171


 夢の中で女神に急かされたので、準備をするからちょっと待て、と言っておいた。


                ◇◆◇◆◇


「落ち着かんな……」

 未だ陽も完全に出ていない時間帯に目が覚めた。

 身体に掛かっていた羽毛の詰まった布団を退け、立ち上がる。

「ん、んん……? キース?」

 同じ布団に入っていたオーキッドが目を細めてベッドの脇に立っている俺を見上げる。

 布団を掛け直してやる。

「鍛錬に行ってくる。お前は寝ていろ」

「うん」

 頭を撫でてやればどこか幼い表情で頷いた妻。

 俺はベッドの脇に置いておいた面頬だけを付けると、裸のままに、領主館に造られた夫婦の寝室より廊下へと出る。

 廊下には、武装した女官が寝室の出入り口を守るように立っていた。

「お前は必要なのか?」

「はい? っていうか、あの、裸……」

「お前は必要なのか?」

 武装女官の佇まいは一流の武人に見える。武具もまた、ドワーフ鋼で作られたものだ。

 俺の姿を見ていて戸惑っていた武装女官だが、俺の問いにははっきりとした口調で答えた。

「それは勿論です。神殿都市セントラルは辺境を信仰と食の両方で支える重要地帯へと成長しようとしています。それ故、神殿都市の領主たるオーキッド様は常に多くの敵にそのお命を狙われています。絶対に守らねばなりません」

 確かに、夫婦の寝室には俺がダンジョンで使っている聖域に似た結界が敷かれ、デーモン避けの香も焚かれていた。

「なるほどな」

 領主、という言葉は無視しておいた。地下に籠もり、表に出てこない俺よりも、ここで苦労しているオーキッドの方が領主には相応しい。

 だが、そのせいでどうやら妻は辺境の敵どもに生命を狙われているようだった。

「おわかりいただけたでしょうか?」

「わかった。妻を頼む」

「それは勿論、貴方に頼まれるまでもありません」

 凛とした表情で一蹴され、俺はオーキッドの人望に誇らしい気分になった。

「頼もしいな」

 ついでに女というのもいい。男の護衛をつけて俺に不貞を疑われぬようにする為だろうか? オーキッドらしい気遣いだった。

「それで、その、なぜ裸で?」

「気にするな」

 寝てるオーキッドに配慮してか、気にします! という静かな声で女官に怒鳴られた。

 俺は笑いながら鍛錬に使えそうな場所を探しに行くのだった。


                ◇◆◇◆◇


 全裸で領主館をうろうろしてれば井戸のある中庭を見つけたので、そこで鍛錬を行う。

 息を吸う。吸う。吸う。吸う。限界まで吸う。

 息を吐く。吐く。吐く。吐く。限界まで吐く。

 繰り返す。何度も。何度も。

 呼吸は基本だ。何度も何度も繰り返して、ダンジョンでズレてしまった呼吸の感覚を肉体に合わせて調整していく。

(………………………………)

 無心に繰り返す。次第に歩法にも取り掛かっていく。呼吸しながら歩き、オーラを練り、肉体に隙間なくオーラを充溢させていく。

(………………………………)

 オーラによる瘴気対策は深層で活動する上での基本だ。聖衣があるとはいえ、これができるのとできないのでは肉体にかかる負荷が変わってくる。

 同時にこのオーラの練りはデーモンどもに対する攻撃の基本となる。

 奴らを殺すには武具の質や武術の腕も重要だが、基本は呼吸と歩法だ。どれだけ濃いオーラを拳や武具に込められるかでデーモンに対する必殺となるかが決まってくるのだ。

(質が足りんな……)

 地下で見た圧倒的なデーモンどもを思い出す。

 力の差が離れすぎていてそもそも勝負にすらならなかった王妃のデーモン。

 剣の振り1つで俺に敗北感を抱かせた大剣の騎士。

 同時に、あの戦い慣れていなかった堕ちた水の神の姿も。

(あの怪魚が、もっと戦いに慣れた戦士だったなら……)

 勝てなかっただろう。龍の記憶を引き出す前に俺は殺されていた。

「ふぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ」

 息を吐く。眩しい。気づけば朝陽が昇っていた。

 体中から大雨でも被ったように汗が吹き出ている。地面に目を向ければ俺の汗でぐっしょりと濡れていた。

「熱中しすぎた」

 水でも飲むかと井戸に近づき水を――

「なんだ、こりゃ?」

 井戸を見れば蓋が上に載っていた。その上にも何か絡繰からくりが載っている。

 こんなもんこの村になかった筈だが?

