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ケンタウロスの英雄。弓聖サテュラーナに乗ったオーキッドは既に彼方だ。
運が悪いことにケンタウロスと女帝の仲は悪くない。もっとも良くもないわけではあるが、悪くもないわけで、奴もまた水の砂漠に作られた氷の道を駆け抜けている。
その根拠として、大地に女帝の呪術の残滓が残っている。サテュラーナが通った為に消えているが、道は一度作られたのだ。
後を追う形になっていた。
流石に辺境人たる俺とて、生身の足では、ケンタウロスの速力には勝てるわけがない。相当な幸運がなければ奴の尻尾の毛を見ることもなく敗北だろう。
勝負ごとなのだ。俺の名誉がかかっている。
それがどんな勝負であろうと負けるわけにはいかなかった。
「全部だ。全部ぶちこんでやる」
決断するのに躊躇はなかった。出し惜しむのは愚か者のすることだ。
袋から取り出すのは日課がごとく日々増殖させ続けていたチコメッコの短剣だ。
この複製短剣に、原型たるオリジナルのチコメッコが持つ加護の力は働いていない。優れた短剣か、せいぜいがチコメッコを称える祭具として使えるというだけでこれ自体に魔術や呪術の機能は載っていない。
だが、これの価値は別にある。この短剣が貴重な
鉄材として使うには優れたドワーフの職人の手を介する必要があるものの、この短剣に使われている黄金銅は混ざりもののない純正のものである。その価値は遺跡で手に入る同量のギュリシアにも並ぶだろう。
俺はそのチコメッコの短剣をありったけ袋から取り出し、水の砂漠に投入していく。底の見えない美しいガラスの海に、音を立てて黄金銅の短剣が沈んでいく。
地面に膝をつき、額を三度土につける。
「『女帝よ! 女帝よ! キース・セントラルが願い奉る。我にこの地を最短で駆け抜ける道を! そして我が敵の足を留める助力を!』」
その上で腕を走る血管を、残してあった原型のチコメッコで切り裂き、血を捧げる。
「女帝よ! 我が血と我が財を捧げます。どうか我に助力を!!」
願う俺の前で、奇怪な音を立てて、水の砂漠に道が出来ていく。
―『汝が願い、叶えよう』―
「感謝いたします!!」
俺は心の内で快哉の音を打ち鳴らした。
勝つ目が出てきた。女帝に礼を言うと、俺は目の前にできた道を素早く駆け出していく。
無作法であるが女帝には最短と事が急であると告げている。問題はない。
もっともこの氷の道を駆け抜けるのはある意味自殺行為でもあるのだが、その辺りは女帝も理解してくれていた。
氷の道に含まれている神秘が濃い。駆ける俺が判別しやすいように含む神秘の濃度をあげてくれているのだ。
「あとは……サテュラーナをどうにかしねぇと……」
殺せればいいが、相手は弓聖だ。まともな手段で倒すのは現実的ではない。
だがそれでもこの勝負に勝つには、領域の主が手を貸してくれている水の砂漠で手傷を負わせ、この勝負の間だけでもあの馬女が動けないようにしなければならない。
「弓聖よ、辺境人の勝負ごとに首を突っ込んだんだ。そのぐらいは覚悟してんだろうなッ!!」
肉体より溢れる感情は憤怒に似ている。怒りで肉体が加速する。自分でも驚くほどの速度。
こいつは、神秘の薄い大陸で活動していたからだろうか? 反動かどうかはわからないが、神秘の濃い辺境に戻ってきて、だいぶ肉体の調子もよくなってきた。あちらで魔王級を殺してきたせいもあるのか、心なしか以前よりも肉体も強化されているようにも感じる。
それとも、俺の怒りが俺が思っている以上に深いのか。オーキッド嬢。あの小娘に対して、俺はそれだけ怒っているのか。
(やっとまともな人生に戻れたんだろうが……ッ。やっと自分の人生を歩めるようになったんだろうがよ……ッ!!)
