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水を恐れよ。
―海洋神の司祭の言葉―
◇◆◇◆◇
直前に
そして敵の姿を確認する前に俺は駆け出した。全ては速度が勝負であった。
(まず、何よりもすべきこと! それは近づくことだ!!)
刃を叩き込む最低条件がある。
接近だ。距離を潰し、俺の間合いである近接戦闘に敵を引きずり込む。
(ハルバードだ。ハルバードを叩き込むのだ)
駆ける。駆ける。駆ける。重い鎧を身に着け、重いハルバードを手に持ち、重い騎士盾を背負いながら。
無論、何もしなかったわけではない。扉を開ける寸前に俺はとある水薬を飲んでいた。
筋力上昇、俊敏強化、肉体強化の三種の水薬。ごくごく短い時間だが、筋力を強め、足を早め、尽きることない
敵。巨大すぎる魚のデーモン。そこまでの絶死の距離をこれで踏破する。
驚くべきことに、俺は恐怖を感じていなかった。
瘴気の圧力は本物だ。肉腫によって蝕まれた恐ろしい部屋。その中心にて静かにその
邪悪な神威に包まれ、腐れた瘴気を垂れ流し、刃のごとき髭を持つ、人面に蝕まれた長大な怪魚。
侵入者を感知した堕ちし凶悪な水神が俺の視線の先でゆるりと舞った。
『怨ォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオンンン!!!!!!』
腹に沿って線上に並ぶ人面がおぞましき絶叫を上げる。呪いが効かぬ筈の辺境人でさえその場で心臓を止めかねない恨みに満ちた叫び。だが、だが、俺は動けていた。以前ここに足を踏み入れた時ならば動けなくなっていただろうその絶叫を聞いてなお、俺の疾走は止まらない。
穢れた神威への抵抗。それは俺の身体に癒着した原初聖衣の力だった。俺の心に神の呪いが届かぬよう、リリーの遺志が押し留めたのだ。
(そしてオーキッドが微かだが後押しをしてくれる)
以前はなかった愛の概念による抵抗。構わず接近してくる俺に向かい、怪魚の身体がぐるりと旋回した。
(これはッッ――!!)
接近はできている。だがまだ距離が遠い。ハルバードの間合いではない。
水の奇跡の気配はない。
しかし、鋭い怪魚の髭が刃が如くピンと伸びている。
直感。
横跳び。見るより早くに身体を動かしそれを回避する。鋭い音が遅れて耳に届いた。床に敷かれた灰色の煉瓦が抉られ跳ねる。
「ちィッッッ」
横目で確認すれば叩きつけられるようにして長大な髭が床に叩きつけられている。その鋭さ。重さ。もし当たったならば人間にとっては致命の一撃だ。
駆け出す。ここは危険だ。
視界の端でふわりと剣髭が浮き上がった。その動きは緩やかに見える。だがそれは死地にいることで極限まで集中できている俺の知覚の中の出来事だ。妙にゆっくりと見えるだけで、実際は――。
「あッ、ぶねぇッッ……!!」
再び音速を越えて振り下ろされる髭の刃をまたしても直感のみで回避する。
振り上げだけがゆっくりに見えるだけで、剣髭が振り下ろされる速度は目で追えるようなものではない。俺は絶死の間合いにいた。
(それでも臆するな!! 立ち止まるな!!)
駆ける速度を緩めるな。もう少し。もう少しなのだ。
手に持ったハルバードを強化された剛力で強く握る。残り、十数歩。それを踏破し、俺の力を示すのだ。未だただ生者を恨み、蝿でも追い払うような気分で
(本当は、音響手榴弾を使いたかったが……!!)
