097


 一つに人を装い。二つに善を装い。

 三つに愛を装い。四つに徳を装う。


 五つに魔を纏い。六つに悪を纏い。

 七つに憎を纏い。八つに罪を纏う。


 唱え。唱え。異形の赤子。踊れ。踊れ。八つ目の怪僧。


       ―堕ちた水の神に関する記述 狂書『鞘・獄中日記サイケデリク』より一部抜粋―



 悪鬼デーモン魔人デーモン異形デーモン怪物デーモン瘴魔デーモン

 デーモンの定義は定かではない。その肉体が瘴気で作られていること。邪神や悪神を奉じていること。憎悪であること。悪意であること。魂が汚れていること。

 デーモンとは概念だ。温かい肉の体を持った人であろうと、悪神を奉じ、人を害するだけの存在となれば、俺たちはその狂人をデーモンと呼ぶ。

『イッヒヒ。戦士サン。何か入り用かい?』

 禿頭で、腹が出ていて、襤褸切ぼろきれを纏う人の形をしたデーモン。

 眼窩は空洞。目玉はない。肌は酸に焼かれたように奇怪な捻じれと火傷に覆われ、体の各所には得体のしれない瘤ができている。臭いは醜悪。腐った魚のような臭いがその体からは漂っていた。

 癖なのか、デーモンが自然な仕草でボリボリと自身の体を掻くと、体の各所で凝り固まっている塩を噴いたような不潔な粉が敷布の上で山になる。

「お前は……」

 デーモン。デーモンだ。正しくデーモン。デーモンで間違いがない。

 人の形をしてはいるが、デーモン。その手足とて一見正常にも見えるがよくよく見ればねじくれている。

 心とは肉体に従うもの。肉体がおかしければおかしいほど正しい精神を保つことは困難だ。だから人から成ったデーモンあろうと、どうあってもデーモンは壊れているのだ。

 そもそも、それ・・は瘴気でできている。デーモンで間違いはない、というのに。

 悪意はない、ように見えた。


 ――見えてしまった。


 困惑するように片手で顔を抑える。警戒はしていた。剣の柄に手はかかっている。だが、どうしても手がでない。

 そんな俺の戸惑いを他所にそのデーモンは俺をちらちらと見ながらイッヒヒと嗤う。

『鎧がボロボロだネェ。何か買っていくカイ? 薬に武器に鎧に護符とオレァいろいろ売っているヨゥ』

「……お前は、商業神を奉じているのか?」

 禿頭の商人デーモン。商人型のデーモンといえばあの石像が思い浮かぶが、あれとこれは違う。あの石像は会話ができなかったが、このデーモンは会話ができている。

『そうだヨウ。オレァ、このダンジョンのデーモンだけドヨゥ、破壊神より商業神が好きなのサァ』

「商人の、デーモンか……」

 俺は窮していた。俺は弱っていた。

 武器は消耗し、鎧は半壊し、肉体は疲労し、精神は疲弊し、魂はこうしてデーモンを前にして考える余裕を持ってしまっている。

(デーモンと取引だと……俺は……糞ッ……)

 どんな理由があろうと、どんな窮地であろうと、デーモンとの取引はゼウレを裏切る行いだ。相手が商業神を奉じていようが関係はない。

 俺の迷いに感応して聖女様の肋骨ネックレスから温かい熱が失われていく錯覚に陥る。

 膨れ上がる後ろめたさ。羞恥に体が震える。それが故郷を裏切る行いだと俺自身が知っているのだ。

 デーモン化しかけているリリーを信じるのとは意味が違う。どんな相手であろうがデーモンと取引するということは人類を裏切ることに他ならない。

 俺は、リリーの為に自分の信義を捨てられるのかと自身に問う。魂を汚す覚悟があるのかと問う。

『さぁさお客サン、ギュリシアを出しておクレ、壊レタ鎧を換えましょや。くたびれた剣を換えましょや』

 ボロボロの敷布の上にキラキラと輝く商品を並べながらそんなことをそのデーモンはのたまう。

 ギュリシアを欲するデーモン。道化師のデーモンとて欲していたが、あれと違いそこに悪意はやはりない。なぜだ? なぜ俺は惑う? そんなに弱っているのか?

 純粋な取引のように見えてしまい、俺は悩む。

 物資が欲しい。心の底よりこの状況を打開する物資が欲しい。こいつは道具の鑑定はできるのか? 知りたい。俺が今まで手に入れた道具に現在の窮地を打開する何かはあるのか?

