第二章 夜の病院

 フェンスの破れから侵入し、新館から本館の方へ壁沿いに歩きながら、どうせ中に入れるわけないだろうと思っていたら、一カ所、入れそうなところを見つけてしまった。

 本館と新館を結ぶ廊下部分が少しくびれていて、その本館の付け根の狭い壁にある窓に、昨日の嵐のさい雷が落ちたのか、幹が斜めに裂けた桜の木が壁により掛かり、その枝が窓のガラスを突き破って差し込まれていた。

「無理だよな?」

 と祐助は軽い調子で言った。

「小学生じゃあるまいし、木登りなんてしないよなあ?」

 ところが。

「ジャンケンだな」

 と赤西翔太が言った。祐助はさっき赤西が車の後部座席から阿藤桃子といっしょに降りたのを見た。ここまでの車中で二人にどんな会話があったのか、桃子は一人にやけた笑いを噛みしめている。祐助は腹が立ったが、

「ほら、ジャンケン、」

 ポン。とグーを出した。

「しまった、俺か」

 遅出しでチョキを出した赤西が白々しく言った。言い出しっぺで少しは悪いと思っているのだろうが、どうやら本気でこの中に入る気らしい。

 赤西はどうやってよじ登ろうかと試していたが、けっきょく窓枠に直接よじ登ることにした。祐助の背では無理だ。赤西は桜の枝を揺すって窓枠に残る鋭く尖ったガラスを掃き落とし、ジャンプして窓枠に捕まり、腕力で這い上がった。片足を掛け、枝に掴まってくぐるように頭を潜り込ませていき、バサリ、枝葉が覆い被さり、向こうへ消えた。

 懐中電灯の明かりが灯った。相川が声を掛けた。

「おーい、だいじょうぶかー?」

「オッケー。中はきれいなもんだぜ」

 ぐるぐると懐中電灯の明かりが回る。

「でもどこから入れるかな? ドアはどこも駄目だろう?」

 そう、出入り口のドアは全て取っ手にぎっちり鎖が巻き付けられ大きな南京錠が掛けられていたり、板が打ち付けられたりしている。

 今度は麻倉が言った。

「さっき歩いてきた、給食室か? あそこの窓が低かっただろう? あそこ開ければ彼女たちも持ち上げてやれるぜ?」

 明奈と香織はすっかり怖じ気づいているし、祐助もそうなのだが、他の男たちは女の子たちにいいところを見せてやろうとすっかりやる気になっているようで、赤西とすっかりいい感じの桃子も乗り気で、またマリイが、

「じゃ行きましょ」

 と、さっさと歩き出してしまった。祐助はだんだん本気でこの女が腹立たしく思えてきた。

 新館に戻って、端まで来ると、板の打ち付けられたアルミドアのとなりに比較的低い窓があった。

 マリイに先導されてそこまで来たが、内部の明かりが見えない。しばらく待ってもなかなか灯りがやって来ず、途中で扉が閉まってこっちに来られないかと思ったら、真っ黒な窓の中に突然不気味な男の顔が照らし出された。びびった祐助に他の男二人が大笑いした。浮かび上がった顔は赤西が自分の顔を下から懐中電灯で照らしたイタズラだった。男たちは大笑いしているし、かわいい桃子もクスクス笑っているし、美人ハーフのマリイはツンとしたクールな顔で呆れている。

 ちっくしょうと思っていると、

「ビックリしたよねえ?」

 と初田香織が声を掛けてくれた。

「うん。まったく、ひでえ奴だ」

 プリプリ怒った顔をすると香織はおかしそうにクスクス笑った。祐助の中で香織に対する好感度が一気に上がった。

 窓が開かれたが、よじ登るのは見た目よりたいへんそうで、長身のマリイが最初に相川の組んだ手に足をかけ、器械運動の体操選手みたいにスマートに乗り越えたが、他の三人にはちょっと無理なようだ。でかい麻倉が窓枠に掴まって体を斜めにし、相川に後ろから押し上げられながら桃子が麻倉の背をよじ登り、向こうから赤西に手を引かれて降り立った。須貝明奈も同様に登り切り、見ている祐助はなんでこんな面倒をしてまでここに入る必要があるんだと、呆れるより恐く感じた。まさか既にここに巣くう怨霊たちに引き寄せられているのではないだろうか?……

