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 なだらかな道を下っていく。地底湖の傍には巨体のデーモンが佇んでいた。見覚えのある姿。一度見たことのある相手、大剣の騎士であった。

 奴の傍には淡い色をした大剣が突き刺さっている。大きさが以前と異なっているもののその姿と色は『冷たき月光』に違いない。

 距離は遠い。

 弓で狙うことはできたがそれは行わない。相手には飛ぶ斬撃がある。遠距離戦での打ち合いになったならば、けして俺に勝機はない。

(奴の懐に飛び込むことが重要……)

 飛ぶ斬撃を警戒しながら俺は歩みを進めていく。

 道中で散々にスケルトンどもを打ち砕いてきたメイスを袋に戻す。

 そしてここに踏み込む直前に、刃の砥石で切れ味を上げたハルバードを取り出し、右腕で持つ。

 集魔の盾は変わらず腰に下げている。

 指輪は、信仰を強化する湖の指輪と、斬撃を強化する蟷螂の指輪だ。

 ヤマの指輪は使わない。龍眼と月神の奇跡に魔力を使う以上、ヤマに魔力は使えない。

 ベルセルクの指輪も今回は使わない。使えない。俺よりも明確に格上の相手だ。致命打を受けたら終わりだと思え。

(そうか。格上だとわかってて戦いに行くのか……)

 怯えはない。足は竦まない。逃げる気もない。

(でかいな)

 一度見ただけの大剣の騎士は、距離のあるここからでもまるで巨人のように大きく見える。

(今からあれと殺し合うのか)

 そう、相手の戦術を俺は知らない。

 無謀だった。きっと相手が普通のデーモンであるなら、何度か戦って逃げて、戦い方を暴いてから殺すのが正しいのだろう。

 だがそれはこれほどの相手には通用しない。怪魚の時と同じだ。相手も同じなのだ。俺が挑めば相手は俺を知る。俺の戦い方を覚え、対処されてしまう。相手は木偶じゃない。成長するのだ。

 結論として、何度も戦えば、負けるのは手札の少ない俺の方だ。

 だから、この初戦こそが最も勝率が高いのだ。

(そして、それなら有利なのは俺の方だ。戦術は知らねぇが、俺は敵の伝承を知っている。一方的に、俺だけが相手を知っている)

 大剣の騎士よ。

 お前は『山脈断ちのオーロラ』の通り名を持つ、神聖帝国チルド9の偉大なる四騎士の一人。

 その大剣の一振りで、デーモンの軍団ごと山脈を切り裂き、帝国を救った英雄。

 月の女神の信徒にして、扱う武具は飛ぶ斬撃を放つ冷たき月光。

 デーモンに落ち、女神の加護を失おうともその剣の技量は衰えてはいないだろう。否、人外となったことでますます冴えているのかもしれない。

 そして、お前は偽の月を媒介に月神の奇跡を……いや、月神の奇跡に似せた奇跡を使えたのか? そうだな。確証はないが、ここが闇神殿というなら、きっと、そういうことなのだろう。

(だが、もう奇跡は使えない)

 歩きながら頭上に目を向けた。以前の時のように、地底湖の直上に月は見えない。絡繰からくりが作動したのだ。洞窟の天井すべては、鋼の板で覆われ偽の月は隠されていた。

 もっとも暗くはない。この地底湖はヒカリゴケのような緑色の苔が繁茂している。それは周囲を淡く照らし、薄暗さはあるものの、戦いに支障はない。

 デーモンに近づいてきたが、特別鈍いのだろうか? 相手は俺に気づいた様子は見えない。

 少しだけ、足が遅くなる。

(……俺は、死にに行くのか?)

 息を吐く。呼吸を落ち着けていく。遅くなった歩調を戻す。


 ――デーモンはまるで見上げるように巨大だった。


 息を吸った。オーラを武具と身体に満たしていく。

 そうして、龍眼を強く、強く、幽閉塔での戦いで俺の魂と同化する龍マルガレータが使っていたのと同じように発動させれば、大剣の騎士の肉体は、怪魚のデーモンと同じように、薄い瘴気の膜が何重にも覆っているのが見えた。

(怪魚との戦いから、俺は強くなった)

 装備を揃えた。奇跡を身に着けた。神と契約を結び、ゲッシュを刻んだ。

(敵は無敵ではない)

 俺には怪魚との戦いの経験がある。

 あの戦いの経験がなければ、あの瘴気の膜は破れず、おそらくなぶり殺しにあっていただろうが、俺はもうあの分厚い膜を剥がす方法を知っている。

 神だろうがなんだろうが、斬り裂けば、死ぬのだ。

(そうだ。自信を持て。奴は強いが、俺も強い。強くなった)

 口角が釣り上がる。ふふ、と小さな笑いが口から漏れた。そうだな。あれを剥がすのは一苦労だろうが、つまり、あれを剥がせば殺せるというわけだ。

 少しだけ、歩みが軽くなったような気がした。

(それでも油断だけはできない。近づくごとに、瘴気は濃くなる。溺れそうになる。こいつは強いデーモンだ)

 心臓の鼓動のように、騎士を覆う、血管の浮き出た大鎧は脈動するようにどくんどくんと蠢いている。

 袋から浄化特化の聖水を取り出した。口に含み、ごくごくと飲み干していく。

 そこまで効果はないがこれで一時的だが瘴気に対して少しは強くなったはずだ。

 ハルバードを強く握る。

 道はあと少しだった。

 地底湖もデーモンも、目と鼻の先だった。

(月神よ。今より身を投じる戦いが善きものであるよう……)

