218 前夜 その1
芸術家ケリケリュウスは、占拠する予定の小神殿での仕事を終え、自宅に帰る途中だった。
(ふう、今日もうまく描けたぞ。教皇就任祭までに完成しないのは残念だが……完成してしまえば立ち入ることができなくなるからな)
意図的に仕事を遅らせたのでは怠慢とされてしまうので画材の搬入を遅らせることでケリケリュウスは仕事の完了を遅らせていた。
通常ならそれも怠慢になるのだが、ちょうど教皇就任祭によって国内の資材がそちらに回されている事情もあって、ケリケリュウスの仕事の遅れは見逃されている。
――当然、ケリケリュウスの仕事先が占拠する予定の小神殿であることは偶然ではない。
処女宮が監督する神殿部のユーリ派文官に、ケリケリュウスに依頼が来るように頼んでいたためだ。
ただし処女宮はこういった動きを把握できていない。作戦が起きることは知っているが、その綿密な流れは把握できていないのだ。当然だが、万を超える人間が存在する神国国内の全ての人間の動きを処女宮一人で監視など不可能だ。ただしバリーたち諜報兵は処女宮に報告はしていないがケリケリュウス周りを調査した際にこれらの流れを把握している。
後日、内部監査を担当する人馬宮の部隊がこの件に関与したものを全て捕らえる予定であった。
ケリケリュウスが受けたのは、教皇就任祭に合わせて、小神殿内部に女神アマチカの壁画を描いてくれという依頼だった。
『芸術家』のスキルを使えば一瞬で描けるものの、それではスキルに
もちろん手作業と言っても『芸術家』のスキルが持つ様々な作業効率上昇アビリティは機能する。
そのため、ケリケリュウスはスキルのない世界で言うところの世界的な画家レベルの技量で壁画を描いていた。
そう、自分の才能を見込んで頼まれた仕事だ。
けして手を抜かずに丁寧にケリケリュウスは作業を行ってきていた。
家路を歩くケリケリュウスの全身には程よい疲労が滲んでいる。自分の技能を活かして人に喜んでもらえることが嬉しくてならない。
――それに、明日は教皇就任祭だ。
小神殿にも祭りを祝うために飾り付けなどがされており、立てこもりに使える食料や水などの位置をケリケリュウスは確認していた。
また当日の警備の人間の配置などもケリケリュウスは調べ終わっている。本職の諜報スキルがないため、多少不審には思われたかもしれないが疑惑のままならば問題はない。
準備は万端であり、あとは明日を待つだけだった。
これでようやくユーリのために働けるのだ。恩を返せるのだ。
「お、みんな来ているのか」
ケリケリュウスが路上から自宅であるアパートメントを見上げた、自室から明るい光が漏れている。
数人の人間のいる気配が遠くからでもわかった。
酒でも飲んでいるのか少し騒がしい声が聞こえてくる。少しだけ早足に歩道を歩き、階段を上がって自室に向かう。
「ただいま! 今帰ったよ」
ケリケリュウスは扉を開けて帰宅を告げれば、中からはおう、おかえり! などと複数の男女の声が聞こえてくる。全員知っている者だ。職人仲間や数学者、それに元山賊の人間が数名。
皆、ケリケリュウスと親しい、ユーリを慕う
大人数なため、テーブルは片付けられ、床に直接座った男たちがケリケリュウスに向かって酒の入ったグラスを見せた。
「ほら! ケリケリュウス、このクソ真面目野郎め。何突っ立ってるんだお前は、仕事が終わったら飲め飲め! 今日のために良い酒を買ってきたんだぞ!」
同志たちがケリケリュウスにワインの瓶を押し付けてくる。
ワイン――銘柄から神国がかつて帝国に輸出していたとされるワインに見え、ケリケリュウスは戸惑った。
「おいおい、こんな良いもの。いいのか?」
「いいんだよ! 明日の成功を祝って乾杯だ! ほら、飲め飲め!!」
高級酒だとわかり、おずおずとケリケリュウスはグラスを受け取った。
すでに酔いが回っているのか男はふらふらとした手付きでケリケリュウスのグラスに酒を注いでいく。