血統に根付くデーモンの呪いから開放されるというのはそういうことだ。デーモンとの関わりを失うというのはそういうことだ。
呪われていた人生から祝われる人生に変わる。絶望するために生き、死ぬのではなく。喜びと共に生き、死ぬことができるようになる。
呪いを子や孫につなげる人生からおさらばすることができる。喜びと共に生まれる命をただただ心底から祝うことができる。
(リリーが、あいつが命をかけたのはそのためのはずだ)
もちろんそれだけとは言わない。貴種としての義務感や、デーモンに好き勝手させないという正義感もそこにはあったはずだ。だが、その全ての根底には親しい人間の為に命をかける、人の誇りがあった。
俺は花の君を殺した時にリリーの理想たる景色を見ている。そこには確かに笑っているオーキッド嬢の姿があったのだ。
「無駄に、しやがって……!!」
仮面越しに顔を撫でる。この下には二目と見れない醜い顔がある。
デーモンと関わり、こんな醜男と契るなど可憐な少女には酷すぎる未来だ。
こんな状況でも、俺に取り憑いたリリーは何も答えてはくれない。
だが……。
「俺と契りを結ぶってことはよ。オーキッド。お前の人生をデーモンの暗い影がまた覆うってことだぞ」
リリーが命をかけて解き放った呪縛に、お前は自らまた囚われようとしているのだ。
そんな不条理、神々が許そうとも、俺がゆるさねぇ。必ずだ。絶対にだ。
俺は更に賭金を釣り上げる決意を決める。
「神々よ! 今この時だけでいい! 俺に助力を!! 自分から幸福を捨てようとしている哀れな小娘を救ってやってくれ!!」
オーキッド嬢が何の神の助力を得ているかはわからない。
それでも、それでもだ。
この勝負に神々が関わったとなれば、俺に助力してくれる神もまたいるはずである。
神々は一方的な戦いを好むことはしない。
――なぜなら、それだと面白くないからだ。
俺の祈りに呼応してか、恐ろしくも神々しき気配が俺の至近に生まれる。囁くような神威が俺の耳元でうっすらと嗤った。
『力が欲しいの?』
「
『対価は?』
「我が生をデーモンとの闘争に捧げる!!」
『よろしい。与えましょう』
ざくり、と音を立てて運命が切り取られた。何か大事なものが、俺の生の延長にあった何かがえぐり取られる。
魂のどこかが苦しくなる。心が悲鳴をあげ、涙が零れ落ちそうになる。
この瞬間、俺の未来から安寧が消え去った。神々と契約をしてしまった。デーモンに囚われてしまった。
今までも無論デーモンと関わってきた。だがそれは辺境で生きる人間として避けられない、その程度の問題だった。
(だがもはや俺は逃れられない。俺は、デーモンとの闘争で死ぬことになるだろう)
神威に導かれるように袋に手をのばした。袋の中をまさぐり、どの神と契約を行ったかを問わずとも理解した。
自然と手に取れたのはフェイルの新月弓。
――契約したのは、月と精神の女神アルトロか。
弓神に匹敵するほどの弓の名手ともされる月神アルトロとの契約。
主神に準じる女神アルトロ。これほどの神との契約となれば、俺が、破壊神を倒したあと、ゆっくりと余生を過ごすなどできないほどの重いものだ。
契約とはそういうことだ。今までのデーモン退治は、あくまで俺が自主的にやっていた趣味のようなものだった。
騎士としての任を受けても、あくまでそれは望んだことの延長でしかなかった。
辺境人の生が戦いの連続であろうとも、勤めを果たせば、戦いを離れ、ゆっくりと死ぬだけの猶予はあったはずだ。
デーモンと戦うことは生者の義務だ。
辺境で生きるものとしての正義。だが、デーモンと戦うことに本来義務などないのだ。滅ぼさなければならないから滅ぼすだけであって、自らの全てをかけて殺す理由など本来はない。
それにあの優しい聖女様のことだ。俺が途中で諦めれば、見下し、呆れ、殴りつけ、叱咤しながらもそれ以上は求めなかっただろう。
だが神との契約は違う。
泣きわめき、戦うのを止めれば、俺は女神に殺される。
神罰を受け、ヤマの地獄で永劫の責め苦を受けることになるだろう。
その上で訪れる来世は畜生か羽虫か。
「くそ、早まったかもしれんな……」
神の声はもう聞こえない。俺は差し出し、神はこの時だけの力を与えてくれた。
俺は新月弓に半魚蟲人が使っていたデーモンの矢を番える。
(致命の毒の塗られた黒の矢では殺してしまうからな……)
ケンタウロスの弓聖を毒で殺すのは外聞がまずすぎる。が、アルトロの加護をもって、堕落の矢で頭を撃ち抜けば名誉だ。
導かれるように俺は氷の道の上で目を眇める。
月神の力によって今の俺の視界は生物の限界を越えて拡大されている。
見えた。彼方だ。もはや一日では追いつけぬほどの遠い場所。氷の道をオーキッド嬢を乗せたサテュラーナが走っている。
普通はどうあっても届かない距離。
だが、この一時だけは、この一矢だけは違った。
この一矢の為だけの月神アルトロの加護。この一撃を放つ助力を願ったために、俺の後の生の全てをデーモンとの闘争に捧げた。
悔いているかと言えば悔いているが、同時に、オーキッド嬢も同じだけの対価を俺に払おうとしているのだ。
浅はかな小娘の望みだ。辺境を知らぬ大陸人の望みだ。だったら男の俺が、止めてやらなけりゃならねぇだろう。
「オーキッド嬢。大陸に戻ってから存分に恨めよ」
この瞬間だけ発揮される神々との契約の対価。
今、この時だけ。俺の矢は、女神の一矢だった。
――放つ。
女神の加護を受けた新月弓が静かに輝き、神威と共に矢が放たれた。
矢は飛んでいく。彼方へと。
月の加護により、大地の力から解き放たれる。音も気配もそこにはない。ただただ静かに、そして狙いをそれることなくサテュラーナの足へと着弾する。
衝撃に横転するケンタウロス。脚はえぐれ、肉と血がはじけ飛んだ。毒でなくとも濃い瘴気を含んだデーモンの矢だ。これならばまともに走れはしないだろう。
サテュラーナは驚愕の表情だ。
目がいいのだろう。サテュラーナと俺の視線が、ひとときだけ交差した。
途端。役目を果たし、消失する月神の加護。
目を眇めてももはや遠い場所にいるサテュラーナとオーキッド嬢の姿は見えない。
たった一発の矢を放つには重すぎる代価だったが、神々の助力を受けているオーキッド嬢に勝つにはこれぐらいのことはしなければならなかった。
「……よし、追うぞ」
いったんは不利になった勝負だったが。俺にも勝ちの目が、見えてきた。
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