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「これでよし、です」
そう言って、小さな少女のような姿をした聖女は額の汗を拭った。
領主館にある聖堂の一室。
俺と少女の傍には、月神の信徒たる乙女たちが控えていた。
――『月の聖女』シズカ・
それがこの、銀色の髪、紅色の眼、月の権能を持つ月神の聖女の名だ。
聖撃の聖女と並ぶ古い聖女の一人であり、俺ごときでは目通りすら叶わぬほどの高位の人物のはずなのだが、なかなか出発しない俺に業を煮やした
もっとも、俺自身は明日にでも出発しようと装備を整えていたのであるが……。
「ありがとうございます。聖女様」
「ええ、地に額をこすりつけて感謝しなさい。騎士キースよ」
周囲の乙女たちに汗を拭われ、肩を揉まれながらも、清浄な水をこくこくと飲んでいる聖女シズカは満足げに俺の右腕を見た。
「ふん、アルトロの神託がなければこんなことしたくもなかったんですがね」
月神の趣味もあり、月神の信徒は基本的に女で構成され、男から遠ざけられて生活をしている。
そんな男嫌いな女たちの象徴たる月の聖女は傲慢に俺を見下しながら嘲るように言う。
「よろしいですか? 神殿騎士でありながら奇跡を一つしか使えない愚鈍なお前に彫り込んだ奇跡は三種。『満ち欠け』『月光纏い』『月の外套』」
月神の信徒でありながら、信仰心と学が足りず、まともに奇跡も使えない俺。
そんな俺にも奇跡を扱えるようにするために聖女シズカが俺を馬鹿にしながらも右腕に彫り込んだもの。
それがこの、文字と記号と月の形で構成された、絵画のような見事な
もっともただの刺青ではない。墨の代わりに、聖女シズカの血が使われている。
曰く神託の報酬の前払い、とのことで、アルトロのさっさとダンジョンに挑めという催促の最後通牒でもあった。
(これ以上、神託に従わない素振りをみせれば、次は加護の剥奪と呪いだろうな……)
女神に嫌われた戦士の末路はありふれた悲劇の一つだ。
いや、『月神の刃』を含めれば、四種の奇跡を授かったのだ。些細なことで根深く恨んで、関わった男たちを破滅させてきた月の女神が、俺にはこれほど寛容なことに驚くべきか?
そんなことを考える俺に向け、真面目に聞け、というように聖女シズカがその華奢な足で俺の膝を蹴り飛ばした。
「聞いていますか? 『満ち欠け』は自らの武具に使えば月が満ちるように癒やし、敵の武具に使えば月が欠けるように破壊します」
聖女シズカが説明しながら手元の針に奇跡を振る舞い、破壊と修復を実演してみせる。
「お前。手を出しなさい」
「はい!」
聖女シズカが手近な乙女に針を刺した。
当然のように血が噴き出すものの、誰も動揺すらしない。
「『月光纏い』は癒やしの奇跡。纏った月の光が続く限り、受けた傷を癒やし続けます」
聖女シズカが奇跡を祈れば、受けた乙女がその栄誉に顔を恍惚とさせる。
乙女の身体に付与された月の光が乙女の傷を癒やし、聖女シズカが更に無造作にざくざくと針を突き刺すも、傷を癒やし続けていく。
「最後に『月の外套』。淡き月のごとき
聖女シズカが手を大きく振れば、周囲の乙女たちの頭にヴェールが現れた。
「む……これは」
俺の持つ龍眼以外の全ての感覚器が乙女たちと俺との距離感を誤らされていた。今ここで短刀を投げてみても、おそらく全て紙一重で躱されるだろう、と思われた。
「私の血をもって、これらの奇跡をお前に与えました。どうです? お前の足りない頭でも、これがどれだけの恩寵か理解できましたか?」
俺は跪くと、聖女シズカに応えた。
「ありがたく」
「月神の神託を果たしますか?」
「必ず」
よろしい、と聖女シズカは立ち上がると俺に背を向けた。
