116
(なぜだ? どうしてこうなった……)
辺境と大陸を分かつ境界線たる関所。その辺境側の入り口に立つ俺は、大地を踏みしめながら、その音を待っている。
隣を見上げれば、辺境馬に乗った少女がいる。金色の髪。強い意思を秘めた瞳。リリーに似た顔立ちの少女。
背後には俺と少女を見つめる群衆とも呼べない人の群れがあり、その先頭には機嫌の良さそうな聖女様がいる。
「いきますよー!」
俺と少女の後ろで聖女様がぶんぶんと大きく手を振った。
それは、始まりの合図だ。
(……この競争で負ければ、俺がリリーの妹と結婚……)
歯を噛みしめる。絶対に負けられない。心を決める。
「では、はじめ!!」
聖女様の声が耳に届くと共に、大地を強く踏み込んだ。蹴り飛ばす。
轟と耳を通り過ぎていく風音。それは俺自身の動きでできた風。辺境人の本気の疾走。俺は、地を跳ねるように、飛ぶように、大地を蹴り走る。
なぜだ。どうしてだ。という疑問はあるものの。とにもかくにも俺は走らなければならない。目的地に向けて走り続けなければならない。
そうでなければ負けてしまう。負けたならば、結婚しなければならなくなる。
(必ずだ。必ず勝つ。絶対にだ)
ギリ、と歯を噛みしめる。
勝負の内容は単純だ。競争。競争である。
辺境と大陸の狭間にある関所から俺の故郷たるセントラルパーク村までの到達を競うというもの。先に村にたどり着いたものが勝者。
俺はこの足で全力疾走であり、あの娘は馬での全速で行われる勝負。
勝者は自明であった。
地の利は俺にあるのだ。それに加えて相手は素人。乗っているのが辺境馬とはいえ、神獣でもなんでもないただの馬だ。速力持久力ともに俺の方が上に決まっている。
どうやっても負けるわけがない勝負。
だが、それでも、全力以上で俺はことに当たらなければならない。
負けられないのだ。絶対に。
「はッ……はッ……はッ……」
少しだけ、ほんの瞬間、背後を振り返る。
そこには俺の足の速さを驚いたように馬上から見ている少女が見える。
呆けた少女に向かってマスク越しに薄く笑い、俺は正面の大地の先へ向かって駆け続けていく。
敵は素人だがけして油断はしない。全力以上の全力で勝つ。勝つのだ。
リリーの為にも、我が名誉の為にも。絶対に負けられない勝負だった。
――なぜこうなったのか。時を少し戻す。
「失礼した。私は、オーキッド。オーキッド・ブラックデザイア」
オーキッドと名乗る馬車をこじ開けて入ってきた金髪碧眼の少女は、小さく頭を下げるとずかずかと車内に入ってくる。
「ブラックデザイア、ですか。……聞いたことのない姓名ですね。ですが、その濁りなき神威。さぞや名のある貴族の方と見受けしますが?」
聖女様の首をかしげながらの問いにうむ、と少女は堂々と頷く。
「私は先日までテキサス大公の娘であったのだ。だから元の名はオーキッド・ブラックデザイア・テキサスという。もっとも今は、姉の遺言に従い、キース殿の嫁にしてもらうために父とは縁を切った。我がテキサス大公の娘であるとキース殿にもいろいろ支障があるだろうしな。ちなみにブラックデザイアは母方の性だが、こちらは小領故に問題は全くないから安心してくれ。故に私のことはテキサス大公の娘ではなく、ただの一帝国民……いや、流民のオーキッドとして遇していただきたい」
「は?」
素でそんな声が出た。
この娘は何を言っているのか。正直なところ、わけがわからない。
「オーキッド嬢。冗談にしては笑えないぞ」
「そうだな。私も冗談と受け取ってもらっては困る故、真剣に受け取っていただきたい。そも、キース殿の嫁にしていただかなければ生活もままならぬ身なのだ」