「つかこれ、たぶん井戸を楽になんかする奴だろ……?」

 仕掛けのある武具を使っている身だ。この井戸を塞ぐ蓋のような絡繰は、楽に水を出す為のものだと想像はつく。

 だが使い方がわからない。

 このレバーをガチャガチャやれば水が出るのか? だが、傍に汲んである水はなんだ?

「ふーむ」

 寝室まで戻れば強欲の大袋がある。そこには探索用の水が樽で入っている。

 とはいえこれからここで暮らすのだ。いちいち袋の水を使うなんて不便極まりない。

「とりあえずやってみるか?」

 レバーに触れてみようとすれば足元に何かがいた。

 子供だ。どこかオーキッドの面影を残した、鼻を垂らした少年。

 俺の息子ジュニアだった。

 傍らには同じく鼻を垂らした少女がいる。

「お、おう?」

 俺を見上げていたジュニアは睨みつけるような目で俺を見た。

「これは、こうするの」

 唐突にジュニアは汲んであった水を絡繰に入れて、レバーをガチャガチャと動かした。

 レバーの作用か、井戸に備え付けられた絡繰から水が出てくる。

 ジュニアが桶をよたよたと持ち上げ、差し出してくる。

「ん!」

「あ、ありがとうな」

 受け取れば、生意気そうな顔で俺を見上げてくるジュニア。

(わ、わからんぞ。どう接するんだ?)

 俺の中では2、3日前までは猿みたいな顔してたガキがもう大きくなっているのだ。

 それに、ジュニアの傍で一緒に俺を見上げてくる娘の方。

 名前は聞いた。アネモネという名前だそうだ。

 息子ができたと思ったら娘ができていた。覚悟はしていたが……ううむ。

(やっぱり、わからん)

 冷たい水を被って汗を流しながら、俺はどう接するか考える。

「なんで、はだかなの?」

 唐突に娘に問われた。顔を向ければジュニアの陰に隠れてしまう。

「なぜって」

 地上に出てきたら堅苦しい面子ばかりが並んで、帰ってきた家もなんか堅苦しくなってて、布団も柔らかくなってて、飯も豪華になってたから、イライラしたからなどとは答えにくい。

 とはいえ、娘の質問だ。きちんと答えてやらねばならんだろう。

「筋肉が」

「きんにくが?」

「陽の光をだな」

「ひのひかりをだな」

「欲しがって……」

「ほしがって」

 俺の真似をする娘に、俺は引きつったように笑みを向けてみる。

「ははは」

「えへへ」

 にこっと笑顔を返される。まるで太陽のような、陰ひとつない笑みだった。かわいらしい。頭を撫でてやる。

 ふと屋敷の方に気配を感じ、目を向ける。

「坊ちゃまもお嬢様も旦那様に会えるのを数日前から楽しみにしておりました」

 そこにはいやにしゃっきりとした爺さんが立っていた。

「失礼、旦那様。セントラル家執事長のレンマールと申します」

「ああ、キースだ。昨日会ったな」

 オーキッドが帰還の為に豪華な食事を用意していた。その時に紹介された男だ。

「旦那様、こちら、服を用意しておきました」

「ああ」

 言外に息子と娘の前なのだからしっかりしろと言われたような気がするが適当に答えておく。

 家族の団らんという奴だ。あれこれと外から言われても俺が応じる必要はない。

「そういえばジュニア。お前、武の基礎たる呼吸は教わったのか?」

「おそわった!」

「坊ちゃまは神殿騎士団長殿直々に教わっております」

 爺さんが補足してくる。ふむ、呼吸は基礎の基礎だ。体系だった神殿の武術を習うなら俺があれこれ教えるよりこのまま教えて貰った方がいいか?

