

「相変わらず、君は容赦ないなあ……」

 紅倉はすねたようにそっぽを向いた。畔田は本当に風邪で具合が悪いのだろうと思った。畔田の見るところ彼女の精神の根幹部分は、ひどく子どもなのだ。

 芙蓉が十六時出発便のチケットが取れた旨伝え、

「ではお車の準備を」

 と立った。紅倉は小さな声で

「ごめんなさい」

 と謝った。芙蓉は

「分かってます」

 と言って部屋を出ていった。畔田は

「君たち、いいコンビだねえ」

 と微笑んだ。紅倉はすねて

「さっさと行ってください」

 と、手でシッシッとやった。畔田は立ち上がり、

「君が来てくれるのを待っているよ」

 と、出ていった。




 畔田が大分空港に到着したのは十七時四十分だった。荷物もなく、ぶらりと普段着で……畔田は常に和装である……ロビーを抜け、空港ビルを出ると大分駅までの連絡バスに乗った。空港と県庁所在地である大分市とは湾をぐるりと囲む形で離れ、およそ一時間の道のりである。畔田は駅手前の停留所で下りる予定だ。畔田の所得には過分であるが芙蓉の予約してくれたホテルにまず一泊する。一刻も早くあの廃病院に行きたかったが、あの地が自分の手に負えないのは分かっている、きっと数日の時間を要すると予感し、はやる気持ちを抑えてまずこの地に体調を合わせなくてはならない。残念ながら畔田の霊視能力では現時点でこれから連続する犠牲者たちの特定は出来ない。

 バスに揺られて夜景を眺めていると、昨夜の寝不足と過度の緊張疲れでついウトウトしてきた。

 夢うつつにどれだけ経ったか、畔田は突然激しいショックに打たれて跳ね起きた。畔田の動きにビックリしたとなりの婦人が不審そうに見て、「あ、」と声を上げた。

「鼻血が出てますよ」

「え……」

 激しいショックを顔に現したまま、畔田は指さされる鼻の下を拭い、確かに自分の血液を確認した。親切に差し出されたティッシュを礼を言って受け取り、鼻に当てると、軽く天井を仰ぎ、鼻血の収まるのを待った。鼻の奥がツーンと痛んだ。

 畔田はひどく青黒い顔色をしていた。

 腕時計を見ると針は六時三〇分を指そうというところだった。

「無力だ…………」

 畔田は無念そうに呟いた。

 今、若者が一人、死んだのだ。



 少し前。

 市街地中心部から少し外れた五車線の国道。

 平日なら帰宅ラッシュで渋滞する車が、早めのラッシュを終えてスムーズに、ビュンビュンとスピードを上げて走っていた。

 ヘッドライトの光線がせわしなく行き交う残像を、ぼんやりとした瞳に映す若者がいた。

 彼は道路縁のコンクリートブロックに囲まれた土の上に立っていた。歩道との緩衝帯で、灌木が植わっているが、彼が立つそこは木が枯れて干からびた根だけが残っていた。

 学生らしい彼は家からちょっとコンビニに用足しに出かけてきたようなラフなかっこうをしていた。

 自転車の女子学生が変なところに立っている大きな男性を気味悪そうに眺めて急いで通り過ぎていった。

 ぼんやり道路を眺めている彼の様子に変化が現れた。肩が上下しだし、息を吸いながら時おり震えるような動きを見せた。

 次から次にビュンビュン通り過ぎていく夜目に眩しい車のライトが、危険な催眠効果でももたらしているのだろうか。

「ハアー……、ハアー……、ハアアーーー……」

 肩の上下は大きくなり、呼吸は荒く、乱れていった。

 うつろだった表情が、今は鼻と眉間に深いしわを寄せ、それは狂犬のように凶暴なものになっていた。

「ハアアーーー……、ハアアーー……………、

 ハアアアアアアアアーーーー……」

 大きく息を吐き出した彼は、一歩、車道に下りた。

 車が猛スピードで走っていく。

 二歩、前に出た。

 車が行きすぎ、後続の車がパパアー!と鋭くクラクションを鳴らし慌てて中央寄りに避けて走り去った。

 三歩、踏み出す。

 パパパパパアー! パパパパパアー! キキイーッ!

 クラクションと急ハンドルのタイヤのきしみが連続する。

 パパアーッ!

「バカヤロウ!」と声が流れていく。

 ハアアアー、ハアアー……

 彼は凶悪な顔で次々迫ってくる眩しい光線を睨み付け、

 突如、

 光に立ち向かっていった。

 キキイイイイッ、と急ブレーキの身のすくむ音を発して車が避け、ガガン、ガン、ととなりの車に接触した。

「うわあああああああああっ!」

 彼は狂ったわめき声を上げて斜めに道路を走りだした。彼を避ける車が次々正規の車線を外れて隣と接触し、前後に衝突し、止まっていった。

 彼は、

 中央分離帯を飛び越え反対車線に飛び出した途端、車体の低いヨーロッパ車に真横からはねられ、その黄色いボンネットと屋根を側転して転がり、後続の車に頭からフロントガラスに突っ込んだ。急ブレーキが響き渡り、後続の三台が激突し、交通は遮断された。

「キャアアアアッ、キャアアアアアッ!」

 エアバックの上に乗り上げた、ガラスでグサグサに刻まれた男の顔に、女性ドライバーはありったけの声で悲鳴を上げ続けた。大量の血が、しぼんだエアバックを伝い、女性の腹部へ、ドクドク、流れ落ちていった。


 車十五台を巻き込む大事故を引き起こし、「自殺」を遂げたのは麻倉尚樹だった。



 この大事故はテレビの番組中、ニュース速報が字幕で流され、その後、九時前のスポットニュースで全国に報道された。

 紅倉美姫は居間でテレビを眺めていた。

 芙蓉が携帯電話を切り、言った。

「死者は一人、道路を横断しようとした男性だけです。しかし、怪我人多数、内重傷六人、内一人は……脚を切断する大怪我だそうです」

 紅倉は暗い声で言った。

「ホテルへ……、畔田先生に電話を掛けて」

 畔田は携帯電話を持っていない。ホテルのフロントに電話し、部屋に回してもらった。畔田が出ると紅倉は芙蓉から渡された携帯電話で話した。

「先生。すみませんでした。一晩休ませてください。明日、こちらを出発します」

 畔田は、『ありがとう。待っているよ』と言った。

 携帯を受け取ると芙蓉も挨拶して通話を切った。

 紅倉美姫は血の涙を流していた。

 紅倉は霊能力を高め霊視を行うとき瞳を赤くし、目を充血させる。それがひどくなるとこうして血の涙を流すことがある。

「先生。今はまだお休みになっていてください」

 芙蓉は紅倉のとなりに座ると、肩を抱き、手で目を覆った。

「視えないわ」

 文句を言う紅倉に芙蓉はふむふむと頷いた。

「これはいい。わたしの手が先生の目隠しになるとは知りませんでした。さ、明日に備えて休みましょうね」

 手を離し、ウェットティッシュで血を拭いてやった。紅倉は大人しく霊視をやめて普段のブドウの実のような瞳に戻った。

 紅倉は短い霊視の感触を言った。

「先生も、間に合わないかもしれないわねえ……」

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