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 善神大神殿。それはかつて辺境に存在したとされる、全ての善き神々を祀った信仰の聖地である。

 大断絶以前の記録では巡礼者たちが訪れる重要な巡礼地の1つとして描かれ、当時より生きる聖女様の多くが実在を語るも、大断絶の折に傍らに存在した魔境『黒の森』や神殿の周囲に広がっていた広大な神殿街と共に歴史からぽっかりと消失した。

 存在こそ信じられてはいたが、今を生きる人間にとってそれは神話や伝説と同じものだった。

「だが、それはここにあった。最も本当の神殿は上にあるものだろうが……」

 納屋の真下にある大穴。そこから少し進んだ先で、岩に埋まり、朽ち、瘴気に浸されたそこが本当の善神大神殿だ。

 だから今、俺の目の前に存在する白い都市。

 偉大で、巨大で、莫大な神秘を抱え、雑踏には人々や馬車が行き交い、人々の生活の証たる無数に伸びていく炊煙らしき煙、街の各所に見える人々の喧騒と市場の巨大さと多彩さはその繁栄を伺わせる。

 まるで巨大な生き物のように、神殿街は息づいている。

「滅んだはずなのにな」

 俺は知っている。狩人の記憶がある。商人の記憶がある。この都市が滅ぶ姿を、俺は知っている。

 だが彼らは何事もなく、何もなかったかのようにそこを生きている。

 俺の目を惹く巨大な都市とその奥にある巨大な神殿。

 だが、如何にそれが真に迫ろうとも、これは誰かの記憶によって再生された善神大神殿の影にすぎない。

 俺は大門の前に立つ。

 善き神々の大門。

 大陸で見てきたユニオン大聖堂の大門よりも巨大な門。精緻な細工が施された白き門。

 神殿街はその先に広がっている。多くの敬虔なる人々が暮らしていた、目の前の景色を信じるなら暮らしている街だ。

「そして、これは、感慨か? なんとも抗いがたいな……」

 街を前にして身中から湧き出る感情がある。

 この街は、俺と生きてきた時間の違う土地だ。見知らぬ、縁すらなかった街。だが、ボスのデーモンどもを倒したことで俺の肉体や魂はこの街のことを知ってしまっていた。

 俺のものではない感傷。記憶を覗き見ただけのそれ。だが、同時に俺の感傷でもある。それに、マルガレータ。俺と契約した龍の魂からも微かなれど無視できない感情が伝わってくる。

 門は大神殿より高所にある。窯の底のような、盆のように窪んだ場所に都市は作られていた。眼下に広がる街。結界を解いたからだろう。街を覆っていた白い霧は晴れている。そこに住む人々の顔がよく見える。

 それに光源はどこにあるのか。怪訝に思い空を見上げれば偽りの太陽らしきものが見える。

(背後に広がる黒の森とは、領域からして違うってことか)

 そして、だ。門より先の空間から伝わってくるものがある。殺意とは違う、だけれど肌が泡立つほどの害意。

 怪魚かみを殺した俺ですら恐ろしいと思えるほどの危機感。進めば常人では死ぬだろう。やはり、この先もまた死地であるということの証明か。

 それでも覚悟は決めている。如何な死地だろうと進まない理由にはならない。

「で、と。上のあれは……。太陽、ではないが、太陽に似た何か。光源ではあるんだが……」

 不気味だ。そして奇妙な予感がある。あれは恐らく厨房の壁肉や茨の迷宮に潜んでいた何か・・と一緒だ。

 触れれば侵される何か。神にも似た、しかし、神ではない何か。

 いや、神を殺し、いくらか成長した俺だからこそ理解できるものがある。

「破壊神、の一部か。あれは?」

 ダンジョンを司る理のようなもの。力が深層にあるとすれば、あれは探索するものを監視する意識のようなものか?

