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洞窟の天井を睨むように眺め、俺はため息を吐いた。
「どちらにせよ、だ。今できることじゃない」
神の気配は遠ざかっていた。戯れに声を掛けただけにしては具体的すぎる神託ではあるが、
(アルトロは草木や獣を好み、人を、中でも知的な男や美しい女を嫌う処女神だ)
俺が好むような女神ではないが、手を貸してくれたのも、契約をしたのもまた事実。
その神託に従うのはやぶさかではない。
(もっとも、神話に謳われる女神アルトロの気性はわがまま女そのものだ。従わなければ地獄のような責めを俺に行ってくるだろう)
従わない、という選択肢がない。
女神は俺のことを忠実な信徒と言ったが、忠実でない信徒のことなど考えたこともないだけなのだ。
「ふん」
帰ったばかりの俺に闘争を望むとは優しさの欠片もない女神め。
だが、神は神であり、神託は神託。強者との闘争は戦士として望むところでもある。
あのデーモンも結局は殺さなければならない強敵の一体。
「とはいえ、今はできん」
言いながら俺は鎧を脱ぎ始める。このままでは帰るにも帰られないからな。
傍に転がっているテイラーには目を向けない。
聖女カウスは興味深そうに周囲を見渡し、響く槌の音を懐かしそうに聞いていた。
ん? んん?
「猫がいないな」
「猫、ですか?」
鎧を脱ぎ、浄化特化の聖水を口に含む。祈りの言葉と共に聖水を布にひたして身体を拭っていく。
濃い瘴気に浸りすぎた。地上に出るにも、猫やドワーフの爺さんと会うにもいくらか身を清める必要がある。
「ミー=ア=キャットっていう商業神の眷属がいて、デーモンが落とした銅貨やら銀貨やらと道具を交換してくれるんですよ」
ああ、と俺は拾っておいた聖弓を聖女カウスに渡す。ありがとうございます、と受け取った聖女カウスは首を傾げた。
「そうなんですか。商業神はこんなところにも眷属を派遣するのですね」
「がめついだけです」
手伝います、と星神に祈りを捧げた聖女カウスが俺の身の穢れを浄化の奇跡で清めていく。そして俺から聖水の余りを受け取ると、ついでとばかりに聖水を触媒に、自身の瘴気を聖女カウスは清めた。
その姿を見て思う。聖女カウスはこれから地上の神殿で暮らすのか。それとも最前線に向かうのか。
(……いや、ここまで送り届けたんだ。もう俺の関わることじゃねぇな)
俺ごときが聖女の未来を考えるなど弁えていないにもほどがある。
ただ、テイラーに関しては誰も引き取らないだろうから、オーキッドに世話を任せるしかないな。
瘴気に侵された大陸人の余命など長くはないだろうが……。
「しかし、猫がいないんじゃな。……ふむ、鑑定はまた後日にしてもらうか」
鎧を袋に入れ、俺は新しい布服を取り出して着込んだ。
「とりあえず装備を整備してもらわんと」
ではそこの鍛冶場のドワーフ爺さんに用があるので、と俺は聖女カウスに言い、鍛冶場へと向かおうとして――
「あー? なぜ俺の後ろに?」
聖女カウスは「私もこの子を見てもらいたいですから」と聖弓を掲げた。
◇◆◇◆◇
ドワーフの爺さんに使った武具すべてを渡して整備を頼んだら「てめぇ、よくもまァこれだけ。ちッ。わかったわかった任せておけ」と鍛冶場を追い出されたので聖域まで戻ってくる。
あそこで撤退して正解だったようだ。
連戦に次ぐ連戦だったからな。武具の痛みも相応のものだったのだろう。
聖域に腰を下ろせば、正面に俺と同じく聖弓をドワーフの爺さんに預けた聖女カウスが座る。
転移の奇跡が使えないわけでもないだろうに、なぜここにいるのか。
「それで、聖女カウス、これからどうするんですか?」
仕方なしに問えば、無論、と聖女カウスは俺に言った。
「エリノーラお姉さまには自由にしても良いと言われました。ですので、キース様の助けとなりたく思います」
恐れているのか、未だ気絶するテイラーには目を向けない聖女カウス。
俺は小さく息を吐いた。
――どうすべきだ、これは?
申し出自体はありがたい。深層で誰かと会える喜びは、ただデーモンを殺すだけの生き物となってしまいがちな俺に戦士の挟持を取り戻させてくれる。
仲間は良い。共に戦わずとも、小さな会話だけでも心に巣食う獣を鎮めてくれる。
それでも俺はただ喜びと共に頷くわけにはいかなかった。
聖女カウスという存在はそれだけで辺境の宝とも言える存在だ。
ただ、俺の為だけに動いて良い方ではない。
(聖女エリノーラも何も考えている?)