 俺は月の聖女の血が刻まれた右腕を通して月神に戦勝を祈る。

(オーキッド、リリー、二人の聖女様よ)

 俺は身につけたマントを通して、妻の姿を脳裏に思い描き、リリーの皮膚である原初聖衣に覆われた左腕で、肋骨のペンダントに鎧越しに触れる。

「俺に勇気を」

 小さな声で祈りを捧げれば、四重の聖衣が励ますように暖かな温度を発した。

 このエリアのボスである、大剣の騎士デーモンとの距離は、あと少しだった。

 奴はこの期に及んでも俺に気づいていない。ブツブツとなにかを呟いている。何を言っているかはわからない。

(遠目にもでかかったが、近づくとやはりこの大きさには圧倒される)

 その体躯は巨人のごとき巨体で、腕も足も巨木のように太い。これでは剣などなくても腕を振り回すだけで、人を殺すのに十分だっただろう。

(やはり大剣もでかくなっている。取り込まれたのか。デーモンに合わせて変化したな。メルトダイナスが持っていたものよりも大きくなっている)

 俺は、曲がりなりにも神であった、怪魚のデーモンに勝利した。

 同格である王弟が変じた怪魚のデーモンに俺は勝ったが、あれは戦いを知らぬ王族が変じたもの。

 今から戦うのはまた別のデーモンだ。武で大陸を統一した覇王の旗の下、いくつもの激戦をくぐり抜けてきた最強の騎士の一人がデーモンへと変じたもの。

 少女篭手が震えていた。危険を俺に伝えてくる。けして近づいてはならないのだと、警告しているようだった。


 ――それでも。


 俺は足を進める。

 生死定かならぬこの狭間にこそ、闘争の妙味がある。


                ◇◆◇◆◇


 湖の畔に、大剣の騎士であるそのデーモンは這いつくばるように佇んでいた。

『おぉ……おぉぉ……』

 漆黒の鎧を脈動させ、大剣の騎士が唸っている。

 うずくまるように、片膝を立てたそいつは祈りを一心に捧げている。

 近づくことで、ようやく俺にもその声がはっきりとわかるようになる。

『なぜだぁ……なぜなのだぁ……』

 唸りに合わせて、涙のごとき黒い瘴気が兜の隙間から漏れ出ていく。黒々とした大粒のそれは次々と地面に落ち、煙と共に強い臭気を放った。

『我が祈り。我が心。我が信仰よ。なぜぇ。なぜぇぇ』

 悲痛さの混じった金属質のその声は、まるで老爺のごとき疲れをにじませて周囲の空間に響いている。

 泣きわめくデーモンの背後に俺は立った。息を吐いた。デーモンは嘆くばかりで俺に気づいていない。

『届かぬぅ。我が祈り届かぬぅ。ああ、ああ、アルトロ。月の女神よ。おお、どこに。我が祈りはどこに向かう……』

 この悲嘆はおそらく、絡繰によって天井を塞いだことで現れたものだ。あの装置はこのデーモンの心。それを閉じたからこそ、このデーモンの祈りは行き先を失った。

(熱心だな。だが、お前は愚かだ。月神ではなく、偽の月に祈っていたことにさえ気づけぬデーモンよ)

 俺は片手に月神の特化聖印を持つと、月神に祈りを捧げた。

月の女神アルトロよ、『月神の刃』をここに)

 聖女の聖蝋を材料に作られた奇跡の触媒が強く光を放つ。ハルバードの刃を、強い月の光が覆っていく。

『おぉ? この匂いは。優しく芳しき奇跡の匂いは』

 月神の奇跡の匂いが届いたのか、大剣の騎士が振り返る気配がする。

 だが、遅ぇ! 俺はもう、用意を終えている!!

「おおぉ! おぉおおおおおおおおおおおおおおお!!!」

 ハルバードを振りかぶる。全身で練り上げたオーラを武具に通していく。両腕に全力を込め、俺は奴の身体を覆う、何重ものヴェールのごとき瘴気を――


 ――この、一刀にて!!


『おおおぉおおおおおおおおおぉおおおおお!!』

 ハルバードによる斬撃が、深く、深くデーモンの身体を切り裂いた。悲鳴が轟く。俺の一撃は奴に通った!!

「手応えあり!!」

 致命傷を与えたという感覚があった。全力の一撃。怪魚のときとは違う、上位のデーモンの驚異の防御の構造を理解し、それを打ち破るやり方で放った斬撃。

(そうだ! これならば一撃で殺せずとも、無事では……!!)

 ごきり、ごきりという音が目の前からする。半ばまで埋まっていたハルバードが、デーモンの身体から漏れる瘴気に押し出されるようにして奴の身体から吐き出された。

『お前は』

 大剣のデーモンオーロラが立ち上がっていた。俺を見下ろしている。

(追、撃を……)

 どうしてか躊躇していた。少女篭手が奇妙な重さを発していた。

『月神の』

 大剣のデーモンがゆっくりと、傍らの大剣に手をかけた。

 その動きは、悠々としていた。まるでダメージなどないかのように振る舞っていた。

(馬鹿な……怪魚の時とは違う!! お前の瘴気の膜はきっちり切り裂いた!!)

 現に、ハルバードによって傷つけられた傷からは大量の瘴気が噴出している。

『騎士か』

 そして、殺意が空間を染め上げる。

 気圧されたのか。身体が跳ねるようにして、自然と奴から距離をとっていた。

 大剣の騎士は、月の光を放つ大剣を構え、唸るようにして俺へと宣言した。

『殺さねば』


 ――それは、まるで祈りのような言葉だった。


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