額を抑えれば、小さなノック音。
「あのう。どうしました? 先程から騒がしいようですが……」
馬車の御者が箱馬車の窓から恐る恐る問うてきた。御者席からはここの様子はよく見えないらしい。
困惑はあるのだろうが、こちらが辺境人だからだろう。怪訝そうな声だが深くは聞いてこない。聞きたくないのかもしれないが。
「なんでもない。進んでくれ」
なので適当に答えを返せば、不安そうな顔ながらも視線を戻して、門に連なる馬車列に向かって馬車を勧めていく御者。
そもそも、こじ開けられたドアから外の様子が見えるのだが、この場の誰もが気にする様子を見せない。
聖女様は何を考えているのか。ただただ楽しそうなご様子。
オーキッド嬢は真剣な眼差しで俺を見つめてくるが、それは縋るようではなく、貫くような、見定めるような視線だ。
(テキサス大公。リリーの実家だ。姉の遺言で動いた。ならば妹だな。リリーの妹。リリーの遺書が原因。リリーの遺書だと……。俺が渡した鎧櫃に入っていたのか。予め用意していたとはいえ、どこまで先のことを予測していた、あの娘は……いや、あいつ、そもそも生き残る気などなかったのでは――……)
「少し説明した方が良いだろうか?」
困惑した俺を慮ったのか、箱馬車の座席、それも俺の正面にあたる場所にどかっと座っているオーキッド嬢は、勝ち気そうな顔で問うてきた。
「説明か? いや、いらない」
「ほう、話が早くて助かる。ならば、私を嫁にするということでよいな?」
肩の荷が降りた気分だ、などと快活に笑うオーキッド嬢に、俺はいいや、と即断した。
「妻には迎えん」
「は?」
先の俺のような(仮面で嬢には見えなかっただろうが)顔で問うてくるオーキッド嬢に俺は厳然と告げる。
「は? ではない。妻には迎えんといったんだ。俺がテキサス公にリリーの遺品を返したのはテキサス公から褒美をもらうためじゃない。返したのは、愛すべき戦友たるリリーに報いるためだ。わかるか? 奴の遺言だろうがなんだろうが、俺が遺品を返したのは、奴の妹を貰うためにやったことじゃないんだ」
俺は騎士である前に侠者だ。金を積まれようが、脅されようが、義のないことは受け入れられない。
それにこのままオーキッド嬢を嫁に貰って辺境に帰ってみろ。俺は、遺品を家族に返して、妹を貰ってきた不義不仁の輩と謗られる。
俺の名が地に落ちるのだ。そのような者として辺境で扱われるようになるのだ。そんなこと、承服できることではない。
俺の言葉に、慌てたようにオーキッド嬢が言葉を返してくる。
「待て。待ってくれ。私を礼とするのは、遺品を返したことではない。いや、もちろん我が姉の遺品を届けていただいたのは感謝している。しかし、違う。違うのだキース殿。礼を言いたいのは、テキサス家の宿願たる大悪『魔宮八業将』にして『花旺天蓋』花の君を討伐してもらったこと。そのことについてであって、遺品についてはまた別――「同じことだ」
言葉をかぶせる。きっぱりと言い切る。
「同じことだ。オーキッド嬢。俺が花の君を討伐したのは君の姉に頼まれたからでも、君たちの家に同情したからでもない。ただ恩義を果たすため。それと私情からだ。そこにテキサス家の事情は関係がない。礼を貰う義理もないし、礼を貰えば俺の義が汚れる。故に、報奨は無用の気遣いだ」
「む、むむ。なんとも、強情な……」
「理解したな? オーキッド嬢。ならばテキサス大公にもそのこと直接俺が言い。君の復縁を願い出る。俺が原因で我が友の妹御の縁が切れるなど言語道断だ。それこそ死んだリリーに顔向けができん」
さて、テキサス大公は、王城内か? それとも王都のテキサス大公宅か?