俺に肋骨を授けてくれた聖女のことを考える。
前線とて楽ではないだろうに。
そもそも、だ。失われた聖女が帰ってきたんだぞ。前線につれていけば戦士たちを大いに鼓舞する筈だ。
(第一、ここは危険だ……)
俺はテイラーに目を向け、これがいるからな、と内心のみで呟いた。
こいつはよくない。ああ、よくない。聖女カウスの弱所だ。
できれば聖女カウスには別の場所に行って欲しかった。
だが俺に聖女カウスの意思をどうにかできる権威も手段も存在しないのは確かだった。
(クソが、うだうだうだうだめんどくせぇ)
どうでもよくなって、俺は思考を捨てた。そもそもてめぇの人生だ。生きるも死ぬも他人が強制することじゃねぇんだ。
こうして、たっぷりと時間をかけて出した俺の言葉はさっぱりとしたものだった。
「――そうですか」
そもそも聖女カウスは立派な大人だ。ガキでもあるまいに、俺があれこれと先行きを考えるのも馬鹿らしい話だ。
この聖女が自分でそれをやると決めたのなら、それを貫き通せばいいだけのこと。
最初から俺がどうこう言う話じゃない。
助けになってくれるなら大いに甘えてやろうじゃねぇか。
テイラーはどっか遠いとこに送る。それで解決。これでいい。
「では聖女カウス。よろしくお願いします」
「はい、キース様」
手を差し出してくる聖女カウスの手を握り返す。
「それで、その」
うーん、と困ったように聖女カウスは言う。
「その堅苦しい話し方、どうにかなりませんか?」
「妻がおりますので」
「そう、ですか」
どうしてか残念そうな聖女カウスに、ええ、と俺は頷く。俺が聖女という存在を敬っているのもそうだが、あまりに親しい素振りをすればオーキッドへの不実となる。
というかだ。そもそも先の探索で敬意を抜いた話し方をしたときにこれはないと自分でも思ってしまった。
神々の娘たる聖女相手に対等に振る舞うなど、あまりに勘違いしすぎた馬鹿な行いだ。
それだけで神々から天罰を食らっても仕方のない愚行。
「では地上に戻りましょうか」
面頬をしっかりとつけていることも確認し、俺はテイラーを肩に担ぐと袋から転移のスクロールを取り出した。
月神の神託は受けたが、とにもかくにもオーキッドと会おう。
大剣の騎士は今の俺が正面から戦って敵う相手ではない。何かうまい手段を考えなければならないだろう。
◇◆◇◆◇
爺がいた頃と大して変わらない納屋から出れば、また様相が変わっていた。
「おいおい、納屋を小神殿で囲ったのか……」
マジかよ。なんて贅沢な。いや、穴の危険度を考えればこれでいいのか。むしろなぜこの納屋を残すのか。
こんなもん取り壊してしまえばいいのに、と俺は不気味そうに育ての親たる爺が建てた納屋を眺めた。
「……やはり……聖アイアン、いえ、鉄の……」
ぶつぶつと呟く聖女カウスを余所に、俺はこの小神殿から出るべく出口を探す。
神殿内部には火のついた松明が置かれていた。採光用の窓の外に星明かりが見える。
地上は夜か、と思っていると聖女カウスが星神に奇跡を祈り、小さな明かりを周囲に灯していた。
「わざわざ奇跡を使うほどではないのでは?」
「すみません。私ぐらいにもなると、些細なことにでも奇跡を願わないと、むしろ力の扱い方が弱くなりますから」
言われて納得する。俺とて一流程度には多くの武器武術を使うことができるが、定期的に全ての技術の鍛錬をし直している。
修めただけでは二流で、維持できて初めて一流を名乗っていいとは爺の教えだ。
技術を使うということは、技術を高める為でもあるし、衰えさせない為でもあるのだ。
「信仰とは小さな祈りの積み重ねですから」
優れた術者は多くを祈る。その度に小さな奇跡を授かる。その積み重ねで神の傍へと近づいていく。そういう意味のことを聖女カウスは言う。
「キース様も、帰還の報告を女神アルトロに祈ってはどうですか? 加護を受けているのでしょう?」
俺は加護を受けている実感はないが、聖女カウスには見えるのだろう。大変でしょう、という顔で微笑まれる。
今祈ればきっと神託についてせっつかれるだろう。
ちなみに、聖女カウスには神託の内容を話してはいない。
「あー、いや、俺は……」
月神を考えて気まずくなる。
神託で早く殺せと言われたが、すぐやるつもりはない。
今行けばただ死ぬだけだ。準備が不足している。
猫に入手した道具の鑑定を依頼していないし、道具の補充もまだだ。
ドワーフの爺さんに預けた武具の整備も終わっていない。
(とはいえ、な。祈らないのも問題か)
では、無事帰れたことを
そんな心地で聖印を取り出した俺を見た聖女カウスが困った顔でいけませんと忠告してくる。
「キース様、帰還の祈りなら、アルトロ以外に祈るのはやめた方がいいですよ」
「……まずいですか」
「あの神はかなり嫉妬深いです。それに、戦士が戦いの場でアルフリートに祈ることをアルトロは咎めませんが、帰還の祈りはダメです。無事に帰れたことの感謝は、アルトロにきちんと報告した方がいいのです」
確かに、と俺は頷いた。不義理ということか。そう言われてしまえばそうだな。
「そうですね。アルトロならば今は軽く祈るに留めて、後日きちんとした祭事を行いましょう」
「……そこまでか?」
「あの、キース様は神々との交流をどうお考えなんですか?」
俺が呆然と言葉を返せば、聖女カウスに呆れた顔で問われた。
そうか、この違いか。この違いが俺の信仰心なのか。
納得したように頷けば、神殿の扉が開くところだった。
「キース、まだ出てこないのかお前は」
傍らに司祭様と、
その足元には鼻を垂らした小僧がいる。その傍らには同じく鼻を垂らした小娘も見える。
どこかオーキッドの面影のある子どもたち。
顔が引きつるのが、自分でも自覚できた。
「なぁ、何年経ったんだ?」
震えるような俺の声にオーキッドは寂しげに微笑んでみせた。
「三年だ。おかえり、キース」
抱きついてきた妻を抱きしめ返しながら、俺はその暖かな匂いを吸い込んだ。
肥沃の香り、麦の匂い。
地上の匂いだった。
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