第2話 課題図書はいずこへ

 太郎は気を取り直そうと夏の宿題をすることにした。

『「高木家の一室で、お話し合いが行なわれています。小一時間を予定していましたが、お話し合いは膠着し、深夜におよんでいます。本妻と愛人、そして夫。彼らをあきれ顔で見つめる知り合いの高木夫婦。…」』

 文科省推薦図書であるフランス書院の『下連雀離婚式の淫らな夜』を普段どおりに声に出して読んだ。

『「慰謝料、養育費、諸々あるわ。弁護士代もね」』

 太郎はページを進めた。

「(この間原稿五枚分無し)」

「えっ!」

肺病やみのバカ犬とたった二人の家にいて、

ひとりせっせとリイダアの獨學をする眼の疲れ…。


「あっ、ページがない。大切な夏休みの課題図書『下連雀離婚式の淫らな夜』のお話が切れている!」

 太郎は思わず声に出して言った。数ページが破られ続く文章がなくなっていた。片隅に「(この間原稿五枚分無し)」と殴り書きされている。

「タローさん、この本のページを知りませんか?」

 太郎は、小汚い雑種のタローちゃんに尋ねた。

「知るか、そんなもの」

 小汚い雑種のタローちゃんは、振り向きもせずテレビを観たまま答えた。しかし太郎が慌てふためいて、何度も本のページを数えている姿に少し同情したのか、あるいは興味を持っただけなのか、小汚い雑種のタローちゃんは言った。

「それがないと、この話しの辻褄上、なにか問題でも発生するのか?」

「いや、そうでもないんですが。この本を閉じれば問題はなくなり、このお話しそのものは、なにも無かったかの如く続いていくでしょう。ただ夏の宿題が出来なくなります」

「それは困ることなのか?」

「はい。ぼく個人としては夏休み明けにまたひとつエピソードが増えることになり、一波乱きますので」

 小汚い雑種のタローちゃんは、やっと振り返り太郎の困惑した顔を眺めて言った。

「この話しの作者にも責任があるよな?」

「そうとも言えます」

 太郎と小汚い雑種のタローちゃんが、ワープロを打つ作者の方を同時に見て言った。

「どこへやったの、お前?」

「分りませんが、探してみます」

 私は二人に向かって言った。


「どこにやったんだ、原稿はどこだ!いつまで経ってもこの話し進まないじゃないか!」

 小汚い雑種のくせに生意気なタローちゃんは、書き手である私を怒鳴りつけた。

「いま探していますから、もう少し待ってて下さいよ!」

 私も少し声を荒げた。

「こっちの世界には、やはりないと思います。そうするとそっちにあることになります。夏休み中に探し出して貰わないと」

 太郎も言う。

 私はこの物語を書いている机の周辺から、資料の山、本棚の隙間、ゴミ袋の中まで探したが見つからない。

 仕方がないので地元の市議会議員に電話で相談をしてみたら、「八幡様がお近いようですので一度、八幡様に聞いてみたらどうでしょう」とのことだった。

 私は八幡様になくなった『下連雀離婚式の淫らな夜』の数ページの在りかをお伺いに出かけた。


 井の頭池の弁天様への怒りが頂点に達しようとしていた八幡様は、白装束で額に「悪」と書いた鉢巻きを結び、神社の老木に鬼の形相でわら人形を打ち付けているところであった。

「弁天の野郎、有ること無いこと言いふらしやがって、今度こそはやってやる!」

 八幡様は叫んでいた。

「すみません。伺いたいことがあるのですが」

 私は震えながら尋ねた。いかんせん神さまに直で話しかけるなど初めての経験である。声も震えている。

「なんだよっ!」

 八幡様は鬼の形相で振り返った。

「なくしたものの行方が分らなくて困っています・・・」

「あっ、あれだろ。原稿だろ。そこにある。持っていけ。帰れ!」

 八幡様が指差した「おみくじ箱」の上に乗っている紙を手に取り、私は目をとおした。


『「…慰謝料とか、そういうお金の話しは後でまた」

 知人夫婦のご主人が、本妻をなだめるようにつぶやきました。

 重い沈黙がじわじわと下りてきて、皆を包み始めています。それがそれぞれの細胞から心の中にまで浸食していくようです。

 知人夫婦に飼われている小型犬が、窓越しに明滅する家の団らんを眺めています。その灯りがかすかに揺れていることに犬は気づいているのです。

「カキちゃん、もう寝なさい」

 沈黙を破らないよう、小声で子犬にご主人は言いました。大人の世界では、ときに破ってはいけない沈黙があるのでした。下連雀の夜は深い沈黙に浸されていきました」』


 見つけ出した原稿にはそう記されていた。私はいそいで家に戻りパソコンのワープロを起動した。

「見つかりましたか!」

 太郎が尋ねた。

「ありました。八幡様の所にありました!」

 私は、その原稿に記されていた文章を読み上げた。

「助かりました。これで夏の宿題が出来ます」

 太郎は喜んだが、小汚い雑種のタローちゃんは目を丸くして、アゴが外れるほど口を開けている。

「このくだりなくてもよかったよな、太郎の宿題云々は別として、このお話し的には。・・・しかし、そうもいかないし、話しに出てきた子犬の「カキ」と太郎の名字の「柿本」をかぶせて、お前を今日から「柿太郎」と呼ぶことにする」

 そういうことになった。他にはたいしたこともなかったので、この話を粛々と進めることにした。




(続く)


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