213
夜会の領域で俺は立ち尽くしていた。
先程までいた燃える砦の領域と違い、この領域の温度は低い。弱った身体に温度の感覚の急激な変化はきつく感じる。
「これは、一度地上に戻るべきだな」
鎧の腹の部分を見る。盛大にへコマされていた。拳のあとが残っている。獣のデーモンの攻撃をまともに受けてしまった代償だ。
もう少しうまく攻撃を捌ければよかったが……。
「俺もまだまだ未熟だな」
息を吐く。心を落ち着ける。
四騎士の一人、暗殺騎士のデーモンの攻撃を受けたときも思ったが、このレベルの深層だと+5まで鍛えた
蝋材もいくつか手に入っている。そろそろ鎧の強化が必要に思えた。
「武器もだな……」
茨剣をよく使っているが、これは射程が便利なだけで武具が持つ殺傷力はハルバードに大きく劣る。
茨剣の強化には特別な蝋材を必要とするが、今回手に入れた蝋材で強化できるならしておきたい。
この先の領域の
様子見で大分消耗してしまっていた。
「また来る」
とにかく帰還だ。助かっているのかわからない二度の死で俺は疲れてしまった。
地上に帰り、身体と心と魂を休めなければならない。
――
道化のデーモンを殺すにはヴァンの協力が不可欠だったが、奴が裏切っているのならば先にヴァンを始末しなければならない。
「気が重いな……」
人を殺すのは初めてではない。かつて大陸を旅した頃に盛大に暴れたこともある。
だがこの死が溢れる領域で積極的に人側の生き物を殺したくはなかった。
――死に触れすぎると心が歪む。
俺が零れ落ちそうな命を可能ならば助けるのはそのためだ。
それがたとえどれだけ自らの不利益になる生き物だったとしても、自らが善の側にいるためには必要な
「ここで悩んでいても仕方がない、か」
時間が過ぎるだけだ。とにかく帰ろう。
俺は帰還の祈りを自らの体内に散らばった聖女エリノーラの骨に向ける。
聖域内でのみ可能な帰還の奇跡だ。
戦士を故郷へと帰す、特別な神の奇跡。
景色が変化する。目の前に現れるのは地上に近い聖域、善神大神殿の前の広場。
鉄を叩く音がする。ドワーフ鍛冶の爺さんが鍛冶仕事をしているようだった。
なんとか無事に帰れたことを喜び、俺に加護を与えてくれている月の女神アルトロに帰還の祈りを捧げる。
「猫は? いないか……」
鑑定を頼みたかったがここにはいないらしい。
猫がいなくなるのは時折あることだった。
アザムトもいない。ため息が出る。あいつが戻ってくるまで待つのか?
「とにかく修理を頼むか」
こうして落ち着いた気分で自分の鎧の損傷を眺めたが酷すぎた。
神殿騎士の鎧にあるまじき有様だった。
ヘコみもそうだが、武具修復の奇跡である『満ち欠け』で修復した箇所が酷い。
鎧の各所には暗殺騎士の糸によって切断された跡がしっかりと残ってしまっている。
まずは情報を得るべきだと、夜会の領域から先の砦の領域に踏み込んだが、やはり四騎士との戦いに赴くならばしっかりとした格好をしておきたい。
見栄えの良さは心持ちにも関わってくる重要な要素だ。かっこいい格好をするだけで心が躍ることもあるからだ。
「修理は必要だったな」
さて、それはそれとして、俺は聖域の中に座り込んでいる女と男に声をかけることにした。
「何故お前らが揃ってここにいる?」
斥力の聖女、カウス・C・アウストラリス。
俺の知り合いである二人が、聖域の中でお互いともがまるで存在していないかのように沈黙しながら、俺を見つめてくるのだった。
◇◆◇◆◇
「別に、私がどこにいようと私の勝手だろうキース」
エルフの魔術師は俺に向かって鼻で笑うような仕草をすると「冗談だよ。貴殿を待っていた」と笑ってみせた。
エルフという生き物は己の感情を他者に安易に見せようとはしない。
笑うにしても、もっと穏やかに、微笑むように笑うのが長命種たる長耳どもの特徴だ。
疑念はある、だがそれを抑えて俺は問いかける。
「エリエリーズ、待っていたとは?」
「大賢者の扉を開けてほしい」
「……あの灰色の神殿の扉のことか?」
「そうだ。すぐに開けてくれ」
辺境人でもなしに、あの領域の瘴気に踏み込もうとする気概に驚く。
何か対策があるのか? エリエリーズ、この魔術師も辺境で冒険者などをやっているだけのことはあるようだった。
だが、無礼だぞ長耳。
頼むにしても礼の尽くし方というものがあるだろう。
「ああ? 俺に言ってるのかエリエリーズ? 今すぐか?」
「今すぐに……ああ、今すぐにだ」
ぶつぶつと呟き、顔を悲痛そうに歪めるエリエリーズ。感情の変化が激しい。奇妙だ。瘴気で心を壊しているのかもしれない。
ふん、と俺は無様な長耳を嗤ってやる。
「
「道化のデーモン……? なんだそれは……?」
首を傾げるエリエリーズ。ん? エリエリーズには話していなかったか?
「下に料理人や給仕のデーモンが出る領域があるだろう。あそこを逃げ回っているデーモンのボスの一体だ」
ヴァンが裏切っている可能性は伝えない。あれは俺が始末をつけるべき相手だからだ。
道化のデーモンを倒して手に入る駒が必要なんだよ、と伝えれば、ああ、とエリエリーズは立ち上がった。
「そうか……ヴァンか……そうか……」
エリエリーズはもはや正気ではないように思える。
地上に帰すべきだ、と俺の中の善良な部分が囁いてくる。
だが同時に、頭の冷静な部分が予感した。こいつは帰したところで戻ってくる、と。
ふらふらと頭を揺らしたエリエリーズは正気を取り戻したような表情を一瞬浮かべた。そして俺を見下ろして言う。
「そういえば……まだ
「持っているが……どうした?」
「出せ。魔術を刻んでやる」
ちょうど身につけていたので差し出せばエリエリーズは指輪をそっとつまみ「終わったならミー=ア=キャットに預けておく」と言うと聖域の隅に座り込み、ガリガリと工具で呪文らしきものを刻み始めてしまう。
今から、無理やりにでも地上に――ダメか。エリエリーズほどの術士が地上で暴れればその被害は甚大なものになるだろう。
それに殺してしまうわけにもいかない。
エリエリーズはまだ人の側だった。
こうして正気である部分が残っているならば、俺が手を下すべきではなかった。
――下したくなかった。
「狂っていますね……彼は」
「貴女も……どうしてここに?」
ふふ、と聖域の中で祈るように目を閉じていた聖女カウスは嗤ってみせた。
自嘲するような嗤い方だった。
「
「逃げて?」
なんだ? 地上で何かあったのか?
俺の不安を感じ取ったのか、聖女カウスは「それもありますが」と地上を見上げながら言った。
「領主代行のオーキッド様が辺境の村に送ったという下男、テイラーが逃げ出したそうです」
「逃げ出し――い、いやいやいや、無理でしょうそれは」
テイラーを送り出した、という報告は俺も聞いている。俺がオーキッドに、神殿都市セントラルから離れた土地に下男テイラーを移送するように頼んだからだ。
それがここに戻ってくる? 辺境の大地を、大陸人が、誰の手も借りずに?
「生きているわけがない」
「わけがない、なんてことはないみたいです」
震えるように聖女カウスは自身の指を見る。聖衣を引き裂いた指から血がこぼれ落ちていた。
「愛を引き裂いた呪いが返ってきているんです。テイラーが生きている。私を目指してやってきています」
聖女カウスは俺を見て嗤ってみせた。
「私を次の探索に連れて行ってください。最後に一度でも貴方の役に立っておきたいのです」
その言葉は、まるで縋るような響きで俺の心を揺らしてくる。
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