敗残者たち(旧 柿太郎さんの蚤退治)

しお部

第1話 登場

 連日の猛暑が続いていた。

 その日もおじいさんは、シルバー人材センターの仕事で、村立公園の芝刈りに行っていた。おばあさんは、そろそろ夕食の支度をと、東急ストア地下の食品売り場に向かって歩いていた。中央通りを日陰に沿って歩いても汗が噴き出る。持病の腰痛が、暑さに急かされた様に痛み出す。今年の夏はことさらに体力を奪っていた。


「かーきたろさん、かきたろさ~ん」

 通り過ぎる八百屋のくたびれた呼び込みが聞こえていた。

「季節はずれにもほどがある。この暑いさなかに柿食う馬鹿がどこにいるのだろう」とおばあさんは、心のなかでそう呟き、愛想程度に歩を緩め、また汗をぬぐった。


 東急ストアの店内は、さすがに冷房が効いていた。効き過ぎなくらい効いていたため、近隣住民のなかには熱中症ではなく外気との温度差による心臓疾患を心配するものもいるほどだった。

 店内に入るとおばあさんは気を失った。


 下連雀しもれんじゃく中央病院の救急救命センターでは、絶えず医師や看護師たちが動き回っている。次々に運び込まれる患者の家族が、顔を見合わせ、深い沈黙と饒舌じょうぜつな視線のなかで佇む姿を緩い廊下灯が照らしている。


「桃沢さん、ももさわさん。分りますか?」

 穏やかな呼びかけが、おばあさんの耳を動かした。

「急に暑いところから涼しいところに入ったから、一瞬、一瞬だけ心臓止っちゃったね。もう大丈夫ですから、病室に移ります」

 おばあさんは小さくうなづいた。


 病室では嫁いだひとり娘とその息子、おばあさんからいえば孫であるが、ふたりが呼び出されたのか、イスに腰掛けている。娘はスマホから目を離さないどころか、高校の頃からほとんど親とは話さない。

「ねえ、退院したら太郎預かってくれない?友達と旅行にいくんだけど」とスマホを眺めながら、息子の太郎の方をアゴで示して言った。

「枝子、柿本さんは、どうするの? 一緒にいくの?」

「あの人はひとりで留守番」

 枝子はスマホの画面をにらみつけて答えた。太郎はただ黙って下を向いていた。


 孫の太郎、つまり柿本太郎はこの夏休み、おじいさんとおばあさんのところで過ごすことになった。太郎は、友人たちとの遊びは付き合い程度ですませ、ひとりで本を読んで過ごすことを好む少年だった。小学校3年生ではあるが、所謂「名作」と呼ばれる文学にも目を通していた。芥川の『口』、漱石の『そのまえ』はもちろん、『カラマーゾフのゾフゾフ』や『時計仕掛けのスマホ』など海外の作品も好んで手にしていた。最近は連城三紀彦に夢中だ。


 太郎は友人たちにも母親にも自分を見せないように振るまった。彼の読書はそのための心理的な技術習得の用も満たしていた。隠している自分との会話が次第に彼の心の奥深くで文学を作り始めていた。

 その声はまるで「しおもっこ」のようでもあった。


「ただいま」

「キャン、キャン、キャーン!」

 おじいさんが芝刈りから帰って来たとたん、この老夫婦に飼われている子犬が待ちきれなかったかのように、尻尾を振り回しおじいさんに駆けよってじゃれつく。ひどくじゃれついておじいさんから離れようとしない。

「おお、タローちゃん。待ってたか?ご飯にしような」

 おじいさんは無心に顔をなめ回す子犬を抱き上げ、玄関を上がった。


 最近のシルバーの仕事はハードになっている。基本的に高齢者の有償ボランティアという建前で雇用契約ではないため、労働関係法の保護がない。報酬も半日働いてポカリが1本買えるかどうかだ。

「暇つぶしで生きてるわけじゃない。ポカリをよこせ」

 おじいさんも最近はシルバーの芝刈りに2日行ったら、たいてい4日は寝込んだ。


「太郎、何が食べたい?好きなもの何でも食べな」

 そう言いながらおばあさんは太郎に野菜炒めと漬け物を出した。

「ぼく、漬け物が食べたい」

 太郎はつぶやくように答えた。

 子犬のタローは、おじいさんにじゃれついたあと、おばあさんの膝の上で寝転び、満面の笑顔を振りまきながら尻尾を振り回している。

「沢山食べて、大きくならないとね!」

 おばあさんはそう言いながら太郎に漬け物をすすめた。


 おじいさんとおばあさんに必死で愛想を振りまき続けている薄汚れて小汚い雑種のタローは、太郎を見るときだけその眼差しのみならず、その眼光をも変えた。目が死んでいるのだ。全く生気のない目で太郎を見つめる。チャンピオンが4ランク下の挑戦者を見下す眼差しと変わらなかった。雑種のタローちゃんは新入りの太郎にマウントを取っていたのだ。


 夏のお祭りが近づいているようだった。「ようだった」というのは、近くに八幡神社があるのだが、基本的にお祭りの日時は決まっていないのだ。その八幡様と井の頭池の近くにある井の頭弁天の弁天様は昔から仲が悪かった。常にお互いの悪口や在らぬ噂話を参拝者に聞かせるのだが、年に何度か殴り合いに発展する。地域住民たちはその時を「お祭り」にしていた。


「そろそろお祭りだとみんなが言ってるよ」とおじいさんは、漬け物をつまみながら言った。

「それで今日、これから町会の緊急会合があるんだ。おばあさんも呼んで来いと」

「わたしも行くの?仕方がないねぇ」

 病み上がりの体にはきつかったが付き合いだ、仕方がない。自転車のライトが前方の道を探りながら小さくなっていった。


 孫の太郎は、ウンともスンとも言わず、テレビに夢中になっている小汚い雑種のタローちゃんの背中を眺めていた。

「トゥルルル、トゥルルル、ル!」

 電話が鳴った。

「お母さんからかな?」

 ふと太郎は思ったが、すぐにその思いを遮った。太郎自身が遮ったのではない。いわば「しおもっこ」のようなものが遮ったのだった。


「もしもし。桃沢さんですか?」

 受話器から声が聞こえる。当然である。これは電話である。太郎は、自宅にひとりで居るときには電話に出ることはない。両親に禁じられていたのだ。しかし今はすでに出てしまっている。何を言ったらいいのか分からない。どう答えたらいいのか分からない。知っている限りの電話対応の知識と技術を駆使するしかなかった。

「お電話、ありがとうございます」

「はっ?桃沢さんのお宅では…」

 あせりで頭が混乱した太郎は、続けて受話器に向かいまくし立てた。

「保険料は条件によって異なりますが、対人・対物は無制限、人身傷害と車両保険を付けてもこの価格です。年間走行距離が5千キロ以下でしたらこの価格です。さらに車両保険無しの場合、この価格になります」

 知っている電話対応のすべての力を出し切ろうと、さらに続けた。

「ご安心下さい、チューリッヒは事故対応でも高い評価を頂います。しかもロードサービスは業界最高レベルです。バイク保険もチューリ・・・」

 電話は切れた。

 太郎はため息をついて電話を切った。



(続く)


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