第三章 狂騒
新館に入り、「しーっ」と言う相川に従ってそっと足音を忍ばせて階段を上がっていった。新館は中央に細長い中庭があり、それをまっすぐの廊下が囲んで、外側に部屋が並ぶという作りになっている。狭い廊下が折れ曲がった本館に比べて整然としていて、階段も広くゆったりしていた。相川はどんどん上がっていき、「おい」と呼びかけると「いいから来いよ」と、とうとう四階まで上がり、病室の並ぶ廊下を歩き、更に奥まったところにある上りだけの狭い階段を踊り場まで上がると、ようやく立ち止まって振り返った。
「ほら」
耳に手を当ててみせる。祐助たちも耳を澄ませると……
あ……ああ……はあ…………
と、微かだが確かに女のあえぐ切ない声が聞こえてきた。まさかと思いつつ期待していた展開に祐助は体の一部が一気にカアッと熱くなった。女の子たちからもそわそわした空気が伝わってくる。相川はニヤニヤし、麻倉も『おいおい』と肩をすくめた。
相川は指で『行こう!』と合図した。女の子たちは手を振ったが、麻倉はぬっと前進し、祐助も『覗きたい!』と熱烈に思った。生の行為を見るチャンスなんてそうそうあるものじゃない。祐助はまだファーストキスさえ未経験だった。
相川と麻倉はそっと壁に寄り添って残り半分の階段をニンジャのように上っていき、祐助も女の子たちを置いていく後ろめたさを感じつつ誘惑に勝てずに後に続いた。
上まで登り切った祐助は壁に張り付いている二人の後ろから首を伸ばしてフロアを覗いた。外から見た記憶ではここは屋上に乗った円盤状の展望レストランか何かだと思ったが、実際はそんなに広いところではなかった。内側を四角い壁に切り取られて円はほんの一部しか残っていない。大きなガラス窓に向かってベンチが置かれ、ちょっとした休憩所のようだ。ここに座って窓からの景色を眺めたり患者同士おしゃべりを楽しんだりしたのだろう。円の大半を占めている四角い壁の方は……、
「ここ、風呂場なんだぜ」
相川がそっと言って指さすと、壁に「展望浴場」の案内プレートがあり、奥へ向かう狭い通路を矢印が指している。あっち側に入り口があるのだろう。「展望」と言うから、ガラス窓の並ぶ円の一部が浴場に含まれているのだろう。空の上のお風呂とは、なかなか気持ちよさそうだ。
通路の奥から女の切ない声は聞こえてくる。
声の続いているのを確認して男三人はそっと忍び足で通路に入っていった。
女の声が大きく、せっぱ詰まったものになった。
「あ、ああっ、……ああああ~~っ!」
確かに、祐助たちはその声を聞いたのだ…………。
絶叫と言っていいその声の後、フロアはしんと静まり返った。
懐中電灯はもちろんつけていないが大きな窓のおかげでかなりはっきり室内の様子が分かる。事の終わった様子に麻倉と相川は顔を見合わせてニヤニヤ笑っている。終わってしまった後では覗く気も失せたらしい。しかし祐助は一目なりとその生々しい痴態を見てみたいと思った。それで二人を追い越して独り角の先を覗いた。
「え…………」
思わず祐助は声を漏らしてかがんでいた姿勢をまっすぐ伸ばした。二人を振り返り、自分が見たものを確認するように言った。
「いないぞ…………」
二人はハア?と言う顔でやってきた。
いなかった。誰も。
そこも円形が切り取られた休憩所になっていて、階段側よりは横に広く、同じく窓に向かってこちらは二つベンチが並べられていた。事を行っていたとすればここだろうと思うが、当の二人の姿はない。
横を向くと、男湯女湯への入り口が並んでいた。
祐助たちがやってきたのに気づいてとっさに隠れたのかもしれない。
手前の男湯の入り口は少し奥まっている。しかし男湯も女湯も入り口のガラスは真っ黒だ。戸を開ける音もしなかった。
女湯の向こうに空間があって覗いてみると、洗濯機が並んでいた。おそるおそるその陰を覗いても人影はなかった。
「確かに……いたよなあ?……」
三人は立ち尽くし気味悪そうにお互い顔を見合わせた。
「じゃどこから……」
その時である、
ジャーーー、っと、水音、激しいシャワーの音が聞こえた。
三人はぎょっと、女湯の入り口を見た。
「この中か…………」
風呂場で、あの二人は事を行っていたというのだろうか?
