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俺は夜の闇の中に立っていた。
見上げれば、星の光がぽつぽつと豆粒のように空の彼方に見える。
――眼の前には、串刺しになった血まみれの女が俺を見ていた。
それは、記憶というよりも執念といった方がよかった。
始まったのは記憶の再生ではない。何かに細工をしたのか、過去の記憶の再現ではない。
「貴方は今すぐ死になさい。これ以上デーモンを殺してはなりません」
目の前の女が言う。俺が取り込んだデーモンの瘴気――否、取り込まれた死者である星の聖女の魂の声。
「ただしこの場で死ねば貴方もこの夢幻迷宮に取り込まれ、貴方の魂は強力なデーモンにされ、
夜の闇の中、数多の剣に串刺しにされた女の亡霊が、目の前に漂っている。今すぐ俺に死ねと囁いてくる。
拳を繰り出そうにも、まるで空気が石になったかのように身体が動かない。
――俺に死ねだと? この女は死してなお帝王の傀儡というわけか?
俺の魂から思考を読んだのか、聖女はすぐさま否定する。
「そうではありません。私の口からは語れぬおぞましき計画がなされています。貴方が今すぐ死ぬことでその計画を先延ばしにすることができるのです。善と正義を為したいのならば、幸福に妻に看取られて死にたいのならば、貴方は今すぐ死になさい」
息を吸うこともできない。星の聖女め。何を考えている。語れぬおぞましきだと? そんなものはいくらでもこの地下で見てきている。
貴様が聖女だというのならば、俺を納得させてみろ。
念ずれば通ずる。身体は動かずとも、厳然とした目で睨みつけてやれば、どこか年老いた聖女特有の、呆れた子供を見るような気配を聖女は見せた。
諦めたように聖女は俺を真摯に見つめてくる。
語ることはできないとその目が語っている。
何者かに語ることを禁じられているのか? 魂を取り込まれていると言っていたな。そのせいか?
「わかりました。では月神の騎士よ、迷宮上層に気をつけなさい。道化が邪悪な計画を立てています。可能ならば我が妹、哀れなカウスをこの場で殺しなさい。我が領域ならば貴方が失敗したとしてもあの娘の魂を守ってやれますからね」
どういう意味だと答えを得る前に、世界が薄れていく。
喋りすぎた、という顔を星の聖女はしていた。荒波のような、ときおりダンジョンの中で覚える破壊神の気配が迫ってくる。
気配だけで、俺と聖女の魂をかき回していく。
――なるほど。語れない、というのはこういうことか。
まるで奔流のような夜の世界で、破壊神の誅罰によって、俺の意識が散り散りに流れていく。
◇◆◇◆◇
「はッ――……!?」
目を開く。見覚えのある景色は地上前の善神大神殿前の広場だ。
猫はいない。ドワーフの爺さんの鎚の音が聞こえてくるが……なぜここに?
立ち上がろうとして、傍らに、大弓を背に聖女カウスが控えているのが見える。聖女カウスは俺が目を覚ましたことに気づくと小さく頭を下げてくる。
「すみません。キース様が急に気を失われたので転移の奇跡でこちらに運びました。我が姉たる聖女のデーモンの残したものはそちらに」
聖女カウスが指をさした場所を見れば、確かに聖女の脊椎や白駒に加え、金貨やソーマが置いてある。
治療のために外したのか、兜やハルバードが置いてある。
鎧は纏ったままだった。
装備はともかくドロップ品だと、こんなものどうでもいい――とは言えない。
かつてこのチェスの駒を取り込んでデーモンと化したリリーの存在がある。俺は急いで袋にそれらを納め、聖女カウスに告げる。
「地上に行くぞ。お前を殺す」
背筋がざわついている。俺が取り込んだ星の聖女の記憶が警告してくる。早く殺せと。
だが、ここで殺せば破壊神に魂を取り込まれる。ここが星の聖女の領域でないのなら地上で殺すしかあるまい。
「はい。ああ、我が姉の領域に聖域を作っておきましたので聖印を一つお借り――」
「いいから、早く地上に」
「いえ、地上を深淵の瘴気で汚染しないようにここで一度浄化を。私も行いましたが、やはりキース様の神威の籠もった祝福で」
「いいから早くしろ!!」
無理やり彼女の手を掴む。聖女カウスがよろめくが、気にしない。
こいつの姉である星の聖女に今も警告され続けている。俺も嫌な予感が、くそ、忠告されたのに上層に来てしまっている。
くそ、どうにもならない運命に縛られている気がする。早く、早くしなければ――
「くそッ――!! 貴様ァッ!! キース様を裏切るのかッ!!」
――盾の騎士アザムトが広場に飛び込んでくる。
馬鹿な――くそ、どうしてアザムトが!?