「まったく、聖女の血で刺青など前代未聞ですよ。そこまで功績のある戦士はこのような簡単な奇跡を使えないなんてことはないのですから」
部屋から出ようとする聖女シズカの後ろに乙女たちがぞろぞろと続いていく。
跪いたままの俺は自分の腕に目を向けた。
聖女の血の刺青。三種の奇跡を使用可能にするこれは、聖具に匹敵する神秘の塊だった。
多くの戦士が望んでも得られぬ名誉であった。
強敵との戦いの前に得られた幸運を噛みしめる俺に、ああ、と聖女シズカが振り返る。
「お前の信仰心の低さは少し問題ですね。食事の前に月神に祈りを捧げなさい」
「それは」
「
――
いや、名称が違うだけで、ゲッシュは辺境のいたるところに存在する。
辺境人が持つ、チルド9へ忠誠を捧げる事で強力な呪いへの耐性を授かるそれもまた、ゲッシュだ。
愛を利用した聖衣もまた、ゲッシュだ。
俺がオーキッドとの勝負の際に、月神へ加護を願ったそれもゲッシュだ。
「ゲッシュを悪用されて殺される可能性を考えましたね」
ゲッシュは戦士が力を得る手段の一つであり、高名な戦士ほど多くのゲッシュを持つことでも有名だが、同時に戦士が敵対者にゲッシュを利用されて、殺害された例はいくつもある。
デーモンの奸計によって、弟妹に必ず食事をとらせるというゲッシュを破らされて餓死した辺境の英雄ア・グユガスや、聖衣の持つ愛の力を失わされて死んだヘリクリオス。
頭の中で、英雄たちの死に様と俺の死に様が重なった。
オーキッドの愛は疑わない。国家への忠誠も必ず守ろう。月神への信仰も出来得る限りならば……。
だが、俺は頭が悪い。ゲッシュをいくつも持てば、制約の隙を突かれて殺される恐れはどうしてもあった。
てくてくと歩いてきた小さな身体が、ひざまずく俺の前を見下すようにして立ち止まる。
「ゲッシュは破れば呪詛を受ける。それはチルド9との契約で縛られた辺境人であっても逃れられないルールです」
そう、ゲッシュはただの呪いではない。祝福なのだ。
だから呪いへの耐性は機能しない。祝福がそのまま反転して呪詛となるのならば、それは受け入れた呪いだ。チルド9の加護は俺たちを守らない。
「ですけどね、騎士キース。
聖女シズカに立ちなさいと命じられ、跪いていた俺は立ち上がる。
月神に全てを捧げた乙女たちの無機質な目が俺を貫くように見ていた。
驚く。聖女シズカが、乙女の一人から受け取ったナイフを用いて、自らの腕に深い傷をつけていた。
(こいつら、何をするつもりだ?)
「受け入れなさい。この私が、信徒とはいえ、男のためにここまでするのです」
――嫌な予感が……。
それでも反射で反撃しそうになる身体を意思の力で抑えつけた。
ここで逆らえば、アルトロからどう思われるかわからなかった。
「いい子ね」
「う……」
半裸の俺の胸に、聖女シズカが手を這わせた。冷たい聖女の体温に、背筋がぞくぞくと震える。
そして、俺は信じられないものを見た。
――ずぷり、と聖女シズカの手が俺の胸に埋まっていく。
「心霊治療の一種ですよ」
聖女シズカの手が深く挿し込まれ、俺の胸の中で蠢いている。
こ、これは、
(うう……気分が……悪くなる……)
袋は腰にある。このまま心臓を握りつぶされた場合を考え、ソーマを取り出して飲む覚悟を決めておく。
そんな俺を見上げる聖女シズカが口角を釣り上げた。
「鍛え上げた騎士といえど、こうして心臓を握ってしまえば可愛らしいものですね」
「聖女シズカ。俺に、何を、しているんですか?」
聖女シズカの腕を伝って、聖女シズカの血が俺の身体に流れ込んでいた。
「心臓に呪刻を施しています。騎士キースがアルトロへ反逆すれば心臓が潰れる呪いをかけています。魂に刻むこの呪いは、潰れた心臓を再生しようとも再生した瞬間にお前の心臓を再び握りつぶすでしょう」
