第九夜 眠れない夜
沢崎が戻ってきて言った。
「太刀川先生には報告しておいたよ。『二人とも明日たっぷり絞ってやる』ってさ」
「ええええぇ!」
香織は自分の蒔いた種とはいえ、こんなはずでは……を繰り返していた。
「沢崎さん、僕ら停学とかですかね」
「さあ、どうかな。この程度と言ったらあれだけど、停学は少し大げさじゃないかな。反省文を書かされるのは間違い無いと思うけど」
「さ、沢崎さん! アタシ!」
泣きそうな顔をしながら香織は叫んだ。
「ごめんなさい、晴矢。こんな事に巻き込んじゃって」
「もういいよ、ってさっきも言ったろ? 気にすんなよ」
「でも……」
「君たちは、家が近いのかい?」
沢崎が話題を変えようと割って入った。
「ええ、そうですが」
「昔から仲が良かったんだね」
「い、いや、そんなこと…」
香織が否定する。
「まあ、幼馴染みなんで、色々気にかけてはいますよ。でも仲が良いかと言われると」
「そうか。でも、禎元君は三谷さんにとっては頼れる幼馴染で、三谷さんは禎元君にとってはリスクを取ってでも助けたい存在だってことだよね」
沢崎は目を輝かせながら言う。
「これって素晴らしい事じゃないかと僕は思う」
ああ、そういうものなのか、と晴矢は思った。
信頼。確かにそうかもしれない。
いや、ちょっと違うかも。
「さあ、明日はどうなるかわからない。もう遅いし、教室から歯磨きセットを二人でもっておいで」
「でも何処に寝るんですか?」
「君には悪いけど、僕と一緒に宿直室で雑魚寝だ。三谷さんは、保健室のベッドで寝るといい。鍵は僕が持っているよ」
「沢崎さん、一人で離れたところで寝るのは嫌です」
「し、しかしだね、中学生の男女を同じ場所に寝かせるのは流石に僕は容認できないな」
「沢崎さんも、一緒にいればいいじゃないですか」
香織は食い下がる。
「僕は宿直室に居ないといけない規則なんだ。済まないけど何とか我慢してくれ」
「沢崎さんお酒飲んで宿直室にいませんでしたよね?」
「おい、香織、その話はもう終……」
「一人にしないでよ! こんな台風の時にアタシを一人にしないで!」
香織の声は遂に涙交じりに変わった。
「わかった、わかった。じゃあ三人で保健室に行こう」
沢崎は細かい理由は尋ねなかった。
でも、晴矢は香織が一人きりになりたくない理由を知っている。
「君たちのことを信用していない訳ではないんだ。でも、禎元君はこっち。一つベッドを挟んで三谷さんはこっちで寝てくれるかな」
ベッドは三床しかない。
「沢崎さんは?」
「僕は、ここ」
沢崎は保健の先生の椅子を指差した。
「さあ、歯を磨いておいで。もう、寝たほうがいい。貞元君、三谷さんを頼む」
「はい」
俺と香織は保健室を出て、廊下を東に進んで左に折れたところにある洗面台で顔を洗い、歯を磨いた。
二人の間には一メートルくらいの間が空いていた。
お互い会話もなく、黙々と歯を磨き、口を濯いだ。
「歯磨きは終わったかい?」
保健室に戻ると、沢崎さんがその優しそうな顔をして言った。
「じゃあ、電気を消すよ。僕は、一回りしてくる」
ベッドの仕切りを引きながら、沢崎はそう言って部屋の外へ出て行った。
二人とも無言だった。ただ、吹き付ける台風の風の音と、窓ガラスに当たる雨の音だけが保健室に響いている。
晴矢は一刻も早く眠ってしまおうと思った。しかし、頭の中で今日起こった事がグルグル回って消えない。
自転車で台風の中堤防を走ったこと。
図書館の扉の鍵を釘抜きで壊したこと。
沢崎の秘密を聞いたこと。
波のように気持ちが高まったり、収まったりして自分ではどうしようもなかった。
すると、ベッドの仕切りのカーテンが突然開いた。
視線をそちらに向けると、香織が立っていた。
「なんだ、どうしたんだ? 香織?」
「晴矢、一緒に寝ていい?」
「でも、沢崎さんが…」
晴矢はそう言いかけたが、
「ああ、いいよ」
と、言い直した。
性的な衝動に負けたわけじゃない。こんなに脆い香織を突き放しては置けなかった。
「そのかわり、背中合わせでな」
「何言ってるの? 当たり前じゃない」
「ごめんごめん、香織に襲われたらどうしようかなって」
「本当にバカね」
香織は俺の照れ隠しの冗談に、そっと呟いた。
二人は背中合わせに狭い保健室のベッドに横たわっていた。
「ねえ、晴矢。もう寝た?」
晴矢は起きていた。眠れるわけなんてない。
ワザと軽いイビキをかいてみせた。
「寝ちゃったんだ」
(すまん。香織。精一杯の我慢をわかってくれ。多分、俺は今、少なくともこの瞬間は香織が好きなんだ)
そう心の中でつぶやいていた。近所に住んでいて、
気心は知れているお互いだ。
そして「あの日」が二人の距離を縮め、ともに苦しんできた。
そんな事を思っていると、
「晴矢、今日は来てくれてありがとう」
そう言って寝返りを打った香織は晴矢を背中から力一杯抱きしめてきた。
晴矢は腕をなんとか回して香織の頭を撫でた。
晴矢の中で何かが崩れたが、でも、これ以上のことはできない。
「ああ、バカだよ。俺は」
そういえば香織のいつもの「バカなの?」「がバカね」、に変わっていた。
晴矢は続けた。
「バカだけど、俺は香織の味方だぜ」
「知ってるよ」
香織はそういうと安心したのか、力が尽きたように眠りに落ちたようだ。寝息を立てている。
晴矢はそっとベッドを離れて香織を残して保健室を出た。宿直室に沢崎がいると思ったからだ。
「また明日な」
そう言って晴矢は保健室の引き戸をなるべく音を立てないように閉めた。
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