アザムトは雷を放つ歯車のようなメイスを振り回すが、
相手が闇の気配のする紫電を身体に纏っているからだ。
「そらそらァッ! 大陸の騎士ってのはそんなもんかッ!!」
短銃と剣を手に広場に飛び込んでくる男がいる。灰髪の
奴は体中に雷を纏っている。それがアザムトの雷撃を無効化しているように見える。
いや、そんなことはどうでもいい。
アザムトと敵対しているのならば、奴は俺の敵となったことに決まっているッ!! そして、この嫌な予感はあの男から発せられている。
――そうだ。今だ! 今すぐ殺してやるッ!!
「ヴァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアン!!!!!!!」
烈火がごとく憤怒が身体を巡り、俺は駆け出していた。
武具は持っていない。素手だ。だがこの裏切り者のクソ野郎を殺すだけならこの拳で十分!!
「キースッ! ははッ!! 良い憎悪だ、そしてッ、くく、くはははははははははッッ!!」
奴は聖女カウスを見た。そして嗤った。心から、下衆の笑みを浮かべて――!
「キース様ッ! お下がりくださいッ!! この男はこの私が――」
「ああ、釣り餌としては十分だ。下がってろ大陸人」
ヴァンの冷徹な声。銃声が響き、アザムトの鎧に穴が空く。血が吹き出し、アザムトが倒れた。
ヴァンは貴種吸血鬼狩りだぞ。城に籠もる化け物を単騎で殺せる生粋の狩人だ。大陸人の騎士ごときに勝てる存在じゃない。だから調査だけを任せたというのに!
――俺でさえ、本気のヴァンを殺せるかどうかは怪しかった。
そうだ。
今の俺は月神の騎士にして、多くのデーモンを殺してきた男だ。
「聖女カウス! アザムトの治療を! 俺はこのクソ野郎をぶち殺す!!」
走りながら指示を出す。アザムトを殺すために停止したヴァンに向けて、オーラを練りに練った打撃を打ち込むべく、呼吸――踏み込み。
俺を牽制するためかヴァンより銃口が俺に向けられる。銃声。腹に衝撃――だが
奴の外套には収納の神秘が掛かっている。熟練の吸血鬼狩りの道具庫だ。
――外套より取り出されたのは、長い筒のような銃だった。
「さすがの辺境人様も
神殿工房の最新式だぜ、と言って引き金が引かれる。発射音。目の前に広がる。回避できない数の、散弾。
迫りくる金属一つひとつに奇妙な神秘が、
「ぐ、なん――これはッ!?」
鎧を激しく打ち据え、露出した顔面に突き刺さった金属粒。
鎧は纏っているが、聖女カウスが外した兜をしていれば――いや、それでもこれほどの神秘だ。どのみち兜をつけていても衝撃は鎧を抜いて俺の頭を打ち据えただろう。
衝撃で俺が動けない間に、凄まじい速度でヴァンが迫ってくる。
「城持ちの貴種吸血鬼を狩ってると金だけは溜まっててなッ! 弾丸に付与した衝撃の神秘はどうだい? 頭がくらくらするだろう?」
消費物の弾丸に神秘の付与だと――浪費家め!
だが、速い。これが半吸血鬼の速度だと言うのか。
目の端に、雷速で俺の真横に踏み込んできたヴァンの外套の裾が見える。くそ、攻撃が来るか――防御を固めるべく身体が固くなる。
そして聖銀の煌めきを俺は見た。
ヴァンの腰に差していた剣が抜かれている。雷光を纏った銀灰の剣、それが弧を描いて俺の腹に叩き込まれた。
全身に紫電が走っていく。鎧を伝わって、身体を焼いていく。
「がああああああああああああああああああああああああッッ……!!」
身体が、痺れる――なんだ、これは……!? この衝撃は!?
鎧は貫かれていないというのに、雷撃が全身を痺れさせた。
倒れた俺の傍をヴァンが歩いていく。驚くような声が聞こえる。
「とことん丈夫な野郎だなキース。まだ意識があるか。貴重な落雷の魔女の権能をたっぷりと染み込ませた一撃だったんだが、まぁいい。
聖女カウスの悲鳴が聞こえる。抗おうにも銃声が響く。血が流れる音。聖女カウスが撃たれたらしい。
くそッ、まだ身体が痺れている……ヴァンが俺を殺しに来るのならば、痺れる身体に鞭を打ってでも組み付いて殺してやれるというのに。俺を無視して聖女カウスを狙うだと。何を考えている、ヴァン。
最後に、ヴァンの声が聞こえてくる。
「キース、俺を追ってこい。俺の目的はそれで果たせる」
ヴァン――ヴァン――ヴァン、貴様、貴様、貴様――よくも俺を、辺境人を、侠者を裏切りやがったな。
「ヴァアアアアアアアアアアアアアアアアン!!! 殺す! 殺すぞ!! 地の果てまでお前を追って殺してやる!! 絶対に殺す! お前の身体を引き裂いて、首を路上に晒してやるッッ!! お前の汚れきった魂を、
ヴァンが駆け出していく音が聞こえてくる。数秒、あと数秒で痺れが取れる。
――俺は運命を、避けられなかった。
わかっていたのに、どうしてもそこに誘い込まれた。
だがヴァン。お前は追い掛けて殺してやる。聖女カウスも取り戻す。絶対に。絶対にだ。
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