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あの火狂いには気をつけろ。
――とあるエルフの冒険者について
◇◆◇◆◇
来る! 来る! 来る!! 闇の空を切り裂いて、一頭の龍が飛んでくる。
赤い。赤い鱗の巨大な龍。龍眼が発動する。見て、理解する。
強大なデーモンだ。瘴気の密度が濃すぎて弱所が存在しない。あれがこのダンジョンそのものの主と言わんばかりの瘴気の量。あれが外に出ればそれだけで神話の災害として認識されてもおかしくないほどの
戦力評価。見て理解する。あれは怪魚のデーモンより
あれは、龍のままだ。蓄積した経験そのままデーモンと成ったのだ。成ってしまったのだ。
紅玉龍ダニエル。チルド9の守護龍、銀龍ゲオルギウスの血を引く古き龍よ。
「キース! キース!! 護りを捨てて走れ走れ! 来るぞ来るぞ来るぞ! 火が来るぞ! 炎が満ちるぞ!!」
興奮したようにエリエリーズが怒鳴り続ける。彼方の龍が近づいてくる。大口を開け、その口中に赤い魔力が満ちていく。龍が操る熱と火の神秘。
背後のエリエリーズの杖は間断なく振るわれ、その手に持つ指輪が魔力を放つ。俺たちに向けて宙空を滑って迫る亡霊どもが次々と焼かれていく。
「護りを張るぞ」
大きくエリエリーズが息を吸った。詠唱か。だが相変わらず奴は炎を操り続ける。詠唱をしながら魔術も使うのか。隙などない。エリエリーズは恐るべき練達の魔術師であった。
「原初の火。ウォルナルスの灯火。ヘキサの溶岩。吠え猛る火は数多あれど、火を防ぐものは数少なし。ヨルダの燐光。アクエリウスの砂。ドウグルの灰」
大通りを俺は駆けていく。長い。思ったよりも長い。隠れ潜んだ隙間からでは、闇の深さや、大通りが緩く弧を描いていたこともあって、その全てを見通すことはできなかった。だが、それでも長い。長すぎる。
戦象地帯を抜けた先、未だ続く通りの両脇に屍体の積み重なった山が見えた。
「エンダルシア。アンダルシア。我はエリエリーズ。火の理に灰を被せるものなり。《灰の外套》ッッ!!」
強力の火への護りが俺とエリエリーズへと与えられる。
「火龍の息吹を防ぐほどではないが、これで余波には耐えられる筈だ」
エリエリーズの言葉に深く頷き更に速度をあげていく。だが、逃げ切れるか。空間がビリビリと震えている。俺たちは、
この龍のデーモン。威圧感。やはりボスか。ボスなのか。彼我の距離は未だ遠く。奴は上空高くにいるが意思を感じる。エリエリーズの人形に反応して出てくるから自動的なものだと思ってしまったが、そんなことはない。この戦象地帯は幽閉塔の螺旋階段を上下移動していたあの魚のような意思なきギミックではない。
轟、と轟音が響く。地上近くまで降りてきた火龍が火を吹きながら大通りを飛んでくる。
死の衝撃。戦象どもの悲鳴が響く。亡霊たちが悲鳴を上げて消えていくのがわかる。
「ぐ、おおぉぉぉ、おぉおおおおおおおおおおおおお!!」
危地だ。死地だ。地を蹴る。オーラを練り上げて両足に集中する。衝撃に背中のエリエリーズの呼吸が止まる。ベルセルクとまではいかないが、それなりの速度が出る。間に合うか。駆け抜けられるか。
熱い。心臓はまるで早鐘だ。熱いぞ。筋肉が餓狼のように叫び吠える。おお、火だ。炎だ。死だ。龍の迫る音が耳に届く。
一秒が長い。叫ぶ。叫びながら足を前へ。前へ進めていく。道の先に境界線のように地面に焦げ跡のない場所が見える。
あの先が安全圏か。だが、遠いぞ。遠い。遠い。遠い。燃える。このままでは燃えてしまう。
計算違いだ。罠を見てから間に合うとか、辺境人ごとき戦士が計算なんて慣れないことをしたから祟ったんだ。
だが、それにしたって炎が早い。龍が疾い。
「キー「舌を噛むぞ!! 黙っていろ!!」
何かを言おうとしたエリエリーズに言葉を叩き込む。糞。糞。くそったれ。こんな場所じゃ使いたくなかった。この先、何があるかわからねぇから。この先に、何がいるかわからねぇから。
ぎぎぎ、と強く、強く歯を噛みしめる。軋るように全身に力を回す。使いたくない。だが、もはや全てを使い切る他、俺が、俺たちが生き残る目はなかった。
「おぉぉ――おぉおおおおおおおおおおおぉおおおおおお!!!!!!!!!!!」
自力でのベルセルクの発動。せいぜい保たせて10秒の全力だ。筋肉に過剰なオーラが供給される。全身が爆発するように熱くなる。周囲の景色がすっ飛んでいく。あっという間に目標の境界線を超える。だが俺は止まらない。止まらない。――
炎が迫ってくる。息吹は未だ通りを灼いている。龍が迫ってくる。追いかけてくる。境界線を超えてなお、エリエリーズの施した火への護りを息吹が炙ってくる。
火龍よ。俺を殺すか。殺せるか。
赤が、熱が世界を覆っていく。呼吸が止まる。周囲の空気という空気が熱されていく。燃やされた。灰の護りで瞬間だけ守られる。護りが燃え尽きる。十分だ。俺は止まらない。前へ、前へ、走っていく。息吹を突き抜ける。
――ルォォオオオオオオオオオオオオオンンンンンンン!!