 だが神にしては、それは奇妙に過ぎる。神ではない気配もある。ただ単純に、触れてはならぬと感じるような何かが……。

「考えても無駄か。今は、無視をしよう」

 とにかく進まなければどうにもならない。観察を終えた俺はそうして門より神殿街へと足を踏み入れ――


 ――ざわ


 ――ざわざわ


 ――ざわざわざわ


 耳に入ってくる人々の喧騒。門をくぐったと同時に俺の脇を通り過ぎるようにしてそれらは去っていく。

「待っ……」

 振り返り、叫ばせたのは、心のどこかからか湧いてきた俺以外の誰かの感情だ。郷愁か? 懐古か? 疑問に思うも、後ろ髪すら捉えられずに人々の気配は去っていく。

「なんだったんだ……今のは一体……」


 ――そうして、気付けば冥闇くらやみへと、足を踏み入れていた。


「なッ!? ど、どういう……!!」

 門外から眺めた白い都市などここにはない。

 だから慌てて空を見上げた。そこには先程陽光にも似た何かを地上に落としていた太陽もどきはない。あるのは光にも似た闇を落とす、黒い、歪で巨大な穴。

「幻覚だったのか!? それも都市一つを覆うほどの!?」

 それも、龍の目を持つ俺を欺くほどの……!?

 門より一歩入った視界はもはや先のものとは別物だった。広がるのは幽閉塔のような全てを飲み込む視界さえおぼつかぬ闇ではない。視界を通す光にも似た闇。

 明るいと感じるのに、暗い光。

 眼前には、黒々とした、汚濁のような、炭のような神殿街に似た冒涜的な都市が広がっている……!!

 不気味さは幽閉塔ほどではない。だが、それでも感じる危険度は同等だった。否、それ以上。

「上等だ!!」

 ハルバードを構える。視界は悪くない。闇だが、光のごとき闇だ。周囲を照らすその闇によって、都市構造の把握は容易だ。

 門は高所にある。そこから出たばかりの俺もまた都市から見れば高所だ。上から見下ろすことで視界は良好だが、逆に言えば敵にも見つかりやすいということ。急ぎ都市へ向かって門より階段を駆け下りようとすれば、当然の如くに、空を漂うように浮いていた人型の何かが、滑るように俺へと向かってくる。

「亡霊かッ……!!」

 濃密な魔性の気配。デーモンに囚われた人々の魂が、悪霊となり、その上でデーモン化したものだろう。

 悪霊。呪的な攻撃を主とする死霊の一種だが、英雄でもない人間の霊である。如何にそれが辺境人の死霊だろうと、生者に対する莫大な憎悪があろうとも彼らの怨念は辺境人が生来持つ呪的な耐性を上回るほどのものではない。

 無視して都市へと向かいかけ――。

(いや、こんな魔境に存在する悪霊どもだ。そんなに甘いわけはないか)

 敵を観察して思い直す。奴らも辺境人おれの対策ぐらいは行っているようだった。

 遠目にも苦悶の表情を浮かべた悪霊ども。奴らは手に手に呪いの武器を持っていた。

 とはいえ、悪霊は非実体の霊体だ。悪霊自体が武具を持っているわけではない。

 手で持っているように見えるあれらは、思念操作の呪術である『念動』で浮かせているだけである。

「まずいな」

 見ただけで理解できる。あれらはこの階層の雑魚に相当するのだろうが、けして油断してはならない難敵なのだと。

 悪霊の質など俺には理解できないが、優れた武具は理解できる。

 優れた武具には特有の匂いがある。

 それは刃の鋭さだけでなく、備わっている神秘、経た年月や戦いのにおいから嗅ぎ分けることができるものだ。

 凡庸な武器には備わっていないものだ。

 あいつらの持つ大鎌や三叉槍は幽閉塔で蟲人どもが使っていたギザギザの刃を持つ武具。あれらと同じかそれ以上の業物の気配がある。無論、武技の心得もへったくれもない悪霊の念動だ。ただ斬りつけられた程度では金剛鋼アダマンタイトで鍛えられたこの鎧を貫通できはしない。

