172
それは満月が煌々と輝く、雲一つない晩のことだった。
夜気の涼しさと静けさは盛大に焚かれた篝火の熱、集まった人々の熱気と歓声にかき消されている。
「おお、麗しき月の神よ、汝が司るは狩猟と弓、猛々しき獣、湖と乙女」
朗々たる司祭様の声が都市に作られた巨大な祭壇の上で響く。
月神アルトロに帰還を報告する祭事は俺が帰還し、息子娘と戯れている間に司祭様が行う日付を決めた。
アルトロの神託をさっさと為そうとしないことで怒られるかもしれないが、そこは聖女カウスが取り成すとのこと。
聖女カウスの製造にはアルトロも関わっているから無下にはされないらしい。
どちらにせよ、ドワーフの爺さんに預けた武具は多い。武具の整備はまだ終わっていないし、蝋材を使った強化や探索道具の調達もまだだ。
「月神の善き加護により騎士キースはこうして無事に家族の元に戻れました。加護に感謝を。そして、キースの次なる戦いが善きものであるよう祝福を」
祭壇上の司祭様が、神に捧げる供物を、と言った。
聖女カウス、その後ろにぞろぞろと見目麗しい、月神神殿の神官乙女たちが続く。
それぞれの手には供物で満たされた籠があった。
エルフの森で取れた新鮮な果実、水の砂漠の蟹や魚、黄金色の麦。
それぞれがこの土地で手に入れられる最上級のものだろう。
「本当は私も行ければよかったんだがな……」
領主が立つべき位置に立ったオーキッドがそう呟く。本来は俺が立つべき位置だが、俺には役割があるし、人々もオーキッドの方が顔を見慣れている。
「私は乙女ではないからな」
祭事故に静かにするようにと言い含められた息子と娘に目を向けながらオーキッドは楽しそうに言った。
「月神よ、騎士キースと我の無事の帰還に感謝を。そして未だ神託為せぬことの謝罪を。しかし、騎士キースは必ず果たします。私をこうして地上に連れて帰ったように」
聖女カウスが、俺と聖女カウスが神々の祝福によってこうして地上に戻れたことを月神に報告し、未だ神託を果たしていないことについての謝罪をしながらも供物たる土地の恵みを捧げていく。
「そしてここに騎士キースの戦いを捧げます」
聖女カウスの言葉と共に、待ってましたと、巨大な檻が男たちによって引きずられてくる。
男たちは祭事に呼ばれていた黒蝮の親分だ。
「ガッハッハ! 騎士キース! 出番だぞ!!」
親分は手下の侠客どもと一緒にドワーフ鋼の檻を、祭壇前の広場に設置する。
檻の中身を見て、人々がどよめきながらも楽しげに騒いでいる。
中に入っているのは、生きた
そして、俺の隣に立っていたオーキッドが立ち上がり、祭壇前の広場を囲む人々に向かって声をあげた。
「これより月神へ捧げるべく、魔獣月鎧猪と騎士キースが一騎打ちを行う!」
人々たちが歓声を上げる。篝火に聖油と薪が追加され、盛大に火の粉を飛ばした。
場に熱気と狂騒が満たされていく、人々の感情が神へと捧げられていく。
オーキッドに促されて俺もまた、月神へ戦いを捧げるべく広場の中心へと向かっていく。
「キースよぉ、その月鎧猪は儂が手ずから捕まえ、牙を磨いてやったんだ」
「親分に感謝を」
「気張れよ!」
拳を打ち合う。そして俺は服を脱ぎながら広場の中心へと向かっていく。
何も武具をもっていないことを証明する為だ。
面頬のみを身に着け、首に獣寄せの香袋のみを下げ、俺は裸で広場の中心に立った。
周囲が誰だ誰だと騒ぐ中、俺は拳を頭上に掲げ、叫んだ。
「騎士キースだ! この戦いを! 我が神アルトロに捧ぐ!!」
周囲から歓声が上がった。地を揺らすような大歓声だった。
「女神よ!!」
親分が檻の扉を引き上げた。
『ぶぎぃいいいいいいいいいいい!!』
人間たちの大歓声に興奮し、また、香袋の匂いに誘われ、月鎧猪が勢いよく俺へ向かって駆け出してくる。
