212 バリーという男
バリー・ザ・ホークマン。
神官服を着た、色黒の大男。元帝国の諜報兵。
ラムゼイ、ツクシの二人に簡単な諸注意をし、協力を約束したあと、彼らから離れたバリーは今は別の場所にいる。
廃ビルを改装した商店。その隣にある路地裏の壁に背を預けている。
生粋の神国人よりも神官服を着こなしたバリーは、疲れたような吐息を漏らした。
(……敗北し、衰えたな。私も……)
先ほどの出来事が脳に色濃く残っている。
ツクシと争ってしまった。
かつて帝国軍の諜報部隊の一つを取りまとめていた彼は、粋がっている若造の相手など何百としてきたはずだった。
だというのにあの有様だ。
以前のバリーならば、あのツクシと名乗った錬金兵に、力の差を思い知らせるなり、優しく懐柔するなり、どうとでもしたはずだった。
だが今のバリーの心には芯がない。
力や言葉で若い者を屈服させることが億劫になっている。
女神アマチカよ、力を、と彼は一言呟いた。気を取り直し、心を切り替えねばならなかった。
(
かつて帝国において『
ツクシに事件現場を書いてもらったものだ。現地に行き、すでに
心に芯がなくとも、身体に身についた習性が仕事を完璧に行わせようと――バリーは路地裏から表の雑踏に視線を向ける。
(雑踏の中に、
バリーが持つスキルは、七龍帝国の固有SSRスキル『
それは強い危機感知や敵意感知を持つパッシブアビリティを持つ
対国家――自身ではなく、勢力に向けられる敵意を感知することのできる非常に珍しいスキルだ。
このスキルでバリーは帝国の諜報能力をこの世界でもトップレベルに引き上げた。
それがここ最近の神国内でピリピリと強く作用している。
(私の弟子である『蛇の鱗』や『魚の鰓』が来ていそうだな……)
帝国の諜報兵の多くはバリーの弟子だ。
何十、何百と優秀な諜報兵を教え導いた彼は帝国の諜報兵に知己が多い。
連合軍に参加しなかった彼の部下は多くいる。それが神国に侵入しているようだった。
(説得は、難しいか)
弟子であっても彼らはプロフェッショナルだ。
バリーも弟子たちに裏切り者は殺せと教えた。
弟子とはいえ、帝国に忠誠を誓う彼らは神国に降ったバリーを許しはしない。
バリーであっても出会えば殺し合うしかないだろう。
今の腑抜けたバリーで、帝国のために戦う弟子たちに勝てるかはわからない。
(女神アマチカよ……我を守りたまえ)
神官服のバリーは聖印を握り、神に祈る。
裏路地に立つバリーは完全に神国の聖職者だった。
そう見えるように彼は振る舞っている。振る舞えている。
生粋の神国人に見える彼を帝国人と疑うものはいないだろう。
だから、そんなバリーを帝国人と見破れる者こそが帝国の諜報兵に間違いないのだが……。
(私は衰えた……)
あんな小僧のような年齢の神国兵に見破られてしまっていた事実に、バリーは自分の
肉体的には問題ない。だが精神的には悪い。
祖国と戦うことが問題なのではなく、未だに色濃く使徒ユーリへの恐怖が身体を這い回っているからだ。
敗北感がバリーの心をへし折ってしまっている。
――魔王ユーリ。
表では軽々に口に出せない言葉だが、使徒ユーリに対する元帝国兵の中での認識がそれだ。
モンスターを隷属させ、モンスターの軍団を操った少年。
どのような戦争でも圧倒的に勝利し、内政においては魔法や魔術のように国家を発展せしめ、神国を強国へと押し上げた偉人が彼だ。
それにと、バリーは未だ自分の脳に色濃く残る光景を脳裏に思い描く。
――それを思い出せば心が、魂が恐怖に震えてしまう。
思い出す。この国に来た直後のことを。
バリーが神国に降伏したのは最初はポーズでしかなかった。
バリーは神国に使われることで、捕まったとされる十二龍師の救出を行おうと考えていたのだ。
だから神国人が行う教化を受け入れ、だがその裏では強い意思で帝国への忠誠心を維持した。
そして、バリーが女神アマチカへ信仰を誓ったと確信した神国側の判断によって、諜報を担当する天蠍宮の元へとバリーは配属された。
――そのあとに信頼を得るのは、時間と根気の必要な作業だった。
天蝎宮はバリーが本当に降伏したのかを調べるために小さな任務を何度も与えた。
バリーはそれらの任務を、天蝎宮の意図を読み、その意図通りにクリアし、信頼を積み重ねていった。
次第にバリーには大きな任務が与えられた。バリーはそれらの任務をこなしながらも神国の内部を探った。
本来の目的を遂げる前に露見されることを恐れ、その情報を帝国に流すことはできなかったが、バリーは帝国一の諜報兵の腕で見事に目的を果たした。果たしたのだ。
そして偉大なる七龍帝国の十二龍師を発見し、
――精神の崩壊した、帝国の幹部の姿を。
帝国軍の幹部は地下の牢獄に入れられていた。
手も足も、目も耳も使えないように拘束され、呪いによってスキルも何も発揮できなくされていた。
牢獄の中で捕らえられている十二龍師の口には管が通され、そこから食事が供給されていた。殺さないように、とても丁重に扱われていた。
牢獄の中には小さなスライムが無数に這い回っていた。スライムは十二龍師の身体を這い回って、垢や糞尿を食らいつつ、死なないように丁寧にHPとSPを限界のギリギリを見極めて吸い取っていた。
尊厳も何もない、悪鬼の所業だった。バリーは助けねば、と思った。
だが自身のスキルの警告に従い、バリーは牢獄から脱出するしかなかった。
牢獄内に目に見えないが危険な生物がいることがわかったからだ。バリーの感知能力を上回る何かがいた。隠蔽スキルを持つスライムか、壁に埋め込まれたマジックターミナルか、それともバリーを超える能力を持つ神国兵か。
わからないままにバリーは逃げ出すことしかできなかった。
――そしてその夜、神国から脱出したバリーの元に天蝎宮が訪れた。
不可解だった。どうやって自分が牢獄に侵入したことを把握したのか。
そしてどうやって神国から脱出し、廃ビル街に潜んだバリーを捕捉できたのか。
殺意を漲らせた少女の暗殺者を前に、バリーは死を覚悟した。そして問いかけた。
なぜあんな酷いことができるのか。およそ人に対してすることではないと。
もちろんバリーも裏の人間だ。今まで様々な汚いものを見てきた。
だが、あのような冷たい陵辱は初めて見たのだ。およそ人の考える拷問ではない。もっと穏便に拘束する手段はあったはずだと。
バリーの問いに、天蠍宮は言った。
自分が考えたことではない。だが考えた人間を知っているので聞いてみる? と。
――使徒ユーリの声を、バリーはそのとき初めて聞いたのだ。
少年だった。本当に。なんの誇張もなく、小さな子どもだった。
バリーはユーリとスマホ越しにだが直接話した。バリーの問いに、ユーリは悲しみの籠もった声で言った。仕方がないことだと。弱い自分たちにはこうするしかできないのだと。もちろん説得に応じれば開放することもできたが、彼らが望まなかったと。誇り高い彼らをユーリでは頷かせることができなかったと。
バリーの身体は震えていた。ユーリは言った。連合軍に対してもそのようにするしかなかったのだと。
バリーのスキルがあの廃ビル地帯で機能しなかったのはそのせいだったのだ。ユーリには敵意などなかったのだ。
――バリーは、心の底から
そしてバリーはその返答で、帝国のためにユーリを殺せねばならないと強く確信した。
しかし、同時にバリーは考えた。考えてしまった。帝国に帰還したあと、この怪物を殺すことができるのかと。
帝国には多くの優秀な人間がいるが、バリーが恐ろしいと思えた人間はいなかった。