そして、満足した体をシャワーで洗い流しているというのか?
おかしい。
あり得ない、絶対に。
そもそも水が出るのがおかしい。
いかにきれいなままとは言え、閉鎖して何年も経つ施設からまともな水が出るとも思えない。
この真っ暗な中で、いかに好き者だって、恐怖の本物の心霊スポットとして知られるこの場所で、風呂場で、セックスして、シャワーを浴びるなど、あり得ない!
男たちは気味悪く後退し、おかしな様子に上がってきた女の子たちが「ねえ、ねえ、」とひきつった顔で手招いた。
ジャーーー、っとシャワーは鳴り続けている。麻倉が見てみるかと指さすのを相川はブルブルと手を振って拒否した。
「ガシャンッ」
硬い物がぶつかる音が響いた。シャワーを取り落としたのか? 女の子は揃って
「キャーーーーーーッ」
と悲鳴を上げ、男たちも一目散に駆け出した。
早く早くと女の子たちの背中を急かし、四階に下りると相川が追い越して先頭に立ち「早く、早く!」と皆を急がせ廊下を走り、さっき上がってきた広い階段を駆け下りた。カカカカカカカカカン、と音が派手に反響する。女の子たちも泣きそうになりながら必死に階段を駆け下り、祐助も最後尾に付いた麻倉に急かされて必死になって駆け下り続けた。
……ぁぁぁぁぁぁぁー、……
…ぁ…………
あああああああああああーーーーっ……………
遠くから女の悲鳴が聞こえてきた。
二階まで降りたところで相川はビクリと立ち止まった。
……ああああ……
…………
……あああああああああああーーーーーっ………………
また聞こえてきた。
相川に追いついた皆も荒い息を押し殺すようにじっと耳をそばだてた。どこからだ?
……ああ………
ああああああああああああーーーーーーー……
遠くから反響を繰り返してわあんわあんと震えが増幅して広がっている。真っ暗な陰の奥から凄まじい恐怖が伝わってくる。悲鳴の主は、絶叫しているに違いない。女の子たちはビクリと体を震わせた。祐助も脚がワナワナ震えて感覚がない。
あああああーーーー……
悲鳴はまた起こった。いったいどんな恐ろしい目に……、遭い続けて、いるのだろう?……
悲鳴にも訛りがあるのか、欧米人らしい、それは大門マリイの声に違いなかった。
しかし入り組んだコンクリートの壁に反響して出所がはっきりしない。
おそらく本館の、上の階。
「行こう」
麻倉が懐中電灯で廊下の奥を照らし先頭に立って早足で歩き出した。祐助も相川といっしょに追いかけだし、振り返り、
「君たちは車のところに戻っていて!」
と香織と明奈に言った。本当は彼女たちを送って自分もいっしょに下りたかったのだが……。
もう一本の懐中電灯は明奈が持っている。命綱であるかのようにしっかり握りしめて。立ち尽くす彼女たちに未練を残しつつ祐助は走った。
突然、
ビシイイイッ、 バリバリバリッ、
と、天が裂けるような凄まじい雷が鳴り、ゴオオオオオオ、と耳を圧する豪雨が降り注いできた。突然の局地的集中豪雨は昨今珍しいことではないが、しかし嵐が過ぎ去った後の晴天の空にこれはあまりに突然だった。
「うわっ」と声が上がり、カラカラと灯りが転がり、消えた。
え……、と、一瞬祐助の思考に停滞が生じた。すぐ側にいっしょにいたはずの男友達二人が突然かき消えたように感じたのだ。
ゴオオオオオオオ、と雨音は物凄まじく、真っ暗になった中、平衡感覚が著しく萎縮し、祐助は、闇の中、自分の存在さえ確かに感じることが出来なかった。
暗い。これまでの生涯で経験したことのない闇だ。
暗くて、堪らなく不安で、
怖い……………
「うわああああっ」と男の物凄い悲鳴が上がった。麻倉か、相川か、分からない。
祐助は「おい、おーい!」と叫んだ。豪雨に自分の上げた声さえ聞こえなかった。
どこだ? 麻倉! 相川! どこに行ったあっっっ!!!???