 すぅはぁ、と俺の前で呼吸を見せてくる息子を見てみる。

 見るからに拙い。拙いが、俺が同じ歳の頃はここまでできただろうか?

 それに、なんらかの神の加護も受けているのか、ジュニアに宿る神秘はなかなかのものだ。

「ちちうえ」

 自信満々に俺を見上げる小生意気な息子にそう呼ばれて、ちちうえ、と俺は口の中でその言葉を転がした。

 なんとも甘い響きがした。ちちうえ、ちちうえ、ね。

「俺も、教えてやろう」

 俺の呼吸は家伝のものじゃない。俺の本当の親父は行商人だった。戦士の家系ではなかった。

 だから俺が本格的に呼吸の技術を習ったのは爺さんからだ。龍の呼吸。そんな大仰なことを言いながら爺さんは俺にオーラを練るための呼吸と歩法を教えた。

 よく見てろ、と先の鍛錬でやったことをもう一度見せようとすれば、アネモネがけほ、と咳き込んだ。

「おい、病気か?」

「数日前から悪くしております。さ、お嬢様。お部屋に」

 執事の爺さんが部屋に戻そうとするも、やー、と嫌がる娘。

 妹に邪魔をされたのが不快なのか仏頂面の息子。

 ふむ、と俺は頷いた。

「そういえばあれがあったな……」


                ◇◆◇◆◇


 服を着て現れた俺を見て、執事の爺さんがほっと息を吐くのが見えた。

 少し遅い朝食の場だった。俺が遅れたのが原因だった。

 広い食堂で、俺とオーキッド息子ジュニアアネモネが冷めた食事を取る中、オーキッドが俺に遅れた理由を問うていた。

「で、それか?」

「ああ、とりあえずの品で不格好だが、アネモネの病が治ったら地下の爺さんに整えさせる」

 娘の首で揺れるのは金属の筒に入った聖ウィルネスの聖蝋だった。

 俺がダンジョンで手に入れた聖蝋である。

 聖ウィルネスは、病を操る聖人だ。その聖蝋は身につけておくだけでも病を退ける力を持つだろう。

「いいのか?」

「構わん。瘴毒の類はさんざん食らってるからな。耐性は十分にできている」

 それに酒呑からも無毒の指輪を貰っている。あれで防げないならまた死にかけながら耐性をつけるしかないだろう。

「ありがとう、キース。アネモネのことは心配だったんだ……」

 ほっとしたようなオーキッドの表情に、このタイミングで戻ってこれてよかったと俺も安堵する。

「お前も持っておけ」

 残ったもう1つの聖ウィルネスの聖蝋で作った首飾りをオーキッドにも渡しておく。執事の爺さんが言うには、どうやら辺境に妙な病が流行っているらしい。

 戦士や神官には効かないが、弱い女子供の間で流行っているとかなんとか。

 元が騎士で、更には神殿の秘儀で辺境の神秘に適応できたとはいえオーキッドは大陸人だ。必要だろう。

 俺がオーキッドとアネモネに贈り物をしたせいか、ジュニアが大声をあげる。

「ちちうえ! ぼくには!」

「ぼく? お前、自分のことをぼくとか言ってんのか?」

「キース! 自分の息子に何を言うんだお前は!」

 茶化せばオーキッドに怒られ、俺は笑った。

「わかったわかった。ジュニアにはさっきの呼吸を教えてやる。俺が俺の育ての親の爺さんから教わった呼吸だ。デーモンどもを殺すのにすごい効く。病気も殺せる」

 わぁ、と喜んだ息子に執事の爺さんが食事中だと注意をする。

「ったく、堅っ苦しいな、ここは」

「だが、これからは必要だ」

 オーキッドの言葉に俺は笑った。

「そうだな。オーキッドがそう言うならそうなんだろう」

「キース、神殿も一枚岩ではない。聖女エリノーラは私達に好意的だが、そうではない方たちもいる」

 苦しげな声だった。俺は外に目を向けた。

 どうにも、地上もきな臭そうだった。


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