第2話 健忘症の女

 感覚だけが存在する空間。海のような空にモノクロの雲が見える。見慣れない雷雲よりも濃い黒の雲は見慣れた白い雲よりも大きい。

 しばらくその光景を眺めていると、地表に見える墨汁の海に衝突する。日陰の温度を持った柔らかなコンクリート頬をはじく感覚。海中は水面色とは違って透明で、外の様子がぼやけて見えた。

 そして光景は暗闇に溶けていく。


 意識が身体の感覚を捉える。拳を締める感触は少し懐古的だ。

 起きた心地はとても良かった。心身ともに正常で、脳内は無心に近く、見覚えのない天井により疑問符が浮かんだ。


 きょろきょろと眼球を転がし、体を捻って部屋の様子を眺める。

 私が横たわっている場所は、木製のフレームに白いマットレスを敷いたシングルベッド。天井には橙色に発行する白熱電球の照明。壁際には古風な西洋のタンスや姿鏡が設置されている。


 目標すらおぼろげのままベッドの掛布団を押し退け、足を床におろす。

 すると足の裏に保冷剤が接触したような冷気が走った。とっさに足を持ち上げ悲鳴も出た。

 「きゅっきゅっ」と雑巾で窓を拭いたような音が床から鳴る。恐る恐るベッドの脇を見下ろすと、透明に近い緑色の水風船が転がっていた。それを持ち上げるため手を伸ばすと、それは先ほどの音をあげて暴れだした。私の手を振りほどき、私の顔面に向かい跳躍する。


 視界一面が緑色がかり、呼吸も途絶える。

突然の出来事の中、呼吸困難の苦しさのあまり手足を振り回した。


 意識の奥で扉の開閉音が聞こえた。床から伝わる振動が徐々に大きくなり、人間の怒鳴り声がすぐそばで聞こえた時には視界も正常に戻り呼吸を妨げるそれも除去された。


 潜水勝負後のように息を荒くして深呼吸する私に対して心配する声が聞こえた。


「大丈夫ですか?」


 それはベッドの隣に立つ少女のものだった。

 紫色のミディアムヘアと頬のそばかすが特徴的な少女だ。胸に先ほどの水風船を抱きしめていた。


「ありがとう」


「この子がびっくりして攻撃しちゃったみたいで、申し訳ありません」


 その子というのは、その水風船のことだろうか。


「それは、生き物なんですか?」


「スライム、知りませんか?

名前はフレ。一昨日あなたと一緒に家に来たんですよ」


「私と一緒に・・・私が連れてきたんですか?」


「いいえ、先日兄があなたを遺跡から拾ってきたんです。この子はその時に懐かれて一緒に連れ帰ってきて、今は私が面倒を見ているんです」


「遺跡?」


「覚えていませんか?遺跡で衰弱していたそうですよ」


「ごめんなさい。わからないの」


 少女の言う遺跡に心当たりがない。そもそも、自分の職業や名前とそれ以外の故意に思い起こそうとするもの全てを思い起こすことができない。

 少女は当然な立ち振る舞いで私に名を聞くが、それに私が言葉を詰まらせ一向に答えを返さないことを不思議に思ったのか、どうしたのかと再び少女は私に声をかけた。


「思い出せないの。なにも思い出せないの」


「一時的に記憶が混乱しているのかもしれませんね。

とりあえず夕食にしましょう。話しているうちに何かを思いだすかもしれませんよ」


 中学生ほどの少女は意外に大人らしく話を進めた。少女の提案に頷き、少女の腕に抱かれたスライムをみて安心して私は足を床に置いた。


 少女の案内に沿ってわずかに痺(しび)れた脚を動かした。

 少女が足を止めた場所は、ダイニングのようだった。高い四つ足のダイニングテーブルの上にはスープ皿とパン屋にあるようなバゲットが用意され、入り口から最も遠い席に黒髪の青年がコーンスープを食していた。


「兄さん。起きましたよ」


 少女が兄さんと呼ぶ青年は口の中の物を飲み込み、立ち上がった。その人物に対して私は頭を下げ礼の言葉を口にする。この青年が少女の本当の兄ならば、衰弱した私を救ったのも彼だからだ。


 青年の名は『ディウ』そして少女はディウの妹の『リナ』という。18歳15歳と若々しい二人から、彼らの両親はすでに亡くなっていること、私が遠くの遺跡の中でゴーレムという怪物の死体の山の隣で衰弱していたこと、私がそれを行った可能性がとても高いことを教えられた。

