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 人一人が通れる木製の扉を前にして俺は軽く呼吸をした。

 逸る気持ちを抑える。まずは準備をしなくてはならない。強敵を相手にするのだ。すべきことをする。

 まずは手早く周囲の安全を確保する。索敵をしっかりと行うと聖水を撒き、聖域のスクロールを使用する。

 聖域は構築されない。

 とはいえ効果は出ていた。淡い結界のようなものが聖水を撒いた範囲に構築される。

 無論、聖印の使用とは違う。さほど強力なものではない。

 長くは保たないし、半魚蟲人レベルのデーモンが触れれば消し飛ぶようなものだ。

 転移のマーカーにもならない。

 それでも赤子蟲を遠ざけることができるようになるし、瘴気のない正常な空気を吸うこともできる。

 休息を行うには十分だった。

「始めるか」

 短時間であるが瘴気の影響を排すると、俺は床に毛布を敷き、手早く持ち物を床に並べる。

 それは武具用の手入れ道具などだ。

 まずは使った武具の確認をする。ドワーフの仕事を疑うわけではないが、ハルバードの実戦投入は今回は始めてだ。どのような具合か確認しておきたいし、労ってやりたい。

 俺はハルバードの汚れを布で落とすと、刃を丹念に確認しながら、携帯用の砥石でハルバードの刃を研ぎ、武具用の油を塗る。そうしてから布で油を拭い、改めて刃や柄を調べていく。

 口角が釣り上がる。ため息を漏らさずにはいられないほどに、良い武具だ。

 これからも頼むというように、小さく撫で、次へと向かう。

 茨剣。これも手入れを行う。奇妙な刃の射出と巻取り機構に関しては生物的なものであるため本職の鍛冶師にしか扱えない部分だが、刃だけでも磨き上げておく。

 ここに来るまでに負傷はしていないが鎧も逐一確認しておく。盾もまた同様に。

 それらに小さく、これから頼むというように声を掛け、俺はあのドワーフの爺さんにさらなる信頼を寄せた。

 これほどの名品達。ドワーフの名匠にしかできない期待以上の仕事ぶりだ。もし帰れたなら、礼に酒を持っていこう。

 そうしてから俺は軽く食事をとることにする。

 長期戦になる可能性を考えれば、胃に軽く物をいれておいた方がいいだろう。

 少なくとも、空腹で判断を鈍らせるということはないようにしておきたい。

「妙に心がくすぐったい気分だが」

 袋から取り出すのは家から出る際にオーキッドから受け取った弁当だった。

「む」

 サテュラーナかエルフの娘にでも材料を調達させたのか、なかなかに良いものが使われている。厚く切ったパンに野菜や肉やチーズを挟んだ単純な料理なのだが、使われている素材のいくつかは村で手に入る類のものではない。

 半馬娘と長耳娘を思い出す。入手先はあの2人だろうか?

 しかしサテュラーナはともかく業突く張りの長耳どもが素直に物を渡すわけがないので、きちんと交渉をしたのだろう。

 あの娘もまた、あの娘なりに辺境で生きていこうとしているようだった。

「……順応してるな。あの娘も」

 神々に食前の祈りを。それとオーキッドの地上での無事もまた祈る。

 そうしてやっとオーキッドの手料理に口を付けた。

「美味いな。丁寧に作られている」

 貴族娘だが、騎士としての修行も行っていたと聞いた。そのときにでも覚えたのだろうか?

 ガツガツを食らっていく。

 美味い。美味いが、やるべきことは多々あった。オーキッドの手料理を喰らいつつ、ワインで喉を潤し、持ってきた道具を確認していく。

 武具。防具。これらはいい。それなりに強く、また使い捨てられる堕落ギザギザ武具も確保している。数はそう揃えられていないが、半魚蟲巨人どもの装備もいくつか。巨剣や巨盾などは十分とは言えないが壁に使えるだろう。

 道具。水薬や音響手榴弾、聖水。十分とは言えないが用意してある。

「戦士の薬……あれは、どうすべきか」

 悩む。

 あれは感覚をおかしくする。また、時間制限もある。

 戦士の薬を使うことは恥ではない。それに、平常の己で立ち向かえる相手ならば必要はないのだ。

 だが、あの規模のデーモン。いや、神相手の場合は使わざるを得ないのか?

 少なくとも前回は使わなければ対応ができなかった。

(かと言って、軽く使うと逆に危険だからな)

 薬を使うならガツンとキメないと逆に危険だ。軽く服用すれば気分はよくなるかもしれないが、それでは意味がないし、神威に飲まれて妙な酔い方をしかねない。逆効果にならないように適量をきちんとキメる必要がある。

 しかしこの適量もまた危険なのだ。外では年単位の時間が経っていようと俺の肉体にとっては短期間の使用だ。地上でいくらか過ごしているとはいえ、対神用このクラスの薬は生涯で一回か二回か、というレベルのものである。

 所詮、この戦士の薬という奴は、悪神の都合の良いように心と身体を破壊されないように、先に薬で壊しているだけにすぎないのだ。

 と、いうことを口伝を教えられる時に、爺には口酸っぱく言われている。

 俺も、同様のことは使って実感している。使わなければどうにもならないから使うのだが……。

「一応、用意はしておくか……」

 使う必要がなければいいのだが。

 こればかりは対峙してみないとわからない。

(それでも、恐らくは大丈夫だと思うが……)