 だが、あれほどの悪霊ともなれば鎧の守りを貫通して肉体のみを斬りつける『透明化』の呪術ぐらいは使えても不思議ではない。

 この頑丈な鎧は良いものだが今回はあまり期待しない方がよさそうだ。

 そして、なんの対策もなく奴らの刃を受ければ皮膚程度容易く切り裂き、その呪毒をもって肉体を汚染してくることは必定だろう。

 呪いの対抗手段として聖衣があるにはあるが、リリーの皮膚も、オーキッドのマントも物質的な刃を防ぐことには向いていない。

「迎撃はできるが……いや、そうか……やはり準備は必要か」

 ヤマの火で鍛えられたハルバードそのものに聖なる力はある。あるが、ここは聖水による補助が必要だ。

 心中で袋の中にある聖水の数を数え上げれば、どう考えても数が足りないことは明白だ。

「とりあえず敵の力量を見るために一戦。そして、撤退だな」

 水神との戦いで聖女様から頂いた強い力の聖水は使い切っている。残っているのは司祭様から頂いた聖水が3本。

 当然、込められた神秘に曇りはない。ないが、このような異様な世界で戦い抜くには少し以上に量が足りない。

「全く。地上に戻ったら聖女様に聖水をおねだりしなきゃならねぇってのか……えぇ?」

 俺に母親はいないが、小遣いをねだるドラ息子というのはこういう気持ちなのだろうか。

 ハルバードの刃に聖水を振りかけ、宙より迫り来る悪霊どもに向けて大きく構えながら、俺は口角を歪に吊り上げた。


                ◇◆◇◆◇


 そうして悪霊どもと一戦した俺は聖女様の肋骨を用い、大神殿前の広場に出、猫に道具の鑑定をしてもらい、武具の補修を爺さんに頼み、転移の巻物スクロールを用いて地上に帰還した。

 のだが……。

「なんだこりゃ……」

 納屋の周囲には兵士がいた。納屋を囲うようにして柵ができており、その四隅には小さな祠のようなものがある。

 ざわめきだ。辺境の戦士らしく一分の隙もない構えで彼らは突然現れた俺に向けてハルバードを瞬時に構えた。

(うおッ。強いな。少なくとも村の戦士レベルじゃないぞ)

 村人は村人で団結すれば神獣を殺せる程度に強いが、その強さとこの強さは少し質が違う。村人のそれは暴力と自由を多大に含むが、彼らのそれは規律と統制によって育まれた臭いがある。

「その出で立ち。その威風。只者ではないとお見受けするが、何者か……!」

 俺へと向ける誰何の声にも張りがある。礼儀がある。すごい。とりあえず不審者だからぶん殴ってから事情を聞こう、といった辺境人特有の杜撰さがない。かっこいい。

「ああ……そうだな……」

 俺は、きっとここで自らの名を名乗ればきっと争いは避けられるのだろうと確信しながらも、腰の袋に手をやり、いや、武器は爺さんに預けちまったなと拳を握って彼らに向けて構えた。


 ――とりあえず俺の力が通じるか……ぶん殴ってみたい。


 戦うのに理由はない。強いて言えば武侠として一手手合わせしてみたいだけだ。

 騎士として問題になるか? 大丈夫だ。辺境人同士の私闘などよくあること。せいぜいが聖女様に怒られるぐらいだろう。

 だがこんな強そうな連中と戦おうなんて、俺は傲慢になっているか?

 怪魚を殺し、神を殺した力を手に入れたからか? 数多くのデーモンを殺してきたからか?

 そうじゃねぇな。そうじゃねぇよな。強い奴を見たらとにかく殴りたくなる。これが俺だよな? 辺境人だよなあ!!

「とりあえず……だ! 貴殿らの力を見せてくれ!!」

 叫んだ瞬間、俺は彼らに向かって強く踏み込んでいた。だが接近は容易ではないだろう。俺が構えた瞬間に戦士たちから油断は消えている。

 それでもハルバード相手に距離を保つのは適切ではない。

「ぬ……! 疾いッ!!」

 踏み込みは神速。怪魚かみ相手にも発揮した俺の踏み込みは刹那で距離を殺す。ハルバードの間合いを自由に発揮できないように戦士の腕の内側に――「キースッ!! 帰ってきたのか!!」

 隊長らしき壮年の戦士の腹に拳をぶち当て、剄力と共にぶっ飛ばしながら俺は、俺を呼ぶ彼女へと振り返った。

「オーキッドッ!!」

 殺到してくる戦士どもへと突っ込みながら俺は叫んだ。

「ただいま! 今帰ったぞ!!」


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