 私はそれらの話を唯々聞くことしか出来なかった。結局のところ自分が何者でどこの者なのかを思い出すことはなかった。

 その教えられた情報通りならば、到底人間には手も足も出ないような怪物を大量に私が殺めたということだ。食事を終え再び部屋に戻った後、私は自身を嘗め回すように観察したのちにそれが非現実的と思った。しかし、それらの情報にあまり違和感や疑問はなかった。

 すると、視界の外にある意識の範囲。つまり意識の中に曖昧な描写が映る。霧がかったモザイク処理済みの記憶。

 それらを思い起こすも、それらは私の頭痛を酷く重度にし、手の甲を額に当てベッドに倒れた。脳と頭痛の質量がもたれ掛かるように瞼は意識に反して視界を塞ぐ。意識が遠退ながら、それらの負荷に嫌気はなかった。




 目の前の席で不安の表情を浮かべる無名の女性は記憶障害を引き起こしている。会話中の何気ない発言の中には聞き覚えのない単語が漏れていた。


 食事を終えた後も世話と同時に質問を続けた。出身国、恋人の名前、戦闘経験など。一時の間はモラルを忘れた。

 そして、話し疲れた女性は部屋に戻り、俺は今日の売上をダイニングで集計していた。寝巻に着替えたリナがこれを隣の席でまじまじと見つめる。


「眠れないのかい?」


「はい。こんな深夜(おそく)まで起きていたのは久しぶりだったので、目が覚めてしまうんです」


 壁掛け時計の時針は十二時を示していた。普段ならリナに就寝を促すが、森でのビルの言葉を思い出した。


「じゃあ、眠くなるまで少し話そうか」


「それなら一昨日の話が聞きたいです」


「わかった」


 俺はリナの希望通り女性とフレを拾った時の状況を、戦闘の部分を省いて話した。終始目を輝かせて聞き手を楽しむリナをみて内心喜んだ。


 父は研究のため家を頻繁に離れ、養子の俺がリナの面倒を主に見ていた。

 しかし、世間型の青春を捨て、店番、武術と刀鍛冶の修行と多忙の生活を送り、自然とリナの勉学は書物や勤勉な魔術師の友人に頼るようになっていた。

 父が死去した付近からか。国外の顧客やギルドの助人など、家と店の留守番をリナに頼むことが増えた。領土外はモンスターや盗賊の襲撃の危険がある。外国領土内では、王子と軍部将官ほどの実力との噂に踊らされた決闘者、それに愉快でない者たちの絡み。それらの危険に関わらせないためにリーム国外にリナを連れ出すことを今まで躊躇っていた。しかし、リナは書物や他人の経験以外でしか外の世界を知らない。


 圧倒的な経験不足が現在に支障がなくとも今後のために、躊躇を忘れることも必要だろう


「リナ」


 淡々とした呼名にリナは首を傾げたが、先ほどの興奮が残っているのか表情は笑顔に近い。


「旅してみたいか?」


 再び淡々な言葉に今度のリナの表情が変わった。表情筋を硬直させ僅かな時間考え込んだ末、返答は活気ある肯定の返事だった。

 今までに見ない好奇心に駆り立てられたリナの表情は俺の不安を和らげた。それが気休め程度なものだと心中察していても、妹の愛着の前にはないものと同じだ。

ただただ今はその天使のような笑顔に酔いしれていたかった。


 喜びの衝動から立ち戻りリナに就寝を勧めた。まだ話していたいと珍しく駄々をこねるリナの頭を愛撫する。柔らかく柑橘系の洗髪剤の香りのする紫色の髪の上を手の平が擦れる程にリナの耳が赤くなっていった。

 腰を落とし目線を合わせ、久しぶりにリナが見せた甘えに安堵しながら言った。


「わがままは遠出先に取っておきなさい」


 そしてリナは俯いたまま静かに自室に戻っていった。


 内心後悔している。リナが同年代の子と比べて現実的な思考を持ったか、ましてや要らない自制心を持ってしまったのではないかと気が気でなかった。


「リナさん、嬉しそうでしたね」


 女性だった。ダイニングの中を壁から隠れ見るような体勢でダイニングの入り口の柱にもたれ掛っている。


「起きてたのか」


「用を足したかったのですが、場所も分からないのでお二人を探していました。

ですが楽しそうに話していたので話が終わるまでと・・」


 そうかと言い、トイレの場所を教える。


 アンノがトイレに入った途端に急激に照れ臭い気持ちになり、赤く熱くなった頬をとっさに手の平で押さえる。何か立ち去りたくなるような心に沿って、寝室に戻りその日は就寝した。