『サァサ早く早くお客サン。時は金なり時は金なり。待ってても誰も手を引いてはくれねぇヨ。サァサお早く。サァサお早く』

 急かすデーモンを押しとどめるように片手を突き出す。銅貨ギュリシア銀貨ペクスト金貨アルヌゥも俺は持っている。金ならいくらでもある。

 ……警戒は必要だが、商業神を奉ずるデーモンであるなら正常な取引をすることも可能、かもしれない。

 この窮した状況に落とされた一抹の救い。この先に進むならけして断るべき誘いではない。

 断るべきではないのだ。だから、俺は。揉み手をしながら身を乗り出すような形のデーモンに。

『ア? お客サ――』

 神速で引き抜いた炎剣の先端が、デーモンの額に突き刺さっている。俺の正気に呼応するように、失われかけていた胸のネックレスが暖かさを伝えてくる。


 ――俺はデーモンと戦う辺境人だ。


「ああ、糞。恥ずかしい。どうしてか迷っちまったぜ。畜生が」

『オオ! オォオオオオオオッッ!!』

 叫んだデーモンが両手を燃やしながらも炎剣を強引に額から引き抜き、跳躍するように背後へと逃げ出そうとする。しかし、すかさず一歩を詰めた俺はばっさりと奴を両断した。

「期待させて悪かったな商魔デーモン。だが、俺は辺境人だ」

『俺ァ……俺……ァァ……ギュリ、シアァァ……欲し……かった……』

 意味のない声を残して消滅していく商人のデーモン。同時に奴が広げていた商品もまた消滅していく。取引をしていれば商業神の奇跡によってこのデーモンが消えても残ったのだろうが惜しくはない。

 残ったのはあのデーモン自体が持っていただろう銀貨が3枚。正体のわからぬ指輪が一つ。そして――


 ――蘇るのはかつての記憶。

 石と鉄で囲まれた小さな部屋。それはかつての農夫の記憶にもあった部屋だ。そこに異形になりかけた痩せた男がいる。それは以前記憶で垣間見た殿下と呼ばれていた痩せた男に他ならない。

 痩せた男に貫頭衣を着た一人の男が駆け寄っていく。

「殿下!? 殿下!? そのお姿は!?」

「商人グリーマか。この混乱でよくぞここまで来た。……だがもう遅い。我の姿を見よ。これこそが我らが王家の罪よ」

 痩せた男の半身は異形と化していた。腐れた海水のようなものが滴り、ぶくぶくと肥え太った赤子蟲が体の各所より生じている。激痛を感じているだろうに超人的な精神力で呻きすら抑えている。貴種の矜持があるのだろう。このような状態でも優雅さを忘れぬ男は、酒の満たされたグラスを机の上にそっと置く。

 商人が口元を抑えつつも、労るように痩せた男に手を伸ばせば、男は「触れるな」と拒むようにそれを止めさせた。

「我が体に触れれば魂まで呪われるぞ。あの娘の血縁だからだろうな。類感の呪術によりこの肉体にも降臨した破壊神の影響が色濃く根付き始めておる。くくッ、我ら王族の罪の重さもわかろうというものだ。これではもはや呪い解きの神酒も効果はなく、助かる術はない」

 半分ほどに減っている酒瓶を示され商人は息を呑む。神酒ネクタル。神より賜われた解呪の酒ですら効果がないならばもはやこの方を助けることは叶わない。

 痩せた男は、窓枠より覗ける燃える町並みを見ながら悔いるように言葉を吐き出していく。

「逃げられるかはわからぬが、お主も逃げよ」

 掛ける言葉もないのだろう。商人の男がぐっと涙を堪えて部屋から出ていく。

「これが人の世の終わりになるか否か。願わくば、この都市が魔界に沈む程度で済むことを」


 ――そうして記憶は終わる。


 目を見開く。記憶の内容もそうだが、神酒ネクタル。それがあった。

 ここに、あったのだ。

 悪鬼の誘惑を断ち切った俺へのゼウレからの賜り物か。神へ最大の感謝を捧げ、すっと息を吸う。

「正念場だ」

 察しの悪い俺でも理解しなければならない。

 記憶の相手は、この階層のボスだ。不吉な黒い男。王族。堕ちた神の血族。ボスデーモン。

 だから、この階層のボスの部屋に神酒ネクタルはある。

 それが長櫃の中か、ボスが所持している道具のどちらかはわからないが。とにもかくにも覚悟は決めなければならない。

(……どちらにせよ打倒しなければならない相手だ)

 それが今やらなければならなくなっただけだと考えれば特に躊躇する理由もない。

「懸念は、身体が動くかどうかだが……」

 この空間に満ち溢れる恐怖の源泉と相対するのだ。情けないがどうかよろしくお願いしますと鎧越しに聖女様の肋骨に念を送っておく。

「それで、ここには何もないか」

 あのデーモンが押し込められていたのか自ら引きこもっていたのかは知らないが狭い部屋だ。

 一通り探索をすると俺はこの場を後にするのだった。



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