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 オーキッド・ブラックデザイア・セントラルは陽光の入ってくる窓を背に小さくため息をついた。

 執務机の上には未処理の書類が山積みになっている。最近やらせている田畑の検地やほそぼそとした交易の報告などだ。

(ああ、なんとも、ままならんな……)

 我慢は慣れている。人生の全ては我慢の連続だったからだ。生まれてより死ぬまで我慢を続けるのだと信じていたからだ。

 その境遇からは最愛の夫のおかげで開放された。

 それでもまだ我慢は続いていくらしい。納得はできないが理解はしている。人生とはそういうものだと割り切らなければならないのだろうと。

(深刻だが、どうにかしていかないとな……)

 辺境は未だ未熟だ。

 その歴史、武力、神秘、呪術などなど。大陸中央を遥かに圧倒するものが存在するものの、それ以外の文化的な部分においては赤子のようなものだ。

 自身の知識でも十分に役に立てるとわかったときは少しばかり喜んだものだが、ここまで手をつけなければならない部分があるとなると頭も痛くなってくるものである。

(どうしたものか……)

 チルド9時代に皇帝が残した制度の多くも長き年月によって多くが風化している。

 特に文官の育つ土壌が完全に崩壊しているのが問題だった。

(『肥沃の聖女』様が、神官になれなかった人間を内政のできる人材に育て直していたのは助かったが……)

 その試みもそういった人間を哀れに思った肥沃の聖女個人の行為である。組織として大体的にやっていたわけではない。

 そもそもそれらの人材は神官になれなかった・・・・・・人間だ。

 当たり前のことだが、なれるならなれてしまった方がいい。人材としての質も貴重さも需要も文官より神官の方が高いのだから。

(それに、戦士の育成の方が急務なのはわかる)

 辺境とは絶妙なバランスの上に存続している薄氷のような土地だ。4000年もよくぞ生き続けてこれたものだとオーキッドはこの大地の上に立ち、人々の営みに感嘆する。


 ――だが、この辺境は常に危うい状態にある。


 4000年、いや神話の時代から外敵と戦闘をしている土地なのだ。

 そしてデーモンの攻勢は過激になるばかりだ。その脅威は驚くべき辺境の人々ですら耐えきれないものになりつつある。

 今もなお、次々と前線に出ていってはデーモンと相打つように死んでいく英雄、戦士、神官。

 辺境の戦士は1人で大陸の一軍に匹敵するかもしれない。

 しかしデーモンもまた辺境の戦士と同じぐらいに強いのだ。

(この均衡を維持する為にも、だ。内政用の人を育てる前に、人口を上げる必要があるな……)

 その為の農地改革だ。だが果たして何年かかるだろうか。

 それでも人を増やして戦士も神官も文官も均等に育て上げていかなければならない。

 内政は大事だが、戦士になるべき人々を文官に育ててしまうことは問題だった。

 一番消耗の激しい人材が戦士なのだから。

 そう、この点だけは履き違えないようにしなければならないとオーキッドは強く思う。

 のんびりと内政だけをやっているわけにはいかない。


 ――デーモンがいるのだ。


 人類の敵。デーモン。その脅威を忘れていない。その恐ろしさを人生の全てで思い知らされてきた人間として、オーキッド・ブラックデザイア・セントラルはその脅威に対抗しなければならない。