目の前の神は、どう見てもあんな小細工が効くような相手ではなさそうだった。魚のように見えるが、その本質は魚ではない。神なのだ。
低級のデーモンどもと違い、五感以外にも何か知覚を持っていると思わなくてはならない。
無論、効くかもしれない。試しに投げてみてもいいかもしれない。だが、あれは俺にも影響がある。耳に響くし、光は目を焼く。不確定な要素に頼るよりも、一歩でも早く距離を詰めた方が良さそうだった。
飛び散った石片が鎧にぶち当たってくる中を俺は半ば祈るように飛び込んでいく。直感と運任せの自棄にも似た突撃。速度の勝負であった。俺の至近すれすれを刃がごとき髭の乱舞が踊り狂う。
――それは巨大な死の塊である。
「ふッ……!!」
息が止まるような致死圏を俺は駆けている。
ここまでこれたのは幸運だった。だが、ここまで近づけたのはただ運が良いだけではない。
デーモンを殺し力を高めた。
聖衣を手に入れた。聖衣に力が宿るだけの出会いがあった。別れもあった。
水薬を使った判断力。
敵が未だ俺を侮ってくれていること。
あと数歩だった。
そして、ここまで接近すれば髭の刃は怖くはない。剣髭の先端こそ音を越える速度で振り回されてはいるが、根本ともなればまだ音程度には遅い。
強化された知覚ならば、余裕はなくとも避けられる。
「ふッ……!!」
一歩一歩だ。一歩地を蹴る度にオーラを練ってきた。
それはこの部屋にたどり着くために俺が覚えた生存の為の技術だ。瘴気で死なぬ為にはそうするしかなかった。それを行うしか生きる術はなかった。
積み重ねてきたのだ。
だからこそ、そのオーラの技術を攻撃に転用する。
疾走と共に練られたオーラをハルバードに流し込む。
竜刃のハルバード。その刃はオーラをよく蓄えるオリハルコンで作られている。故に俺が力いっぱいにオーラを流し込んでも炎剣のように飽和することはない。
そして、その表面は部屋に入る直前に刃に流した中位聖水がてらてらと光っている。
「おぉぉ――」
もはや鞭は届かない至近の距離。篭手の内側で蟷螂の指輪が鈍く力を放ち、ハルバードの刃に鋭き輝きが宿る。
水薬で強化された両腕の筋肉が、ぼこりと異様な音を立てて膨張する。
「ぉおおおおぉぉぉ――」
ただ一撃に専心する。俺の激情。それを現実に。両手に握ったハルバードに追加のオーラをぶち込む!!
「ぉおおおおおおおおおおおおぉぉぉ!!」
ゼロ距離だ。身の程を知らぬ辺境人を殺そうと怪魚がぐるりと身をひねる、愚かにも近づいてきた羽虫を尾で叩き潰そうとでもいうのか。
だが――。
だが――――。
「ぉおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!」
――俺の方が速い。
奴の見せた腹に向かって腰を捻りながら、神速で踏み込むと共にハルバードを薙ぎ払う。
炸裂する俺のオーラ。ヤマの火によって打たれ、聖水によって高められた浄化の力がデーモンの身体を絶大に焼く。
『ギギギギィイイイイイイイイィィィイイイイイイイイ!!!!』
それでも、この好機だけは逃せない。回転のままに俺は刃を更に叩きつける。立ち止まり、何度も! 何度も! 相手の衝撃が消え去らないうちに! 刃を振り上げる。振り下ろす。突き、叩き、蹴り飛ばす。今この瞬間に殺すべく!!
「おぉおおおおおおおぉぉぉおおおおおおおぉぉぉぉおおおおお!!」
それでも、敵は生半ではない。
痛撃は何度与えられたか。わからぬうちに奴の身体が轟、と回転する。
巻き込まれないように下がりながら息を吐く。
初撃は俺の優位に進んだ。
だが同時にそれは相手を本気にさせることだった。
もはや先のような緩やかな殺意はそこにはない。
凶殺である。
抉られた人面からどくどくと血のようにおぞましき瘴気が垂れ流されている。
絶対なる神威によって発せられた威圧が、
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