 材料になる薬草や毒草や木の実、茸をすり鉢ですりつぶし、あくまで保険だと言い聞かせておく。

 一度目の接触は薬に頼ったが乗り越えている。この経験がでかいのだ。

 辺境人の適応力はそこらの生物を軽く上回る。薬の影響があっても一度乗り越えているなら二度目は薬を使わなくてもいけるはずだ。

 また魔王級を滅ぼしたことでいくらかだが強大なデーモンに対する耐性ができている。神威を完全にはねのけることはできなくとも対峙し、戦うことなら可能な筈だ。

 原初聖衣もある。聖女様の肋骨もある。頼りないが、オーキッドの聖衣も持っている。

 善き神々の尖兵たる辺境人には、もともと悪性の神々への耐性が備わっている。

(……加えて言えば、一度、俺は死にかけたしな)

 狩人の記憶。あれに引きずり込まれ、精神の死を経験しそうになったことを思い出す。

 あの魚の神と対峙し、初見で命を奪われなかったのはあの記憶の影響が大きい。あれで、いくらかだが精神に神威に対する耐性がついていたのだ。

「こんなものか」

 すりつぶした素材を特殊な薬草からとれる粘液で固めてヤマの火で炙る。本当は日光に当てて乾かす必要があるが、ここでは望むべくもない。なので、ヤマの火だ。

 浄化の火なら日に晒したのと似たような効果になる。問題はない。

 作った薬は鎧の隠しの中にいれておく。あまり日持ちはしないし強すぎる薬だ。この戦いが終わったならきちんと破棄しておかないといけないだろう。

「……はぁ……」

 考え込んだが、あまり好きではないのだこれは。必要だから用意したに過ぎない。

 花の君との戦いでソーマを使い、前回の薬の影響からは完全に抜けているはずだが、二度目の使用は勘弁してほしかった。

(依存。依存か。治るのかこれは?)

 本来、薬の影響は強き意思で自制すべきもの。

 そう、前回の使用時の、快楽の記憶が俺の身体に消えずに残っていた。

「嫌な、記憶だな……」

 あの悪神との対峙の中で戦士の薬は恐怖を取り去り、高揚を俺に齎した。その中には巨大な快楽もまたあったのだ。

 戦いがあった為に深く浸ることなく一瞥したが、そこには無限とも思える、神秘的な広がりがあった。

 悪神やデーモンどもが善き人々に齎そうとする破滅への誘い。自滅願望。破壊願望。殺戮願望……。

 それとは違う、純粋な快楽にも似た、神とは違う何か巨大なものとの一体感。

 辺境人の神経だからこそ耐えられる、溺れるような快楽が戦士の薬の中には潜んでいる。

(悪神どもから心を守る代わりに、でかい代償を払ってないかこれ?)

 自分で用意したものを少しだけ不気味がりつつ、俺は天を仰いで薬を鎧の隠しから取り出した。

 ふん、と口角を釣り上げ。

 ひょい、と闇の広がる通路に放り投げる。

 赤子蟲が投げた丸薬に群がり、ぴぎぃ、と悲鳴を上げ、のたうち回る光景が見える。

「阿呆が」

 薬は否だ。今度は己の力で乗り越える。


 ――そうすべきだ。


 準備を続けよう。指輪を並べていく。

 身につける指輪の選定を行わなければならない。

 耐える水の指輪。これは確定だ。少しでも水の神秘に対する護りを得たい。

 残りは、ヤマにすべきか。いや、あの規模の怪物だ。炎はあまり効果はないだろう。それに魔力は龍眼用に残しておきたい。

 ベルセルク……上手く半死半生になれるか? あの規模の敵である。即死する可能性もある以上、あまり積極的に使いたくはない。

 が、いつでも取り出せるように指輪のケースではなく、袋の方に入れておく。

「残るは『蟷螂』か。無意味ではないが、少し物足りないな……」

 探索不足もあるのだろうか? 幽閉塔をもう少しきちんと探索できていれば何か他にも指輪が見つかったかも知れないが、ないものをねだってもしょうがないだろう。

 地上での時間の経過があるため、探索は行わない。あるものでどうにかする。

 それと、魔術は使わないが、水に対する耐性を得るために『尽きぬ泉プレシオ』は変わらず腰に下げておく。

「準備はこんなものだな」

 そうしてから、オーキッドの弁当を食い終えると瓶に入ったワインを飲み干し、小さく息を吐く。

「美味かった」

 荷物を仕舞い、俺は伸びをした。戦うための準備は整えた。

 ならばあとは、戦うだけだ。

 そして叶うなら。

「また、オーキッドの弁当を食ってみたいもんだ」

 地上で共に暮らしていたときにも思ったが、あれはなかなかに料理上手な嫁である。

 多種多様な人種の集まる帝国にていろいろなものを覚えてきたのだろう。

 面白い娘で、俺にはもったいのない娘。

 それでも今は俺の嫁なのだ。

 ゼウレに祈りを捧げる。勝利を。

 月神に祈りを捧げる。勝利を。

 戦神に祈りを捧げる。勝利を。

 ハルバードの柄を強く握る。扉に手を掛け、俺はマントの端を指で少しだけこする。

 篭手越しで手触りはわかりにくいが、そこにあの少女のぬくもりが残っていることを、ほんの少しだけ期待して。


 ――そして俺は、再び神と対峙した。


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