「ぉおおぉおおおお――ぉぉぉ……」
安心したとは別の意味で足から急速に力が抜けた。ベルセルクが終わったのだ。もつれたままにすっ飛んでいく身体。二転三転し、壁にぶつかり、樽の山を破壊した。
戦象地帯は突破した。火龍の脅威は空へと消えた。大通りを抜けた。抜けられたのだ。
息を吐いた。背中のエルフは無事か? 生きているか? 身体に力が入らない。俺の身体に押しつぶされた枯れ枝のようなエルフが力のない身じろぎした、ように思える。
「ぐ、か、身体に力が入らねぇ……。お、おい。
ぜぇぜぇと掠れ声のように背のエルフに問うた。死地は抜けたがここは危地だ。ベルセルクの弊害だ。今すぐ立ちたいが、身体に力が入らない。
このままというのはマズかった。全力で走り抜けることで火龍の脅威は去ったが未だ周囲に亡霊は残っているし、途中で見た動く屍体の山も問題だ。加えて周囲の脅威の確認をしていない。今の火龍の炎はこのダンジョン特有の『節目』のようなものだ。脅威が更新され、新たなデーモンが現れる可能性がある。
このまま悠長に倒れている暇はない。だが自力でのベルセルクを使いすぎた。戦闘で一瞬だけ使うのとはわけが違う。俺は疲れ切っていて、身体に力を戻すのにもう少しばかり時が必要だ。周囲の警戒をエリエリーズに多少なりと頼む必要があるのだが……。
「エリエリーズ? エリエリーズ? おい、死んだか? なぁ、おい?」
未だ力の入らない声で問えば、震えるような呼吸音が背中からした。よかった。エリエリーズ。生きていたか。
「お、おぉ……この……火に炙られたような森の匂い……」
「エリエリーズ?」
炙られた? 護りを突破されている。1秒程度とはいえ、火龍の炎を俺は駆け抜けた。
確かに俺の身体は多少燃えて、多少は焦げ臭いだろうが。森だ? ああ? 幻嗅でも嗅いでるのか。俺の背のエリエリーズは痛みも感じてないように、茫洋とした言葉を吐いていた。何を言ってるんだこいつは。なんの話だ?
ぶつぶつとした、朦朧とした言葉。魔力の使いすぎか。俺の背に潰されて脳を揺らされすぎたのか。
――それは、不吉な言葉だった。
「ああ、
嘆息だ。灰の吐息が俺の耳を揺らした。
そうして数秒。正気に戻ったのか。エリエリーズが俺の背で身じろぎをした。
「
「ん……ああ、悪いな。身体が動くまで少しかかる」
舌打ち。エリエリーズが指先を振るう。小さな炎の人形が現れて、俺の身体を瓦礫から引きずり出す。
倒れたままの俺の前でエリエリーズがふらふらと立ち上がる。頭を抑えている。その吊り上がった口角がどうしてか不吉だ。
「おい、エリエリーズ?」
「ああ、心配するな。弱いが結界を張る。貴殿が動けるようになるまでは保つ筈だ」
小さな詠唱。振るわれる指。撒かれる灰。確かに、一流の魔術師による退魔結界だ。このような瘴気渦巻く場でなければ年の単位で場に残るような強力な結界だろう。
「悪いな。手間をかけさせた」
「気にするな。骨を折りかけたが火龍を命を失わずに突破できたのは貴殿の力あってだろう。ただ、結界を張ったとはいえ、この場に2人も生者がいれば亡霊がすぐにでも寄ってくる。私はこれで去るが構わないな?」
頷く。だが、何かエリエリーズは急いでいるように見えた。
エリエリーズ。なぁ、おい。なんだその口は、どうしてそんな引き攣ったように笑っている。
「……おい、
疑問を問うことはできなかった。何かを暴くような危険さがあった。そこまで俺とこのエルフは親しくない。踏み込むことの危険を感じる。
俺の身体に力は未だ戻らない。相手は万全ではないとはいえ、強力な魔術師だ。殺される可能性がある。
「どうした
迷った末に、意味のない言葉を俺は掛けた。掛けてしまった。
「心を強く持てよ」
強い瘴気は心を弱らせる。弱った心にデーモンはつけ入る。
辺境人が聖衣を一人前の証とするのは、無条件に信じられるものを、心の支えを得る為だ。
俺の言葉にエリエリーズは不快げに鼻を鳴らした。
「心配するなよキース。私を誰だと思っている」
魔術師エリエリーズ。火に魅せられた男。すでにして、火に狂っている男。
火龍の息吹の跡を眺めた男は満足そうに薄く嗤い、その場を去っていった。
◇◆◇◆◇
力が戻り、袋から俺はハルバードや鎧を取り出した。
「森の……匂い……」
鎧からは、オーキッドが焚き込めた聖龍蘭の匂いがした。
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