一介の辺境騎士がただ出向いただけで会ってくれるかどうか……。いや、このような事態だ。無理矢理にでも押し通るしかない。
(だが、この事態。どう詫びるべきか。金穀を積んでは不敬となるだろう。だが、さりとて俺に差し出せる誠意など何もない……)
命は渡せないが腕一本。
鍛え上げてきた腕を見下ろす。こいつを切り落として渡す。その覚悟が必要か……。
オーキッド・ブラックデザイアは困惑した。
なぜこのようなことになるのか。なんでこんなことになったのか。
花の君を殺してくれたキースという辺境人は、オーキッドの命の恩人であった。
だから礼がしたかったのだ。血族の悲願を果たしてくれた男に。できる限りの礼をしたかっただけなのだ。
姉の遺言はその切欠にすぎない。
リリー・ホワイトテラー・テキサス。
キースという辺境人によって、その名誉を守られた姉。
彼女の残した遺書は、オーキッドにとって、守る必要のないものだった。
恩義があるとはいえ、一介の辺境人に大領地の姫を与える必要性がないのだから。
それでも、オーキッドはそうしようと決めた。それが良いことだと思ったからだ。そうすべきだと思ったからだ。
最初から、キースに嫁ぐことに否などなかった。
姉が死ねば自らが花の君の器となる宿命だったのだ。テキサスという大領に生まれた時から、もとより自分の人生など諦めていたのだから。
貴族として生まれたのなら、貴族として死ぬ道しかない。
だから、大恩ある男に、報いようと考えた。それだけだった。
――生まれた時から、自分の道は既にないのだと思っていた。
彼女が生まれた時、花の君と呼ばれるデーモンは、もはや討伐が不可能なほどにテキサスの家に根を張っていた。
解呪すれば大陸を死で覆う恐ろしい化物。依代が死ねば次の依代に乗り移り、その生命を蝕む化物。
テキサスの家はそのデーモンを封印する為だけにただただ血を繋いできた。そういう貴族だった。
だから、姉であるリリーが死ねば、花の君と呼ばれるデーモンはオーキッドに乗り移るはずだったのだ。
そうなればいずれ心は壊され、魂を貪られ、体内から茨と薔薇の花に貫かれながら惨めな死を迎える。そういう人生を進むことをオーキッドは生まれた時から約束されていた。
だから、ジョンという兵から花の君が滅んだことと、姉の遺書を受け取り、そのすべてを知った時、オーキッドは一瞬、自分を見失った。
道は途切れていた。
途切れていたはずだった。
だが、それを繋いだのは、先へと繋いでくれたのは、辺境の戦士だった。
キース。キース・セントラル。彼が命の恩人だった。
キースという騎士は、オーキッドが心からの感謝を捧げるべき相手であった。
だから、キースにとって妻が必要なら、我が身を捧げようと、オーキッドは思っただけだ。
父親たるテキサス大公は快諾してくれた。
ちょうどオーキッドの婚約者たる第一王子が廃嫡されたこともあり、父も惜しみながらも送ってくれたのだ。
そのときに家と縁を切ったのは大公家と縁を結べば、キースに迷惑がかかるからだった。流石に一介の騎士が大公家の娘と縁を結ぶともなれば様々な問題が起こる。
そうしてオーキッドはオーキッドなりに、二度と大陸には帰らぬ決意をしてきたのだ。
花の君を抑える為に連綿と紡いできた神々の血統は、キースの役に立つ。
聖衣なるものが必要という姉の遺書に従い、キースという男がどのような男であろうとも(例え相手が絶望的なまでに醜男であろうとも)誠心誠意、心から愛するとも誓った。
それが、一顧だにもされなかった。
ぐらぐらと腹の底から湧いてくるものがある。
「まずいですね」
キースから視線をそらせば、
ただあるだけで神々しさと恐ろしさを感じさせる女。少女のようにも見える姿形なれど、その本質は絶対的に人と隔絶した、別の生命体。『聖女』。
「セントラル卿。腕の一本ぐらいならテキサス公の前で切り落とすつもりですよ」
言われ、叫ぶ。
「ばッ、馬鹿な!? な、なぜ!? なぜそうなる!? なぜそのような考えに至る!?」
仮面があるためにその表情は読み取れないが、オーキッドにキースは関心を持っていない。持っていないのだ。