 女の子三人まで中に入ったが、どうも最後の香織は運動音痴らしく後ろから足とお尻を押されながらもズルズルと滑って麻倉の背を登り切ることが出来なかった。

「しょうがないなあ」

 相川がしゃがんで後ろから香織の脚の間に頭を突き入れようとした。香織は驚いて「キャッ」とスカートのお尻を押さえた。

「わっ、締めるな。肩車だよ」

 香織は恥ずかしそうにしながら相川に肩車され、なんとか向こうに引っ張り込まれた。香織の股を肩にかつぐ相川に祐助は嫉妬した。しかしチビの祐助では香織を肩車するのは難しそうだ。香織はちょっとぽっちゃりしている。

 相川がヒョイとよじ登り、麻倉が続こうとしたが、思い出したように振り返った。

「先行けよ。支えてやるからよ」

 祐助はまたなんで……と思いながら麻倉に足を持ち上げてもらって窓を越えた。


 外の窓明かりと真っ黒な影だけが奥に続いている。

 しんとした静寂を懐中電灯の光線が撫でていく。

 きれいなものだった。廃墟や心霊スポットにありがちなスプレーやマジックのらくがきなんて一つもなかった。

 中央部に行くと外の窓が無くなり本当に真っ暗になった。入り組んだ廊下を曲がりながら、明かりを求めて受け付けの待合所に出た。本館だ。

「ふー……」

 と息をついて相川がベンチに座った。赤西が座り、となりに桃子が座った。他は座らない。相川が言った。

「さってっとお、せっかくだから肝試しない?」

 明奈と香織は震え上がって首を振った。相川は残念と笑った。

「俺はちょっと見たくなっちゃったぞ」

 と、周りに首を巡らせる。今までのところ建物内はどこも傷んでおらず、まるで今でも普通に営業しているようだ。あくまで建物の状態が、だが。

「懐中電灯は二本か……」

 相川と麻倉が車に常備しているものを持ってきている。今日車に乗ってきたのはこの二人で、赤西は大型のバイクで通学しているし、祐助はまだ免許を取っていない。女の子たちは知らない。

「あの、一応俺も持ってるんだけど」

 祐助はポケットからアパートの鍵を出し、キーホルダーのペンライトを灯した。手元を灯すためだけのもので、心許ないことこの上ない。

 しかしそれを赤西が手を伸ばし「拝借」と取り上げた。

「俺も肝試しに賛成」

 桃子と目を合わせて妖しく笑った。まさかとは思うが本気でここでエッチをする気だろうか?

「じゃあ俺とペアを組む子はいない?」

 相川が誘いを向けたが誰も乗ってこない。相川は肩をすくめると立ち上がった。

「じゃ、俺はぶらぶら探検してくるさ」

 相川が歩き出すとマリイも歩き出した。

「おっ、来る?」

 マリイは首を振った。

「わたしも一人で見て回るわ」

 祐助はこの女はいったいどういう神経をしているんだと信じられない思いがした。

「じゃあ懐中電灯……」

 麻倉が差し出すのをマリイは首を振って断った。

「いいわ。彼女たちが怖がるから。もう目が慣れたから平気」

 男顔負けの剛胆ぶりに麻倉はヒューと口笛を吹く真似をした。

「じゃあ……、二十分くらいってことでいいか?」

 肝試し組の三者は「オーケー」と頷き合ってそれぞれ歩き出した。赤西と桃子は今来た新館の方へ戻っていき、相川は奥の別の廊下へ、マリイはエレベーター脇の真っ暗な階段を上っていった。


