217


 雨が降っていた。

 空には煌々と満月が輝き、清浄な大粒の雨が都市に降り注いでいた。


 ――月の女神アルトロの権能であった。


「な、何が起きている!? なんだこれは!? 聖女様方! 領主代理たるこのオーキッドの許しもなしになにをなされたか!!」

 夜の神殿都市セントラル、その一画にある月神の祭壇にオーキッドが現れていた。

 背後に伴っているのは人馬族ケンタウロスの弓聖サテュラーナに、オーキッドの側仕えの女官どもか。

 この場を見た彼女たちは怯えた顔をして面頬を被った俺を見ている。


 ――祭壇には啜り泣きが満ちていた。


 聖女たちがぐずぐずと泣いて地面に伏せている。いきなり来た彼女たちが何事かと思うのも当然だろう。

 実際にサテュラーナなどは俺に向けて弓を構えようか迷ってすらいた。

「なんてことを主神ゼウレの怒りが落ちるわ」

海神ポスルドンの怒りをどう鎮めるの?」

 そんな剣呑な空気が漂う中でも聖女どもが俺に向かってぐずぐずと泣き言をぶつけてくる。

「知るかッ! この小娘どもが、お前らはまずこの俺の怒りを鎮めることを考えろ!!」

 全身を無理やり引き出された神威で満たした俺が怒鳴れば、ひぃ、と聖女たちは俺から離れようと床をごろごろと転がった。


 ――とはいえ、この力も一時のものだ。


 魂の底に沈んでいたものを無理やり引き出したにすぎないのだ。

 聖女どもの刻印によって俺の内から引きずり出されたが、俺が主神の期待を裏切ったせいか、その刻印も俺の身体からぽろぽろと引き剥がされていく。

 それに伴い、引き出された神威もまた魂の底に沈んでいく。


 ――夜の雨が、都市の火を消していく。


 静かなこの場と違い、街の中では月神を称える声とともに、人々の歓声が聞こえてくる。

 たかが火なれど邪悪な気配が都市に満ちていたのだ。

 それを消したのであれば、この辺境が邪悪に打ち勝ったのも同じであった。

 やがて歓声は、月神を称える歌へと変わっていく。


 ――それはどこか遠い風景のようにも思えた。


(いや、現に遠いのか)

 呆然とするオーキッドやサテュラーナ。

 泣き崩れる聖女たち。

 初めて親に叱られた娘のように、呆然と床に尻もちをついている二人の聖女。

 この光景は、歓喜に揺れる街と同じではない。

女々めめしい」

 俺の呟きに、全員が「は?」という顔をした。

「女々しい。なんて女々しいんだお前たちは。つまらん。つまらん。つまらん」

 見ろ、と俺は都市を示した。

「月神によって神威の雨は降り、炎は去った。民は歓喜に打ち震え、月神を称えて歌っている。そんな中で何をお前たちは泣いている。今こそ聖女であるお前たちが事の次第を民に包み隠さず伝えるべきではないのか」

 な、あ、と聖女たちが俺を見る。

 まるで理解できない怪物を見るような目で見られている。

「ぜ、ゼウレの期待をう、裏切った分際で!!」

「裏切っていない」

 俺はアルトロを信仰しているが、ゼウレにも信仰は捧げている。

 もっとも、もともとあったかも怪しいものだった。

 だが地下のダンジョンで真実を知り、息子の教育役につけたヴェインとあの森で語らったことで、確固たる信仰を俺は得ていた。


 ――俺はゼウレを信仰は・・・する。


 だがそれとして、怒るときは怒る。俺が死のうが関係がない。殴りつけてやる。

 酷いことをされたら怒る。相手が神だろうがデーモンだろうがそれは当たり前のことだ。

 それが辺境人だ。それが侠者だ。

 だからこそ、いまだに俺の体内を巡る聖撃の聖女エリノーラの肋骨は俺を祝福し続けていた。

 ほのかに宿るあの聖女の暖かさが俺の身体から消えようとする神威をほんの少しだけ押し留めていた。

「キース! 海神をどうする! あの神がこのまま怒り続ければこの都市どころか、オーケアーラス大河一帯が水に沈むぞ!!」

 聖女の一人が俺を批判した。その答えも俺はもう持っている。


 ――ゼウレがこの場を見ていたのだ。


 どこまで見通していたのかはわからないが。そういうことだろうさ。

 俺は俺たちを見ていたオーキッドへと叫んだ。

「オーキッド!」

「き、キース!? な、なぁ、せ、説明を」

「受け取れ!!」

 俺は手に持っていた三叉槍、聖具海王の槍ポスルドン・レプリカをオーキッドの傍らに向けて投げつけた。

 騎士上がりだからか、それとも俺を信じていたのか。

 自らの真横にある石材に突き刺さった槍を怯えた様子一つ見せずに見たオーキッドが俺へと問う。

「キース! これはなんだ!!」

「海神の聖具だ。これを海神に捧げ――いや、それだけでは足りんかッ」

 神に捧げるならば他にも酒と肉がいる。

 海神の怒りを鎮めるならば最上級の品が必要だ。

「オーキッド、長耳エルフを脅して最高の酒を出させろ。世界樹の実と蜜で作った酒をだ」

「ば、な、お、脅さずとも金でもなんでも」

 馬鹿、と俺は思った。だが聖女どものいるこの場でオーキッドを罵ることはできない。

「オーキッド、海神は誇り高い神だ。商業神の権能である取引で手に入れた酒を彼は喜ばないし、傲慢な長耳どもも金では世界樹の酒など売らないだろう。そうだ。そうだな。エルフから最高の戦士を出させろ。俺がそいつと決闘をし、勝てば酒を手に入れられるようにオーキッド、お前が交渉しろ」