だからキースは女たちの喧騒には目も向けず、ただ御者に王城に戻るように告げ、困惑した御者と言い争っている。
オーキッドにとって幸運にも、馬車は列に並んでいるのだ。列から離れることは容易ではなかった。
とはいえ、キースの説得によって御者は一度王都を出てから戻るという面倒を了承していた。
そんなオーキッドが止めねばならぬやり取りをよそに、聖女はオーキッドの疑問に答えを返す。
「詫びです。詫びですよ。詫びのつもりなんですよそれで。セントラル卿はテキサス公の心づくしを断るのですから、テキサス大公の面目を保つために、自らの肉体を大公に払うことにしたようなのですよ」
「……ま、待て。待ってくれ。わ、わからん! わからんぞ! なぜそうなるんだ!? お、お父様は恩人の腕など欲しがらない!! 贈った娘が返ってくるのはいい。だが、恩人の腕を切り落とさせたとなれば、それこそお父様の面目が保てないではないか!!」
「そこは、その、文化が違うとしか言いようがないですがね。侠者というのは、時に分別のつかない子供のようなことを平気でしでかしますからね」
「侠者?」
「侠者です」
侠者。オーキッドにとってその類の人間と会うのは初めての経験である。
聖女が言うには、侠者とは、恩義の為ならば命を捨てることを戸惑わず、むしろその命の扱い方を、美徳であると激賛する人種。
権力に
そのような人種、王都には存在しない。
そんな古臭い、黴の生えた価値観は、合理の極である大陸の中央には存在しない。
しかし一概にそのような格好の良いものでもないと聖女は断言する。
「要は子供なんですよ。極端な場合、気に食わないという理由で目があった人間を殴り殺すような馬鹿モノどもですからね、侠者なんてのは。彼らの正義は、なんとなく男らしい、かっこいい程度のものでしかないのですよ」
「で、では、なんとなくかっこいいから腕を切り落とすと? キース殿は?」
「ええ。腕を切り落としてでもテキサス公の面子を守る俺はかっこいい、ですかね」
そんなことを女同士で話していれば、ぴくり、と仮面越しにだがキースの頬が引きつったような気がするオーキッド。
「聖女様。茶化さないでいただきたい。これは面子の問題です」
「面子ねぇ。私としてはそれをされるとひっじょーに困るのですが。先輩のお気に入りである貴方の腕をこのようなくだらないことで失わせるわけにはいかないのですよ」
「くだらないことでも、笑って命をかけられるのが侠というものです」
「……卿。貴方は腕を失ってでも破壊神を殺せると思っているのですか?」
「そういう賢しげな愚者のするような損得の話はしていません。邪魔をするなら貴方でも殴りますよ、私は」
へら、と馬鹿にするように聖女は嗤う。
オーキッドにはわからないが、その程度はやるだろうと聖女は知っていた。この男は、大陸の支援なく4000年もデーモンと戦える人種だ。向こう見ずで、愚かで、その身のすべてを己の価値観に戸惑いなく捧げられる恐ろしい生きものだ。辺境人だ。
「オーキッド。これが辺境人です。お前が縁を結ぼうとしている男です。先のことなど何も考えずに、ただ感情の赴くがままに拳を振るう者です。誰の事もかえりみず死へと突き進むものです」
言葉を重ねるごとに、キースの仮面越しにでもわかるほどに殺意を湛えた瞳。それが聖女へと向いていく。
侠者とは、辺境人とは、酷く名誉を重視する。侮辱されれば誰であろうとも突発的に剣を振るうことを戸惑わない。侮辱をそのままにすれば謗られる。そういう文化の生物だ。
だが、聖女は身も凍えるようなキースの殺気を受けながら涼やかな顔でオーキッドへと問いかけた。
「その上で問いましょう。オーキッド・ブラックデザイア。お前はこの男と添い遂げる為に命を賭けられますか? 賭けられるなら、私がこの男を説得します」
逡巡はなかった。オーキッドもまた、既に心を決めていたからだ。
「ああ、わかった。説得してくれ」
即断。
しかし、その答えを知っていたかのように、聖女はキースへ交渉を始めるのだった。
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