 新しい名前をもらった日の翌日の朝。元の生活に戻りたい焦り以上に、新生活の出発に似た感情が色濃く残り、途轍もないさわやかに気分の起床となった。朝食を済ませたところでディウの勧めで三人一緒に買い物に出向くことになった。この町の説明と私の衣服を購入するためらしい。

 素っ気なく三人と言ったディウの後ろでリナが目を輝かせていたのが見えた。


 玄関を出て振り返る。赤茶色の焼き煉瓦の二階建ての建物は、玄関横にお洒落な彫刻で飾られたガラス張りの扉がありそこには「CLOSE」と書かれた木製看板が立てかけられ、ステンドガラスの装飾の先からフレがまじまじとこちらを覗いていた。

 その扉の奥について質問すると、あそこはディウとリナが親から継いで経営する武具店で、この町ではかなり有名な老舗なのだそうだ。


 城下町の衣服店に到着するまで会話を交わし、道中で目に付いたものについて質問し説明を受ける。

 店に到着するなりディウはリナに財布を渡し、自分は外で待つと店前のベンチに腰掛ける。


「兄さんの洋服も買いましょうよ」


「そうですよ。私だけのために来たとなると気が引けます」


「服は家にまだある。それにプライベートで息抜きする暇はないから、お洒落は二人で楽しんでくれ」


 私はそれでもと言葉を返したかったが、リナはすんなりとそれを飲み込んで私のコートの袖を掴んだ。「兄さんは放っておいて行きましょう」とリナは無理やりに私を衣服店に押し込んだ。


 ここは予想と違い衣服の類の陳列が少ない。街道から店内の状況が把握できるほどに玄関側の壁は一面のガラスで構成されていた。店内は古風な木造建築、生地に見えるロール状の布が棚に陳列し、衣服屋というより仕立屋に近い。

 店員がこちらに予約名らしき氏名を尋ねてきた。既存の商品を選別するつもりだった私は、慌てふためいたがそれにリナが丁寧に答えた。

 店員の反応からどうやら私たちの分の予約をディウが事前に取っていたようだった。店員が断りを入れてバックヤードに戻っていく。


 衣服の仕立となるとそれなりの代金が必要になる。それについてリナに生活費のことを含めて質問すると、兄妹の店は意外にも繁盛しているらしく、代金についての心配は不必要と回答された。

 ならば私は言葉に甘えて戻った店員の案内に沿って、採寸し要望を伝える。完成は二日後。私とリナは代金を支払い、店を出た。

 店先のベンチに腰掛けるディウが立ち上がり、リナが財布を返却した。


「どうだった?好きな柄はあったか?」

「それが。無地の物ばかり選ぶんですよ」


 もともと派手な服装を好まないが、柄物の素材と比べて無地物の金額が比較的に低いことも判別理由に含まれる。


「あんたがそれでいいのなら口出しすることはないよ。

俺だって地味で物しか着ないから」


「それは兄さんが仕事の服を着まわしているからですよ。

これから外にいっぱい出るんですから、たーくさんお洒落しましょう」


「そうですよ、ディウさん。自分のお金は自分のために使ってください」


「あいにく今まで金は稼ぐことばかりで、金を浪費することには疎くて」


「こいつの財力は異常だからな。町村レベルの資産が早々なくなることはないだろう」


 唐突に会話に割り込む声はディウの背後に立つ青年のものだった。海洋のように暗く蒼い瞳、黄鉄鉱を思わせる軽薄な黄金色の頭髪、清楚な印象を持てる白色の制服。年齢はディウと同等、身長は勝るだろう青年は馴れ馴れしくディウの隣に腰かけた。