 二十分も立って待つのは辛く、残された四人も仕方なくベンチに座った。会話のない間に耐えられないように祐助は言った。

「あいつらおかしくないか?」

 何が?と三人は祐助を見る。

「だってさ、ここは、あの、清野病院だぜ? 夜中に来るだけだってビビるのにさ、どうして探検なんか出来るんだよ?」

「おまえのせいだろうが。あんな猥談するから」

「そうだけどさー……」

 祐助は納得がいかず女の子二人に意見を求めた。

「あれはまあ笑い話だよ? ちょっと悪趣味だったかも知れないけどさあー。でもさ、それでここに来る? 君たちはどう思う?」

 明奈が心細さにシクシク泣き始め、香織が肩を抱いて慰めた。香織が言う。

「わたしもこんなところ来たくなかったわ。夏にやってた心霊番組でも近づいちゃ駄目だって言ってたし」

「オレも見たぞ」

 麻倉が言った。

「『恐怖心霊事件ファイル』ってやつだろう? 霊能師のおじさんが絶対近づいちゃ駄目だって言ってたよなー」

 祐助は予告は見た覚えがあったが番組は見なかった。元々臆病で、本当はお化けなんて大嫌いだった。だったらなんで反対してくれなかったんだ?と麻倉を恨めしく思った。こいつはぼうっとしてる……と言うより、普段からどこか達観して状況を楽しんでいるようなところがあった。

 シクシク泣き続ける明奈を慰めながら香織が言った。

「二人が行こうって言うから……」

 彼女が言う二人は桃子とマリイだ。祐助が香織に頷いて訊いた。

「あのマリイって彼女がおかしいのはしょうがないにしても、桃子ちゃんって、まさかこんなところでエッチするような好き者なの?」

 まさか、と香織は嫌な顔をした。

「ふつうの子よねー?」

 明奈が泣いてうつむいたまま頷く。

「女同士だとちょっと活発でズケズケしたところはあるけど……、やっぱり今日の桃子は変だわ」

 麻倉がフフッと気持ち悪い笑いを洩らして言った。

「本番前の気分的な前戯だろ? ここを引き上げたらホテル直行だな。美男美女同士、羨ましいこったな」

 やっぱそうだよなー……、と祐助は桃子のことは諦めた。

 それにしてもだ。

「俺思うんだけどさー、やっぱまずいよ。俺たちここに引き寄せられたんじゃ……」

 明奈がますますひどく泣きだした。慰める香織に非難するように睨まれて祐助は慌てて言った。

「いや、だからさ。戻ろうよ、車に。ここにいるよりずっといいだろう? 車まで送ったら、俺がここに戻ってきてあいつらが帰ってくるのを待つから」

 後半ちょっとかっこつけると、麻倉にポンと肩を叩かれた。

「よし、行こう。ただし、戻ってくる必要はねえよ。向こうに行ったらあいつらのケイタイにメールしてやりゃあいい」

 祐助はああそうかと思った。麻倉がまた気味悪く笑った。

「あいつら着信音に飛び上がってビックリするぜ?」

 祐助も想像して愉快に思った。さっき脅かされたお返しだ。元気になって

「行こう」

 と立ち上がった。女の子二人も笑いながら立ち上がった。


 歩き出し、廊下を曲がると壁の向こうからカツカツと足音が近づいてきて、さっと緊張した。麻倉が灯りを消し、曲がり角の隅に四人で固まって息を殺した。カツカツと足音が近づき、角を回って黒い影が現れた。影は祐助たちのすぐ側まで歩いてきて

「わあ」

 と声を上げた。相川だった。

「なんだよ、脅かすなよ」

「そっちこそ」

 心臓が飛び出るほど驚いた。相川と麻倉は懐中電灯をつけて互いに相手を照らして眩しそうにした。祐助が女の子たちと車に戻ることを告げた。相川はそうかと頷きながら、ニヤッと嫌らしい笑いを浮かべた。

「その前にさ、ちょっとつき合えよ。面白いことになってんだよ」

 なんだよ?と訊くといいからいいからと答えず、ニヤニヤしながらしきりに手招きして歩き出した。祐助は麻倉と顔を見合わせ、女の子たちに、

「行く?」

 と訊いた。二人は迷いながら、この建物に入ってからもう二十分経っただろうか?静まり返って怖くはあるが何もそれらしいことは起こっていない、シクシク泣いていた明奈の方が香織に「行ってみよっか?」と積極性を見せた。香織は一人置き去りにされる怖さに渋々同意した。

 満足そうにニンマリする相川に続いて四人は歩き出した。

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