月鎧猪、それは狩りの獲物として狙われる獣だ。以前エルフどもも狩っていた、森の獣の一種だ。
その皮に生える苔は薬となる。また肉、内臓、血は美味で、骨、皮は牙は武具の材料、脳は皮のなめしに使われ、脂は燃料になる。捨てるところ何1つとしてない優秀な狩りの獣。
だが、それは若い個体までのこと。
眼の前の個体のように、成長しきった月鎧猪はまた違う呼び方をされるようになる。
――戦士殺し。
皮は刃を通さぬほどに固くなり、牙は下手な鎧など貫き、その巨体による突進は辺境の戦士ですら容易く殺すようになる。
『ぶぎぃいいいいいいいいいいいいいいいいい!!!』
弱いデーモンよりも厄介な強い獣の突進だった。
その重量は地を揺らし、俺を殺さんと牙を向けてくる。
「ふぅッ」
故に、息を吸い、拳にオーラを込め、両足を地につけると、どっしりと腰を下ろす。
そして突進してくる奴へ向かい、下手な金属よりも固く分厚い月鎧猪の頭蓋めがけ、拳を突き出した。
「死ねぃ! 獣よ!!」
鍛え抜いた拳が骨を破壊し、脳を圧壊させた。
奴の伸びた牙は俺の腹ギリギリで停止していた。即死させなければ死んでいたのは俺だっただろう。
あっけない獣の死に、沈黙が場に満ちる。
「我が勝利を女神に捧げる!!」
――わああああああああああああああああああああ!!
観客たちの歓声が再び地を揺らした。短刀を持った神官乙女を引き連れた婆さんたちがぞろぞろと現れ、月鎧猪の肉体を解体していく。
これから、月鎧猪のもっとも良い部位の肉を女神に捧げるのだ。
同時に、周囲では生きた鹿や豚や牛の解体が始まる。火と大鍋が用意され、次々と肉と内臓が叩き込まれていく。
「獣の肉というものは、本当は、熟成させた方が美味いんだがな」
席に戻った俺へとオーキッドが、これも祭りだ、と言って笑う。
息子と娘が俺をきらきらとした目で見ていた。
「父の戦いを見たか?」
「うん! すごかった!!」
「すごかった!!」
「お前たちは俺の子供だ。あれぐらいすぐにできるようになる」
息子や娘の頭を撫でていれば、月神の神殿の乙女がやってきて俺の身体に祝福の奇跡を願い、返り血で濡れた身体を清潔な布で拭おうとする。
「いや、いい。殺した者の血に濡れるのは戦士の誉れだ」
俺の言葉に周囲の侠客たちが歓声を上げた。
息子と娘がきらきらとした目で俺を見ていた。
――言ってみたかった言葉を言えて満足する。
騎士の真似事、戦士の真似事、真似事でもやらなければならないことはたくさんある。
所詮俺は農民だったのだと言うことはいつでもできる。
それでも、こうして俺の背を見る子供たちの前なのだ。出来得る限りの格好をつけた。
俺たちの前に、月鎧猪の肉が運ばれてくる。
「月神へ感謝を! 辺境へ勝利を!」
俺の叫びに合わせて、人々が同じ言葉を唱和した。
◇◆◇◆◇
祭りの夜は更けていく。
地上の日々は温かい。
命と清浄さに満たされている。
だから、きっと守る価値があるのだろうな。
――『キースよ。お前に力を授けます』
夜空に浮かぶ月から、雫のような奇跡が俺へと一滴零れ落ちた。
神の信徒であるなら珍しくもない光景だ。
神が寵愛する信徒へと力を授ける光景だ。
人々がその奇跡にさらなる歓声を上げ、息子と娘が神の奇跡を見て、楽しげに笑い。
――『キース。忠実なる私の信徒。その月の刃を用い、信徒オーロラを滅ぼしなさい』
オーキッドが悲しそうに俺を見ていた。
俺はオーキッドに、すごいぞ、と笑ってみせた。
だけれど、あれだけ望んだ奇跡だというのに、あまり嬉しくはなれなかった。
――こうしてまた、俺はダンジョンへと戻っていくのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます