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地下へ行くと決めたし、準備もしてあった。
とはいえ新しく産まれた我が子たちは愛おしく、
地上は騒がしい。それはたった数日のことだけれど、敵や味方の入り交じるこの都市の喧騒は面白くて仕方がない。
――陽の暖かさ。月の美しさ。風の匂い。人の息吹。戦士の熱さ。土の感触。獣臭。命の音。
地下にはないものがよってたかって俺の心をざわつかせてくれる。ここにいろと言ってくる。
「キース。行くのか」
「ああ。お前の身体も弱っているだろうから見送りはここでいい」
寝室のベッドに横たわるオーキッドが「今回は弁当を作ってやれなかったが」と言いながら俺の手をとった。
「キース。私は神を好かないが、この辺境の流儀では、やはりこういうべきだろうな。お前に善き神の祝福を」
「感謝する。我が妻オーキッド」
このまま会話を終えるのがほんの少し名残惜しく俺は少しだけ記憶を探る。ええと、ああ、そういえば。
「せ、せ、石鹸だ。そう、石鹸。使ってみたか?」
「ん? ああ、神器たるチコメッコの油脂で作ったとかいう贅沢な石鹸だろう。使ってみたよ。良かった。嬉しかった」
それは戻ってきてから暇だった時期に、月の聖女シズカからチコメッコの油脂があるなら作れと言われて作ったものだ。
俺はわからないが、とても価値があるらしい。チコメッコの油脂はなくならない神の脂なので言われるがままに大量に作った。
「そうか。蔵に保存してあるから、聖女連中にお前からだと渡してやれ。連中、喜ぶはずだ」
聖女シズカにはいの一番にねだられて渡した。あの気位の高い聖女が欲しいと言ったのだ。他の聖女も欲しがるだろう。
オーキッドが、助かる、と俺の手を強く握る。何かを言おうとして口ごもって、それでも口を開く。
「キース、無事に……帰ってこい」
どうしてか言えないままに別の言葉を絞り出したように見えたが、それは聞かない方が良いように思う。
「ああ、必ず。苦労を掛けるが、お前も身体を労れ」
俺の手を握るオーキッドの指を一本ずつ剥がして、俺はさて、と部屋にいる他の人間に目を向けた。
息子のジュニアが胡散臭そうに俺を見ていた。
「父上。どうしていくんだ?」
将来有望な我が息子はすでにどこぞの尊き神から加護を受けているらしく手足に豪華な聖痕らしきものが浮かんでいる。
俺は息子の頭に手のひらを置き、撫でながら諭すように言った。
「いずれお前にもわかるときがくる」
ジュニアは「父上がいくと、母上が、泣く」と呟いて顔を地面に落とせば、隣にいる老年の執事長レンマールが息子の肩に手を置いた。
「旦那様が困っておられますよ。坊ちゃま」
「知らない! うるさい!!」
ジュニアが部屋から駆け出していく。レンマールは「失礼します」と部屋から出ていく。
(……へそを曲げられてしまったか……)
自分の頬をぐにぐにと摘みながら俺は、情けない顔をしていないだろうかと不安になる。
「キース、
「頼む」
困ったようなオーキッドと顔を見合わせていれば、ズボンの裾を掴まれた。
小さな、可愛らしい我が子は何やら包みを俺に差し出してくる。
「なにかな?」
「おべんと!」
「おお?」
包みを受け取ればアネモネは下がって侍女の女の後ろに隠れてしまう。侍女の足の隙間からちらちらと俺を見てくる我が娘に「ありがとう。行ってくる」と言葉を返した。
「ちちうえ、はやくかえってきてね」
愛すべき娘の言葉は相変わらず砂糖菓子のように甘い。
「ああ。必ず」
――その全てがなくなってしまわないように、俺は地下へと向かうのだ。
◇◆◇◆◇
新たな領域に赴くにあたって、装備の更新は必須だ。
血流を流れる聖女様の骨の欠片に祈りを込め、神殿前広場へと転移した俺は、この休息の間に調達したものを地面に広げ、確認していく。
地下で入手した『名も失せた聖女の蝋材』を使って強化した『月神の特化聖印+4』。
また、オーロラ討伐の報酬に『呪断』の神秘を持つ聖人由来の蝋材が貰えたので、それを用いて強化した『聖衣の盾+5』。
リリーの皮の張り付いた鎧の胴を素材に作られたこの盾は以前より攻撃的な神秘に対して強かったが、これによってさらに強力な攻撃も防げるようになった。
(猫から道具も買った)
キースならいいにゃ、と許可を出した猫から黒の森の狩人が使う『黒の矢』を購入できるようになったので、それなりの量を購入した。
戦士が毒を使うのは無粋だが、デーモン相手に妙な意地を張るのは危険だ。通常の木製矢は地上で補給しているが、こういった絡め手も用意しておく。
また幽閉塔で蟲人どもが使ってきたギザギザ刃を持つ『堕落の矢』も買える品に入っていた。魔鋼製の強力な矢だ。これもそれなりの量を購入した。
オーロラ討伐でそれなりに潤っていた金がこれでなくなる。
「だが、これで俺も一端の戦士ってところか……」
前回購入した回復薬は残っているし、月神の奇跡もある。今回はそのおかげでこれらの道具を調達できた。
自分が強い自覚は得られたが、苦手な敵は存在するし、戦うための手段が偏っていることも自覚している。
それでも俺はあらゆる局面に対応できるようにならなければならない。
「ん……?」
道具を片付け、さて、行くかと立ち上がれば神殿の入り口から誰かが出てくるのが見えた。
あれは、大盾を持った大陸の騎士、アザムトだ。随分と久しぶりの遭遇だった。
「あいつ、まだこのダンジョンにいたのか」
以前と違うところもある。アザムトはいつかのようにデーモンの臭いを纏っていない。それに、雷の気配のするメイスを片手に持っていた。
「ああ、キース様」
聖域にたどり着くと、疲れたように座り込むアザムト。鎧を着ているが、いくらか破損したそれは彼女が地下でデーモンと戦ってきたことを示している。
ワインの入った革袋を差し出せば、アザムトは受け取ってこくりと飲んだ。
「アザムト。お前、戦ったのか?」
以前のこいつはデーモンの皮を纏い、隠れて探索を行っていた。どういう心変わりだろうか。
「ええ、自らの力不足を認識しまして。鍛錬をしているところです」
こうして武具も拾いましたし、とアザムトは地面に置いたメイスを示す。
奇妙な武具だ。鉄塊のようなそれはところどころに歯車が露出している。それらがカリカリと回って周囲の瘴気を吸収している、ように見えた。
「なかなか便利な武具です。雷撃を放つこのメイスはオーラを纏わずともデーモンを滅ぼせますので」
おかげで探索も進みました、とアザムトは羊皮紙を取り出した。
「それは地図だな。お前が作ったのか?」
随分と書き込まれているその地図は、この女がけして口先だけではなく、真摯にデーモンを滅ぼしてきたのだとわかる品だ。
地図。地図か。俺は作っていないが、
「ええ、あの巨大な牢獄――」
「どれのことだ?」
牢獄に相当する場所はいくつかある。料理人のデーモンの出る階層。幽閉塔。王城地下を模したあの場所もだ。
アザムトが今も俺に見せている地図を覗き込めばわかるが、これはこいつの成果だ。俺とて対価もなしにマジマジと覗き込みはしない。
「――料理人のデーモンの出現階層です」
「あそこか……」
道化師のデーモンが出る場所だ。と、そこで気づく。
「そうか、マリーンはまだ殺せないのか……」
各領域に繋がる扉のある灰の神殿。色のないあの場所には開いていない扉がある。
大賢者マリーンのデーモンがいるだろう扉もその一つだ。
おそらくは道化師のデーモンがマリーンの扉の鍵に該当するのだと思われたが、討伐はいまだできていない。
「マリーン? 大賢者マリーンですか? あの、キース様? どういうことですか?」
疑問符を頭に浮かべたアザムトに、今の状況を教えてやれば、なるほど、とアザムトは頷いて納得してみせた。
「参ったな。すっかりマリーンを殺す気でいたからな……」
……ヴァンはまだ倒せないのか? どれだけの時間を掛けている。
以前見たヴァンの様子を思い出す。少しの不安に襲われる。あいつ……やはり、ダメだったのか?
「……そろそろ俺がやるか……」
このダンジョンを攻略するにあたって全てのデーモンを殺さなければならない以上、ヴァンに遠慮して道化師一体を残すわけにもいかない。必ず殺さなければならない。
そんなことを考えていれば「では私が調査してきましょうか?」とアザムトが言い出した。
「できるのか?」
「これでも強くなりましたので居場所を探るぐらいは。ですが、そうですね。気をつけることなどはありますか?」
「……俺が知ってるのはボスデーモンのくせに一撃で殺せなければ逃げ出す、ぐらいだな……ただヴァンが少し気になる。ああ、ヴァンというのは半吸血鬼の冒険者で道化師のデーモンの討伐を依頼した男だ。そいつは――」
――俺を
その呟きにアザムトは少し目を細めただけだ。
「了解しました。装備の修理と補給が終わりましたらすぐに調査に取り掛かります」
ありがとうございます、とワインの入った革袋を俺に返したアザムトは、先程の疲れた様子などなかったかのように、鍛冶の音が響くドワーフの爺さんの小屋へと歩いていくのだった。
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