「お、おいおい。溢れる溢れる!」
「多少零れたって構うんもんかよ! 明日にはユーリ様が戻ってきてくれるんだ!! 俺たちはもっと豊かになれる!!」
ほら、と零れそうなグラスを口元に運ばれ、ケリケリュウスは慌ててワインを口に運ぶ。たまに飲むようなニャンタジーランド産の安酒と違う辛い酒にケリケリュウスは眉を顰めた。これが良い酒の味なのか。
「ほら、ケリケリュウス。そんな格好してないで座って座って」
中腰のケリケリュウスの肩に手が置かれた。
振り返れば妻のカーラがにっこりと笑ってケリケリュウスを床に座らせようとしてくる。
「なんだなんだ。君までそんな機嫌がよさそうに」
「いいのよ。だって、明日は皆の悲願が叶う日でしょ?」
床には誰かが持ち込んだのか絨毯が敷かれており、ケリケリュウスは妻の手に逆らわずに床に腰を下ろした。
「そりゃそうだがね」
カンパーイ、と言う声にケリケリュウスは眉を顰めた。集まった同志たちはまだまだ飲むつもりらしかった。
額を抑えたケリケリュウスは「おいおい、君たち! 明日のことも考えてくれよ! 酔っ払って当日を迎えるつもりか?」と注意するも、すでに酔っている仲間たちは逆に「ノリが悪いぞケリケリュウス! 景気づけだよ景気づけ!」とケリケリュウスを非難した。
――皆も、不安なのだろう。
酒でごまかさなければ、緊張で夜も眠れないに違いない。
まったく、とケリケリュウスは底抜けに明るく振る舞う仲間たちに呆れるものの、妻が「いいじゃない。楽しみましょう」と表の移動販売で購入したらしい料理を押し付けてくると仕方なく受け取ってしまう。
ニャンタジーランドから輸入したらしい、何かのモンスターに肉らしきものにかぶりつけばケリケリュウスの口の中に芳醇な肉の味が広がる。呆れが吹き飛ぶような旨さだ。
「……緊張して損したよ……」
「大丈夫。ちゃんと準備してきたんでしょう?」
「そうだがね――」
だがそんな騒ぎもそこまでだった。
ガタガタと音を立てて、部屋の中に侵入してくる集団がいたからだ。
ケリケリュウスたちの間に微かな緊張が走る。酔いも醒めたのか男たちが入り口に鋭い視線を向けた。
「なんだなんだ扉も開けっ放しで、ケリケリュウス。明日がめでたい日だからってうるせぇぞお前は」
楽器を手に、隣室に住む『音楽家』の友人が入ってくるところだった。
しかも友人の傍には友人が所属する楽団の人間たちも来ていた。全員が酒が入っているのか赤ら顔だ。
明日の計画を控えているケリケリュウスとしては友人といえど、何も知らない人間に来てほしくはなかった。
だが友人は「よし、せっかくだから一曲弾かせろよ。素晴らしき神国に! 乾杯!」と酒を飲みながら、楽器をどやどやと並べていく。
ケリケリュウスはこれでもそれなりに近所では名が通っている。ユーリ派として、それなりに成功している者として周囲が困窮しないように自分ができることをしてきたからだ。
――この音楽家の友人もケリケリュウスが
気分よく弦楽器を弾き始めた友人に、今さら出ていけと言う気にもなれず、ケリケリュウスは「一曲だけだぞ」と言った。同志にもそういうわけだから、と謝りながら、いきなりやってきた友人とその仲間のグラスにワインを注ぐ。
飲ませればとにかく全てを忘れるだろうという期待だった。
だがケリケリュウスの想いを友人は汲み取ってくれず、むしろそれで楽しくなってきたのか。
「おお! ありがとうケリケリュウス! おい、みんな素晴らしき隣人が素晴らしき恵みを注いでくれたぞ! この赤き女神の祝福に乾杯!」
べんべんと機嫌よく弦楽器を鳴らしていく。
音楽家のスキルの効果である心を落ち着けたり、気分を高揚させたりといった効果がやたらと乱発し、ケリケリュウスの頭がくらくらしていく。
しかし不快ではない
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