「あの・・この方は」


「ビルさんです。兄があなたを発見した時に同伴していて、特別に入国させてくれたんですよ」


 一つお礼のお辞儀を入れ、質問した。


「ビルギットだ。周りと同じくビルでいい」


「ビルさんは、何をなさっている方なのですか?」


「こいつはこう見えても、王子様だからな」


「はい?」


 ディウの発言に驚愕することは必然だった。立憲君主国の象徴の一族が一般人の目前に白昼堂々と出歩いているのだから。


「そこの女はどうした?腰を抜かしたような表情だが」


「記憶を失っているらしくて、知識はあるんですが会話中に戻る記憶も断片的なんです」


「この国の事情を知らなくちゃ、ビルがこんなところに入り浸だっていることには驚くだろ。

主に自分の素性について思い出すことができないらしい」


「なるほど記憶喪失か。

ならば今説明した方が飲み込みやすいだろう」


 そうして私はリームという国について王子の話を聞き、王子とディウの関係について知った。

 この国の王族というのは象徴と力の二つを担っている。魔王を討伐した英雄の一族の名は『平和の象徴』として、また紋章と言われるその魔法以上の能力を『国の力』として軍職についているという。こうして自由に出歩いて行けるのはその実力の高さと平和そのものも国交にあるという。


「王子といっても他国の将校と変わらず、政治には一切関与しない」


「そしてその・・能力というのは一体どのようなものなのですか?」


「望むのなら俺は見せてやる。

ディウの方は判らんが」


 すっとディウの顔面を確認すると、「そのうち自然に見える機会が来る」と返答を受けた。


「こいつの能力の有無は有名だが、もしその能力を見たときは口外しないでくれよ」


「でしたら私は見ない方がよろしいかと。私の素性がわからないのなら、立場も危うくなるでしょうし」


「いや、軍事機密のような小難しい理由じゃない。こいつが嫌がっているだけだよ。

そもそも軍事に関与しているだけで軍人ではないからな。こいつの手の内が暴かれたとしても戦力差の縮小はあり得ない」


「あくまで一部軍人の装備を取り扱っているだけ。

こっちで考案した戦術と武装はしっかりと国側で買い取られるからな。他より稼げるけど、その分こいつの相手をしなくちゃいけない」


「お二人は仕事で知り合ったんですか?」


「お互いが小さい頃に俺が師匠に連れられて城に行ったときだったかな」


「そうだな。

臆病な泣き虫小僧の相談から始まった交友だな」


 ふとディウの表情を確認したが、ビルの訂正によってか私とリナから顔を逸らし落ち着いて表情を隠していた。

 その肯定ととれる素振りには年下のかわいげが混じっていた。


「せ、成長なされたようで良かったですね!」


 バツが悪くなったのか軽く咳払いを行ったディウがこの後について説明を始めた。


・簡単な診療

・服の仕立までの間に着る衣服の購入

・短期間身分証明書の発行


 しかしディウが同行する様子はなく、私の案内はリナとビルの部下が連れ沿うようだ。

 そして二人と別れた。




 妹たちと別れ、場所を人気のないカフェテリアに変更した。

出入り口から最も遠いテーブル席に着く。年上のウエイトレスに注文する。俺は紅茶とバタークッキー、ビルはコーヒーのみ。


「甘党は相変わらずか」


 ビルの嫌味ともとれるそれに俺はクッキーについて熱く端的に語る形で返答した。


 呆れた様子でビルは話を切り出し、テーブルに貧相な茶封筒を放り投げる。中身は入国用のVIP証明書だ。それをコートの内ポケットにしまう。


「ありがとう」


「重い腰を上げたな。いつか来ると思って事前に準備しておいてよかった。

あの女が原因か?」


「まぁな」


「また他人に後押しされたのか?」


「まぁ・・まただな

そしてこれが頼まれていたやつ」


 俺は嫌味たらたらの言葉を流し、鞄から取り出した書類をビルに差し出した。


「仕事が早いのは結構だが、友人の頼みとして迅速な対応よりも、丁寧で詳細な分析が聞きたいところなのだが」


「武器のプロとして、手を抜くことはない。

でも物が物だから完璧には至らなかったよ」


「ものがものか」


 書類の内容は女性が身に着けていた鎧の調査報告書だ。ビルはそれの表紙を開き大まかに目を通す。それを俺は到着した紅茶とクッキーを食して待った。


 書類を一通り読み終えた


「なるほど。

外装のほとんどが金属製の装甲、内部は繊維質の布製の戦闘服か。しかし、重量は昔のフルプレートほどで防御性能は未知数である。と」


「何か質問は?」


「装甲の材質と分析結果」


「材質は俺の手元の物とは何一つ合致しなかった。原材料から合金まで比較したがダメ。

分析結果というよりこれは性能分析だが、報告書の二十六ページにもある通り外装に大きな損傷は見られなかった。あったのは塗装剝げ、煤痕、擦り傷にゴーレムの鉄分臭い血痕。生半可な物理的攻撃じゃ被弾変形することもないだろうな」