バリーにとって、彼らは人間だった。殺すこともできるし、同じ仕事をすれば自分の方がうまくできると思えたからだ。
だがバリーにはできなかった。ユーリに勝利できる想像が。使徒ユーリ。恐ろしい。恐ろしい怪物。生まれなければよかったのに。
廃ビルの中でバリーは天蠍宮と対峙しながら考えた。ユーリを殺す手段を。考えて、考えて、苦悩し、疲れてしまった。
――死力を尽くしてユーリを殺すだけの理由が、自らの中に見つけられなかったからだ。
様々な汚いことをこれまでの人生の中で行ってきた。
帝国のためだと女子供を殺したこともあった。
だが外から帝国を眺めるにつれ、帝国がそんなバリーの献身を無にするように、他国に遅れる姿を見てしまった。
戻れば、そんな帝国をバリーは他国を超える国にするために身を粉にして働かなければならない。もちろん愛国心や忠誠心はある。残っている。だからバリーは十二龍師を取り戻そうとしたのだ。
しかし、とバリーは唸った。帝国は、そのバリーの献身に、報いてくれるだろうかと。
この心に刻まれた恐怖を拭い去ってくれるのかと。
――悩み、結局、バリーは
心を後押しする存在には気づいていた。
バリーはその諦めが、神国にいる間に受けた教化が作用した結果だと理解している。
だが、それに抗う気にはなれなかった。
女神の教えに身を委ねるのが楽だったからだ。
女帝の、人間の判断ではなく、神に運命を委ねることが、心が疲れているバリーには心地が良かったからだ。
だから天蠍宮に、その先のユーリにバリーは跪き、再度の忠誠を誓った。
――ユーリは、それを許した。
バリーは心身ともに神国の諜報兵となった……そして今に至る。
(ああ、恐ろしい。恐ろしい。使徒ユーリよ……)
だからバリーは帝国の天秤宮暗殺計画を天蝎宮から聞かされたとき、帝国に戻ろうとは思わなかった。
むしろ今回の女帝の判断で完全に見切りをつけることもできていた。
(女帝よ……貴女は愚かだ。教皇就任祭で教皇を殺す? 女帝よ、貴女は間違えている。名前の大きさに踊らされ、本当に殺すべき相手が見えていない。そのような愚かな判断をする貴女に私はついていけない。忠誠を捧げられない)
バリーは女帝の殺害目標が別だったなら、全力を尽くして女帝に協力をした自分がいたことを否定できない。
だが女帝は誤った。間違えたのだ。
これで安心してバリーは神国のために働ける。
判断を誤る君主にはついていけない、と自分を騙すことができる。あの恐ろしい存在に立ち向かわなくて良いのだ。
(なぁ、女帝よ。殺すべきは使徒ユーリだったのだ)
不死身の天秤宮など捨て置けばいい。
ユーリを殺せば教区側をくじら王国軍は全軍をもって蹂躙できた。神国に激震を走らせることができた。
(だが、女帝よ。貴女は無意識にそれを避けた)
ユーリを教区に戻すことで王国軍にほどほどに苦戦してもらって、戦後に王国を一強にさせるのを嫌がった。
この期に及んで状況をコントロールしたがったのだ。
(女帝イージス。貴女は判断を誤った)
バリーは思う。自分が今から帝国と接触し、目標を変更することを強く訴えたとして、聞いてくれる君主であるかと。
否、とバリーは考える。帝国は貴族主義で、実力主義だ。
貴族でもなんでもなく、ただの敗残兵である自分の訴えを聞いてくれる相手ではないだろう。
だが、ユーリならどうかとバリーは考え、愚問だなと思った。思ってしまったのだ。
あの怪物は、脱走しようとする元帝国兵の自分に、情を持って質問に答えたのだ。跪き、許しを乞うバリーを許したのだ。
それが、バリーには恐ろしくてならなかった。
(女神よ。女神アマチカよ。我をどうか貴女の使徒から守りたまえ……)
――神に祈り続けなければならないほどに。
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