第十夜 喪ったもの

「沢崎さん、香織、寝ました」


「そうか。君はまだ眠れないのかい?」

 沢崎さんは、インスタントコーヒーをマグカップに淹れながら晴矢に聞いた。


 マグカップには、「正直」と書いてある。何のマグカップかは知らないけれど、沢崎の飾らない、実直な人柄が表れているような気がした。


「当直って、眠ってはいけなんですか?」


「いやいや、流石にそれはないよ。ちゃんと仮眠は許されているさ」


「さっきは、無神経なこと・・すみませんでした。眠れない理由の一つはそれです」

 沢崎は一拍置いて、


「僕は貞元君が三谷さんを危険を顧みず助けようとしたり、僕の奥さんの事について僕を傷つけたって気を使ってくれたりするようなタイプには見てなかったんだよ」

 晴矢はそんなことを言われてびっくりした。


「えっ、」

「あ、ごめん、以前から僕は君のことを一方的に知っていて勝手に嫌っていたんだよ。酷い話だろ?」

「正直そんな風に思われていたのはショックです」

 

 さっきは沢崎を脅そうとしたり、なんだか自分が滑稽に思えてきた。


「そうだろうね。でも、今日君のことを少し知ることができて自分が勝手に生徒を色眼鏡で見ていたことを恥じたんだよ。すまなかった」

 伏目がちに沢崎はポットからお湯をマグカップに注ぎながら言った。


「そういえば沢崎さんは俺の名前をちゃんと知ってましたよね。どうして俺のことを前から知っていたんですか?」

 こんなことを聞くと、自分が思いもしなかった自分の嫌なところを聞くことになるかもしれない。


 これ以上自分が傷つきたくはなかったけど、聞くべきだと晴矢は思った。


「まあ、いいじゃないか。もう僕は君のことを嫌ってないし、むしろ好感を持っているよ」

「だったら、沢崎さん。だったら、俺のことが嫌いだとか。言わなければかったんじゃないですか?」

「確かにそうだね。言わなければ良かったのかもしれない。でも言ってしまった。僕が大人としては未熟だからだ。」

 二人の間に沈黙が流れた。


「沢崎さんの奥さんは、どんな方だったんですか?」

 晴矢は、雰囲気の重さに負けて話題を変えた。


「そうだね、妻は、『ひとみ』って言う名前だったんだけどね。僕の二つ下で、ピアノが上手くて、生徒を取ってたんだ」

「そうなんですか」

「君はピアノを弾くかい?」

「いえ、俺はからっきし。ギターなら少し弾けます」

「へえ、ギター弾けるのか。羨ましいな。僕は全く楽器はダメでね」

「弾けるって言っても循環コードをいくつか知ってるだけなんで殆ど弾けないも同じですよ」

「ひとみはね、この学校の音楽教師だったんだよ」

「マジですか? 何年前ですか?」

「もう5年前になるね」

「職場結婚ってことですか?」

「まあ、そう言うことになるかな」

 沢崎は結構イケメンだし、優しそうだ。

 晴矢はどんなロマンスがあったのか聞いてみたくなった。


「どんなきっかけで二人は付き合うようになったんですか?」

「グイグイくるね。(笑)その時僕は赴任したばかりで、僕の一目惚れだったよ。音楽準備室に無理やり用を作って行ったもんだよ。ある日、意を決して告白したんだ」

「沢崎さん、見かけによらず積極的ですね」

「そんなに消極的に見えるかい?(笑)まあ、確かにそんな事はそれ以前には全くなかったからね」

「それで付き合うようになったんですか?」

「それがね。そうでもないんだ」

「えっ、違うんですか?」

「ひとみは、その時すでに癌が発見されていてね。付き合うのを断られたのさ」

「そんな…」

「片方の乳房を摘出しなければならなかったんだ。僕はそれでも構わない、って説得したんだけど、なかなかひとみは『こんな女じゃあなたが可哀想だ』って言って」

 晴矢には、継ぐ言葉が見つからなかった。


「結局ひとみは、治療に専念する事をきっかけに教師を辞めて、僕の家で生徒を取ることにしたんだ。」

 沢崎は噛み締めるように続ける。


「がん治療は健康保険だけでは金銭的に厳しいし、自分のペースでできる仕事って事でウチに来てもらうことにしたんだ。僕の実家には空き部屋もあったんでね」

「何とか説得出来たんですね」

「ああ。その後手術して、癌は取り切った、って先生に言われたのでそれを機に結婚した。でも、また再発したんだよ」

「取り切ったんじゃなかったんですか?」

「中々難しいらしいんだ。取り切ったと思っていてもそれでも再発しやすい体質の人はいる。特にひとみはその典型例だったみたいだね。」

 晴矢には適切な言葉はなかった。


「一昨年の暮れに再発、半年頑張ったんだけど…その…」

「香織のお母さんが働いてる病院にいたって、さっき香織が言ってましたけど」

「三谷さん、ひとみの生徒だったんだよ。レッスン中にひとみが体調を崩して、その時僕は家にいなかったから、三谷さん、咄嗟にお母さんに電話してくれたんだ。富士坂総合病院は、乳がんのスペシャリストがいるからって事でお世話になることになったんだ」

「それで香織は沢崎さんのことをよく知ってる訳ですか」

 沢崎が、手に入れて、喪ったものは晴矢にとっては計り知れないものだった。

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