それでは死ぬじゃないかと、唖然とする俺に聖女シズカは呆れたような目を向けてくる。
「加護ですよ加護。お前の信仰心が地を這うトカゲのように低いのは、いざとなればアルトロとの契約など破ってもいいと考えているからです。だから破れないようにしています。いいですか? 馬鹿なお前にもわかるように、四騎士オーロラと
血は流れている。俺の身体に聖女シズカの血が流れ込んできている。心臓が仄かに温度を持っていく。
そうして時間は流れ、血を失い、青白く染まる美しい少女の姿をした
「騎士キース、アルトロをきちんと信仰しなさい。死を代償としたゲッシュをもった今ならば、たとえ瘴気深き迷宮といえど、アルトロはお前を照らし出すでしょう」
ふらつく聖女シズカを支えるべく手を伸ばそうとすれば、すっと身を引いた聖女シズカはすかさず手を伸ばした乙女たちよって抱きかかえられていた。
にやりと、傲慢に聖女シズカが嗤ってみせた。紅の色をした瞳が意地悪そうに輝いている。
「ほら、騎士キース。お礼の言葉がありませんよ?」
「ぐ……」
釈然としなかった。だが、地下で見たあの四騎士の姿を思い出した。
遠距離からの一撃ですら俺に死を覚悟させた騎士のデーモン。四騎士オーロラの姿を……。
聖女シズカは、勝率があがるように、と言った。
このような形だが、勝利を願われているのだ。
「聖女シズカ、感謝いたします」
再び跪いた俺の頭を、聖女シズカの手がゆっくりと撫でた。
「騎士キース。最も新しきアルトロの騎士よ。馬鹿で愚図なオーロラを、お前が殺しなさい」
――その言葉には、どこか寂しげな響きが伴っていた。
「必ず」
こうして俺はまた一つ約束を抱え、
「殺します」
あの薄暗い地下へと向かうのだ。
◇◆◇◆◇
「ちちうえ」
俺は空を見た。
雲ひとつない快晴だった。地上の陽の光はいつだって温かく地を照らし出している。
都市から聞こえてくる人々の喧騒を耳にしながら俺は子どもたちの頭を撫でてやった。
この場にいる人間は少ない。
家族のほかには執事の爺さんがいるだけだ。
俺の任務は、いつのまにか機密のような扱いになっているようだった。
「ちちうえ、はやくかえってきてね」
旅立つ俺に、アネモネがかける言葉はとろけるように甘い。
「必ず帰ろう。お前も健やかに育て」
頭を撫でる俺の手に、アネモネはその小さく柔らかい指を絡ませてくる。握り返してやれば、えへへ、と嬉しそうに笑ってくれる。
「キース。下で食べてくれ」
オーキッドが弁当の入ったバスケットを差し出してくるのを受け取り、袋に大事にしまう。
「無事に帰ってこい」
「ああ、必ず」
俺の返答に、笑ってみせるオーキッド。
「お前のおかげで病神の問題は片付いた。だから、安心して――」
困った顔でオーキッドが言葉を止めた。言えなかった言葉の先は、なんとなく想像がついた。
「わかってる。帰ってくる」
言えば、うん、とどこか幼く頷くオーキッド。
そのように妻と娘と戯れていれば、ぽすん、と足に軽い衝撃を受けた。
見下ろせばジュニアが膨れっ面で俺を睨んでくる。
「ちちうえ! お、おれには!!」
息子がぼくを卒業していた。
子供の成長は早い。地下に行って戻ってくれば、またこの息子は大きくなってしまうのだろう。
俺は息子の前で呼吸を再び披露してやる。
「呼吸は全ての基礎だ。忘れるなよ」
「うん!!」
息子が突き出してきた拳に拳を合わせた。
「じゃあ行く」
離れることは辛い。
だけれど、
――強化された武具、新たに手に入れた奇跡、勝てないと明言された
どこか、わくわくしている俺がいた。
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