 一息に伝えれば額をおさえてオーキッドが沈黙し、だが次には「わかった」と頷いた。

 あとは肉か。

 俺の足元に豚が寄ってきていた。供物として磨かれたのか、艶の良い豚だ。

 豚はぶひぶひと怯えたように聖女どもを見て、俺に身体を寄せてくる。

 その正体を龍の目を持つ俺は理解している。

「哀れな」

 呪いの性質ゆえか、大した呪いではない。そして幸か不幸か、我が身にはひとときの神威が宿っていた。

「ふんッ」

 ポスルドンの呪いを俺は拳で砕いて・・・やった。

 きゃん、と眼の前に裸の聖女が転がった。若く愚かな海神の聖女だ。

「こんなものか……」

 呪いを砕いたせいか神威が身体から抜けていく。同時に聖女たちが悲鳴をあげた。

「な、なんてことを!!」

「勝手に呪いを解くなんて、海神の怒りが降り注ぐわよ!!」

「どうするのよ! どうするのよ!!」

 きゃんきゃんとやかましい聖女たち。

 自業自得ではあるが、自らの身が呪いに蝕まれてもなお、毅然としていた斥力の聖女カウスを見習ってほしいものだ。

 やかましい!! と怒鳴ってやれば奴らは沈黙する。

「せ、聖女様!!」

 オーキッドが慌てて海神の聖女に布をかぶせて連れ去っていくのを横目にしながら俺はふむ、とこの場の聖女どもに問いかけた。

「肉だ。肉が必要だ。ポスルドンに捧げる最高の肉だ。それをこの都市の兵で狩り、ポスルドンに捧げる」

 エルフとの決闘は俺がやろう。だが狩りを俺はできない。

 全てを俺がやればそれは都市の功績とはみなされないだろう。怒りを鎮めるには、この都市を有益だとみなしてもらうには、この都市の兵を使う必要があった。


 ――沈黙が広がっていく。


 聖女たちがぶつぶつと自らの隣の聖女と相談していく。

 おずおずと『商業神の聖女』ベンガラが俺へ何かを言おうとしたが俺は睨みつけて黙らせる。

(こいつは後で絞ってやる)

 まるで怒られたときの猫のように怯えるベンガラだが俺は無視をした。

 やがて一人の聖女が案を思いついたのか、おずおずと言った。

「あの、水の女帝たるアクエリウスの支配する水の砂漠でのみ獲れる。砂鯨が相応しいと思います」

 どこかで見た顔……ああ、『弓神の聖女』テスラだ。

 しかし女帝アクエリウスの支配する水の砂漠か。

 通行するだけでも金を取られるが、ふむ、あそこで漁か。

 まぁいい。海神を怒らせたのだ。その怒りを鎮めるためならば、都市の蔵が空になろうと構うまい。

 漁場を借りるために金を払うのならば海神の怒りを買うこともなかろう。

 だが楽しくなってくる。

 水の砂漠で漁をするなら、下手をしなくても死人が出るだろう。

 そこで一番の大物を獲るのだ。

「いいぞ。いいな。はは、楽しくなってきた」

 それにどうしてかあの水の砂漠と聞くと俺の中の弟龍が喜ぶのだ。

 ただ俺が参加できないことだけが残念だが、オーキッドが育てたこの都市を信じようか。

「キース様!」

「なんだ?」

 全てが決まったので、満足して家へと帰ろうと思えば弓神の聖女が何かを言いたそうに口をもごもごとしていた。

「砂鯨への漁に私を参加させてください!!」

「いいぞ!!」

 そんなことか。許してだのごめんなさいだの言ってきたらひっぱたいてやろうと思ったが狩りへの参加なら喜ばしい。

「はははは! 楽しくなってきたぞ!! おい、サテュラーナ!! お前、ちょっと走って布告してこい!! 絶対皆、喜ぶぞ!!」

「う、うむ……もはやそれしかないだろうが……砂鯨……あれを狩るのかお前たちは」

「ああ、それぐらいしなけりゃ怒りを鎮めるなんて不可能だろうよ。ほら、急げ。早くしねぇと次の災厄が来ちまうぞ」

 都市を襲った火は消えたが、まだまだ厄介な敵は潜んでいる。

 戦士どもが狩りに出たあとにそれらを狩るのが領主たる俺の役目だろう。


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