「実際に試したのか?」


「まさか。

確かに鉄槌や拳銃で検証したいところだけど、なんせどこの国の物か分からないうえに使用者がいる以上深く追及はできない」


「その判断は助かる」


「王子様は国交を守ってお忙しいですね」


 お返しとばかりに俺はビルに嫌味を垂れる。挑発は受けるよりもする方が好きなようでビルは睨みを利かせ、俺はあの時のゴーレムに同情した。


「まぁとにかく、俺たちの知るよしのない技術があの装備には詰まっているってことだよ」


「個人が作ったのか、国や組織によるものか。含めて今後俺の方でも調査してみるとしよう」


 資料をどうするのかと聞き、ビルは投げるように俺に返却した。粗方の理由は予想できる。

もしもあの装備と女性の身元が判明していれば所属によって情報を開示していただろう。

 大きく政治に関与のできない王族、軍人が偶発的に外交摩擦を引き起こす可能性を減らすための彼なりの配慮だ。


「装備の報告は終わりにしよう。

使用者について、ディウはどう考えているのか聞かせてくれ」


 これについて報告することは皆無に等しい。当人は記憶喪失、身元を証明する物品すらない。


「まだ彼女が着用したことしか確認できていないし、あの装備を着てゴーレムの大群を壊滅させたことは、正直に怪しいな。信じられない」


「記憶喪失が原因で性格が変化している可能性あるが、見たところ争いに向く性格ではないな」


 俺があの女性について思い返していると、ビルのコーヒーが到着した。俯いてビルはコーヒーを口にする。


「期限があるわけではないからな。急ぐ必要もない。

と、こ、ろ、で」


 いたずらな形でビルは話を変えた。一枚の白黒写真を机の上に出す。その写真にはフードを深くかぶり口元を執拗に隠す男の姿が映っていた。隠し撮られたのか、人物写真としては異様な角度から撮影されている。


「最近、武器商人を殺し回っている暗殺者だ。

大国武器業者の役員の数名が鉈のようなもので刺殺されている。

戦争孤児の農民が大国の武器業者の暗殺を

依頼したらしい。依頼主は地元当局が取り押さえたらしいが、こいつの居場所は未だに不明で、残る役員や職人は保護されている」


「こいつが捕まるまで俺も保護されろ。そういうことだな?」


「いいや。知らせただけだ」


「は?」


 では何故知らせたのか。話の意図を理解できないままビルは続ける。


「あぁ、もちろんお前以外の武器業者の貴族は保護した。他業者の心配は無用だ」


 一呼吸を置きビルは周囲を警戒するように話を始める。ある程度の話の全容を察した俺はそれをビルに説明し、ビルは頷いた。

 つまり俺がこの暗殺者を捕縛することができれば良い訳だ。


 暗殺者の足取りを掴むことは国家機関であろうと至難の業。つまり、追えぬならば誘い出すことなのだろう。意図的に獲物を残し捕らえる。しかし相手は殺しを生業にする暗殺者、獲物周辺に憲兵が隠れていればいち早く察知することは解りきっている。


「ディウの実力なら殺されることもないだろ」


「まぁ、至近距離の殺気なら気が付くことができるし、早々殺されることはないな」


「あったな、お前の紋章の発動条件」


「実際、紋章の能力自体は発動できる。その条件が揃えば消費魔力が軽減されるだけだよ」


「王族以外の能力者は物珍しいが、能力もイロモノとはな。

将来、ホルマリン漬けで博物館に展示されないといいな」


 全裸で液体付けにされ、それを展示される自分の姿を想像できた。それは鳥肌ものだ。


「話を戻すが、お前の察しの通りこの暗殺者の捕獲に協力してほしい」


「いや、ほとんど強制的だろ」


「お前の行動を縛りはしない。

安心して、家族旅行は愉しんでくるといい」


「それはついでだって」


「出来の良い妹だ、無下に扱うなよ」


 鬱陶しく思いながら応答し紅茶を飲み干す。時計を確認すると既に昼時を過ぎ、街路は夕陽に焼かれていた。

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