 デーモンは絶滅させる。必ずだ。

 その人生の全てを費やしてでも。

「それはそれとして……キース。なぜそうまで文官達にひどく当たるんだ?」

「は? 殺してないだけマシだぞ俺は」

 即答にぐぬぬ、とオーキッドは唸る。

 これも問題だ。自らの夫でありながら、いや、夫だからこそ改めて欲しい問題だった。

 辺境に蔓延っている戦士の文官蔑視の風潮。

 戦士は文官を神官の出来損ないだと思っている。下手をすれば神殿所属だというのに、その辺の村人にも劣る存在だとも。

 だが、察しの良いキースはオーキッドの悩みに笑みを浮かべた。

 凶相だった。

 オーキッドは思い出す。オーキッドには格別に甘いが、そもそもこの男は大陸では『赤鬼のキース』と呼ばれるほどに喧嘩っ早い武侠の1人なのだ。

 今は落ち着いているが、もともとは絡まれれば相手を叩き殺さずにはいられない性分。

 オーキッドには従うが、領主キースに反発する神殿育ちでプライドの高い文官達を生かしているのは、ひとえにキースの慈悲だった。

「どうにかしたいなら、奴らの貧弱な肉体を鍛えるべきだな。そしてデーモンの1匹でも殺させろ。文官どもが武名を高めれば戦士達も自然と敬意を抱くようになる」

 それができればどれだけいいか。オーキッドは反論を飲み込み。唸るだけに留める。

 大陸の基準で考えてはいけない。キースのそれは、この辺境の地ではただの正論だった。

(そうだな……それも、そうだ。旅するときに護衛がなければ生きていけない文官はそもそも生存が奇跡的、か)

 オーキッドもこの土地で暮らすようになって様々な辺境の常識を覚えた。以前はよくわからなかった辺境の価値観も徐々に覚えてきている。

 キースの言っていることはきちんと理解できる。

 辺境は安全な土地ではない。野に住む獣1匹でさえも人1人ならば軽く殺してみせるほどの魔境なのだ。

 そんな中で身を守る力がないのは、仕方がないではなくただの怠慢である。

文官たちかれらが一人前の神官だったならばこんなことを悩まず済んだんだろうが……)

 もっとも神官でなかったからこそここに送られてきたので、それは意味のない仮定だ。

 神官。そう、神官は武術には明るくないが『奇跡』を覚えるようになる。奇跡。神術とも言われるそれは神官たちの武力だ。

 それは肉体強化や耐性付与の他に直接的で攻撃的な神の奇跡の数々でもある。

 肉体的には戦士に劣る神官たちがデーモンや野生動物に対抗する為の術だった。

 村に駐留する司祭のように武術も神術も収めている例外もいるにはいるが、基本的に神官にとって武術は二の次で、第一は神術だった。

(そう、文官は弱い。辺境人の特性があるから大陸の騎士よりは十分に強いが、辺境で生きていくには難しいぐらいに弱い……)

 神殿で育てられた文官は武術を修めていない。

 さりとて神官としての技能を持たない文官は奇跡を扱えない。

 武に重きを置く戦士たちが文官を口先だけの能無しと罵るのも、当然のことだ。

(いや、これを当然とすると内政ができないから駄目なんだが……大陸とは違うからなぁ……)

 『肥沃の聖女』もまた、武術には明るくなく、彼らにはそれらを教えていなかった。

 結果として、文官である彼らはそこらの村人よりも弱い人間となってしまっている。

 村人にまで侮られるのはそのせいもあっただろう。

 これでは迂闊に外に出すと普通に死んで帰ってくる。戦士を護衛につければ済む問題だが、誰も彼も替えの効かない人材である以上、これはオーキッドに特大の頭痛をもたらす問題だった。

「それで、だ。キース。お前は何をやってるんだ? 今日は外に出なくていいのか?」

 ん、とキースが自分に視線を向けてくる。戻ってきた当初は次の探索の準備に忙しく村中を駆け回っていたキースだったが、最近は落ち着いているようだった。

 いつ次の探索に出かけるのだろうか。内心の寂しさを顔に出さないようにしながらオーキッドはキースの答えを待つ。

 膝の上にジュニアを載せて、だぁだぁとぐずる我が子をあやしながらキースは笑っている。

 この部屋に他に人はいない。キースと文官が顔を合わせるとろくなことにならないからオーキッドが追い出している。

 彼らには悪いが、ちょうどよい家族の団欒の時間だった。

 キースはオーキッドの問いに笑ってまぁなというだけだ。そうして逆にオーキッドに問いかけてくる。

「で、他に悩みはあるのか? 言ってみろ。聞くだけ聞いてやるから」

 領主としての仕事をキースはオーキッドに丸投げしている。キースは文字が読めないし、政治の心得もない。何もできないなら混乱させないように手も口も出さないようにしているとキースは言っている。

 それはそれでいい。探索で長期間不在になるキースに仕事を与えるわけにもいかない。

 それに、そもそもオーキッドはキースには戦いに専念して貰いたかったから。仕事を与えるという考えは最初からなかった。

「聞くだけ聞く……か……」

 そうだな、とオーキッドは頷いた。まずは聞くだけ聞いてもらおう。

 この地に不慣れなオーキッドには文官たちには吐けない悩みも多すぎた。


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