バリバリバリッ、と再び雷の轟音が降ってきた。
「…………………………」
自分の声が全く聞こえない。これだけ大声で喚いているのに。
祐助はいたたまれず走り出した。二人も自分を置いてどこかに逃げてしまったと思ったのだ。
バリバリッ!
轟音と共に闇が白く切り取られた。
鋭い閃光の中、天井からぶら下がる影を見た。
カッ! バリバリバリイッ!!!
くっきりと、
紐にぶら下がってだらんとした、男の姿が。
カッ!
ギリギリギリ、とロープを軋ませて男の体が回転した。
カッ!
こちらを向く。
カッ!
見開いた真っ白な眼球に、
カッ!
灰色の目玉が浮き上がり、
カッ!
祐助を見た。
バリバリバリイイイイイッ!!!!
長い廊下をロープに引っ張られて首吊り死体がこちらに向かって飛んできた。
祐助は悲鳴を上げて後ろを向いて逃げ出した。
向こうから、白衣を着た女の首吊り死体が、同じくロープに引っ張られて飛んできた。
目玉をむき出した凄まじい顔が。
「………………………」
祐助は悲鳴を上げ、
それから、後から思えば五分ほど、三人の男たちは悲鳴を上げて病院中を駆けずり回っていた。
そして、気が付けば豪雨はやみ、三人は本館の一室の入り口に揃って立って、中を見ていた。
そこに、大門マリイはいたのだ。
しかし、男たちは彼女を見捨てて逃げ出した。
美しいマリイは恐ろしい姿に変わり果てていた。
彼女は診察台に上げられ、その周りを数百の火の玉……鬼火が、飛び回っていた。
三人のうち誰が最初に逃げ出したか?、他の二人も非難できない。
見てはいけない物を見てしまったという強烈な後悔があった。
そもそも、
来てはいけない場所だったのだ。決して!
男三人は一人の女を見捨てて逃げた。
彼女はもう駄目だという間違いようのない認識があった。
彼女はもう、まともな人間ではなくなってしまった。
そうだ、彼女が悪いのだ!
彼女がここに来ようと言ったのだ。彼女が恐れを知らずズケズケと彼らのテリトリーに踏み入ってしまったのだ。
自業自得だ!
男たちはそう自分に言い訳して、逃げた。
車のところに、赤西翔太と阿藤桃子は帰ってきていた。須貝明奈と初田香織も。赤西と桃子は濡れていなかったが、明奈と香織はずぶ濡れだった。
彼らに相川は視線を落として真っ青な顔を振った。
「大門さんは? マリイちゃんは!?」
香織の問いに、麻倉も、祐助も、同じ真っ青な、吐きそうな顔を振った。
「どうしたの? マリイちゃん、いなかったの?」
黙り込む男たちを、祐助を、香織は非難を含んだ目で睨んだ。
「行こう。すぐにこの場を離れるんだ」
相川が言い、さっさと自分の車に向かった。
「そんな……」
抗議の眼差しを送る香織は、はっと、携帯電話を取り出した。
「やめてよ!」
バシンと香織の手から明奈が携帯電話を叩き落とした。
「逃げるのよっ!」
明奈はヒステリックに叫んだ。
「大門さんなんてどうでもいいわよっ! わたし、見たのよ、見ちゃったのよおおっ!!!」
ワアアーッと泣きだし、誰かをブンと殴る仕草をした。香織も顔を歪めると諦めたように黙って携帯電話を拾い泥を拭った。
赤西も桃子も何も言わなかった。暗い顔でさっさと相川の車に乗り込んだ。赤西が助手席に、桃子が後部座席に。
「行こうよ……ね?……」
祐助は力なく香織に言い、香織も頷いて麻倉がエンジンを吹かす車に乗り込んだ。明奈も泣きながら怒ったように乗り込む。祐助もドアを開いた。ほんのちょっとの躊躇の後、振り向かずに助手席に乗り込んだ。
「シートベルト締めろよ」
ぶっきらぼうに命令して麻倉は車を発進させた。相川の車も続いた。
大門マリイを置き去りにして、七人は呪われた清野病院を後にした。
こうして惨劇の幕は上がった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます