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 いつものようにエリザは神殿を抜けだしました。

 彼女が向かうのは神殿の下に広がる神殿街です。

 神殿街。そこは善神大神殿が抱える巨大な市街です。黒き森と小さな神殿以外に何もなかった地に、人々が信仰だけを拠り所に作り上げたものです。

 かつてはただ人々が思い思いに集っただけの街は、今では帝国や辺境中から数々の物品が集まり、帝国の首都にも負けぬ巨大な都市となりました。

 帝国人、辺境人、ドワーフ、エルフ、様々な人々が行き交わす大通りを物珍しそうに歩く姫。

 お忍び用の粗末な服を着ている姫ですが、その至尊たる血筋は隠せるものではありません。所作の所々に高貴さを覗かせてしまう彼女は、街を見て回る内に市民の一人に声を掛けられます。

「姫よ。偉大なる帝国の姫よ。何卒なにとぞ民の望みをお聞きくだされ」

 彼は特徴のない男でした。大きくもなく、小さくもなく、太くもなく細くもなく、賢そうでもなく、愚かそうでもなく、ただの市民でした。

 ただのでした。

 民に相対する姫はお忍びでした。伴の一人も連れず、たった一人で街を見て回っていました。

 そんな彼女をひと目見て姫だと気づくことのできる者はなかなかいませんが、しかし姫は如何な姿であろうとも姫であることに変わりはありません。

 連綿と連なる血統より香る気高き気配は隠しようがないのです。

 見る人が見れば気づくものでした。

 もっとも、貴き血筋に連なり、ただびとよりもよりよく物事の見える姫であろうとも、未だ彼女が幼いことに変わりはありません。

 彼女は政治に関わる立場にはありません。民が姫に願っても、彼女にできることは何もないのです。

 しかしエリザには、市民に姫として声を掛けられたなら、貴き血筋の者として受けることのできる度量がありました。

「民の望みとは? 如何なるものですか?」

 姫の問いに市民は小さな声で答えます。

「平和です」

「平和? ここは平和よ。善き神々の加護があるもの」

 黒き森がすぐ傍にあるとはいえ、ここは神々の加護を受け、大陸中の善き信仰を受ける善神大神殿のある地。

 如何な強きデーモンとてこの街に害を成すことはできません。

 姫の自信に満ちた言葉に対して、市民は大きく首を振ります。

「いいえ、いいえ、そうではありません」

 姫は首を傾げます。

「ではなんだというのです」

 そんな姫に市民はすがりつくようにして言いました。それは、鳥の金切り声にも似た悲痛を込めた訴えです。

「今の王は偉大な方です。歴史にもなかった偉大で巨大な帝国を作り上げました。周辺の小さな国々をまとめ上げ、今まで交流しかなかった辺境の民を王国の民としました。この神殿も、初めは小さな神殿だったものを、多くの有能な人材を呼び、数多の財貨を寄進することで大きくしたのは彼の王たればこそです」

 しかし、と市民は言葉を濁しながらも姫に言います。

「近頃の王は、性急で、苛烈です。素晴らしい治世。素晴らしい帝国。しかし光が強ければまた影も強く差します。刑罰は厳しくなり、税も、以前より多く取り立てられるようになりました」

 姫は言葉もありません。このようなことは姫の耳に入るようなことではないからです。姫は聡明ですが、王国の全てを知っているわけではありません。周りの者もそのようなことは姫に聞かせようとはしないのです。

 しかし、市民の前で知らぬと言えるような姫ではありませんでした。

 そんな姫を知ってか知らずか、市民は言葉を重ねます。

「姫。どうか! どうか!! 民の多くは不安に思っております。このままでは我らは王に干し殺されるのではないかと」

 あまりにも不敬な市民の言葉に姫は激高しました。

「殺されるとは無礼であろう。わきまえよ!!」

 姫は拳を振り上げ、市民を殴ります。腰の入ったそれは、まさに貴き者の一撃として相応しいでしょう。

 姫に殴られた腹を抑え、崩れ落ちた市民は姫を見上げます。

 その目は――

 その目こそが――


   泣き虫姫エリザ 第十三編『泣き虫姫と神殿街の人々』より一部を抜粋。



 市民の巨像。牢の連なる通路奥の部屋に入った俺を迎えたのはそれだった。

「っても、はっきりと市民ってわかるようなもんでもないがな……」

 農夫の石像は農夫風の意匠。更には農具を持っていたから農夫だとわかった。

 しかし、貫頭衣を着て、悲嘆の表情を浮かべたその石像は何も物を持っていない。最も騎士なら剣、隠者ならばローブ、吟遊詩人なら楽器、商人なら算盤や天秤もしくは金貨袋でも持っているだろうから、特徴がないことが特徴だ。

 消去法でボスデーモンに物語を当てはめればこいつは市民で間違いがなかった。

 懸念はこいつがただの石像のデーモンという点だが、肌にビシビシと来る瘴気の圧力。ボスであることは疑いようがない。如何な特徴がなかろうとこの威容はこの階を支配するデーモンに相応しいだけの力を持っている。

「しかし、また石像か……」

 市民。エリザに偉大なる帝国の暗部を示す男の物語。明るさもなく、ただ姫に問答を仕掛けるこの男の話は辺境では不評な物語の一つだ。

「それに……こいつもか」

 農夫の石像や廊下にいた異形の騎士。あいつらの顔もそうだったが、この塔自体を支配しているデーモンの影響力が強いのだろう。

「顔が子供のラクガキ、じゃねぇな」

 死貝などはそうでもなかったが、強いデーモンにはしっかりと支配を効かせているようだ。

(つまりここの主は、破壊神の支配を覆すレベルにやばいという証明だがな……)

 背筋に走る怖気を振り払うように敵手へと向き合う。

『オォオオオオ…………』

 俺を認識した市民の石像がギリギリと拳を握り、部屋の奥よりこちらへと歩き出す。

 重力がきちんと働く場であればずしりずしりとでも重音を響かせたであろう巨体。それは水のような瘴気の持つ浮力など関係ないとばかりに、ずっしりと床に足を着けている。

 巨体であるということはそれだけ強いということだ。

 俺の倍以上ものでかさを誇る石像デーモンは環境のことなど一切合切何も気にせず俺へと向かってくる。

 そんな奴に対して、俺も戦意を胸に歯を剥いて笑う。

「ふん、農夫と対処は変わらない。全て打ち砕いてやる」

 石造りの石像相手に剣は分が悪い。袋よりメイスを取り出した俺は石像の接近を待ちつつ、急いで奴の全身を確認する。

 敵は市民の姿をした巨大な石像だ。武器はない。死貝も張り付いていない。巨大さは厄介だがその分鈍重。

(つまり楽勝……か?)

 ほんの少しの楽観を抱いた俺の前で、石像の目鼻や袖の膨らみからソレ・・が顔を出し、俺の顔が引き攣った。

「そう簡単にはいかないか! 死魚とはな!!」

 石像の穴を巣穴のようにして現れたのは死魚の群れだ。

 しかもそいつらは通常のものより大きく、太っていた。ギザギザとした嘴も凶悪に輝き、木盾であれば一撃で破砕されるような鋭さ。

「やはりデーモン。一筋縄ではいかんか!」

 巨像の穴より這い出た死魚どもが俺へと照準を合わせるのに合わせて盾を構える。同時に袋にメイスを仕舞い、対死魚として十分な威力を持つ炎剣を鞘より抜き出した。

 指に灯すは『妖精の声』。これだけでは厳しいが、音響手榴弾は使わない。使えない。

「来い!!」



 まずは死魚をどうにかしなければならなかった。

 大きく、強くなった死魚だが、騎士盾を用いればその突撃を防ぐことはできた。無論、それは死魚が闘うに当たって障害にならないことを指すわけではない。

 強化された死魚達は十分以上に厄介だ。突撃は重く、盾で防ごうとも一体一体の攻撃が腕にびりびりと響く。甘んじて受け続ければ先に倒れるのはこちらだろう。

 しかし絶望には程遠い。死魚とは飽きるほど戦っている。如何にそれが大きくなろうとも行動は直線的で本能的だ。

 対処法は心得ている。冷静になること。それだけでいい。

 俺は騎士盾で奴らの突撃を防ぎつつ、隙を見て炎剣を振るう。上手く当てれば一撃で死魚は消滅する。この方法で一体一体確実に仕留めていく。

 死魚はどうにかなった。しかし、敵は死魚だけではない。この上で巨人にも対処しなければならなかった。

 農夫の巨像と同じく市民の巨像は鈍重だ。動きはすっとろく、攻撃方法は腕や足を振り下ろすのみ。物理的な攻撃方法が主で、こいつ単体ならば時間がかかろうとも無傷で対処のできるデーモンだが、それが死魚と組むと非常に恐ろしい存在へと変化する。

 死魚の攻撃は俺をその場に拘束する。奴らの攻撃は素早く、さっと避ける、なんていう器用な真似は通じない。

 むしろ下手に回避する方が危険だ。単純で本能的な死魚は基本的に正面から来てくれるが、奴らの突撃を回避し、一度でも背後に回してしまえばそれで俺は詰む。

 正面の死魚を防ぎながら背後に盾は回せないからだ。正面の死魚を相手にしながら背後より死魚が襲いかかれば俺は秒も保たずに穴だらけにされるだろう。

 故になんとしても正面から奴らの攻撃を受けなければならない。

 その上で死魚に拘束される俺を攻撃してくる巨像に対応しなければならない、のだが――。

「探索はしてみるものだなぁ!!」

 炎剣で死魚の一匹を消滅させながら指先より『妖精の声』を撃つ。

 『妖精の声』は死魚に効く。知能が低く、音で獲物を判断する奴らデーモンはこの声に抗うことができない。突如部屋の隅で発された魔力の籠もった声に反応し、死魚どもはそちらに突撃をする。

(最も魔力残量にだけは気をつけなければならないがな)

 妖精の声一発の魔力消費はそこまで大きくはないが、巨像の攻撃の度に使っていればいずれは尽きる。

 とはいえ、死魚を追い払えたこの瞬間は好機。

「おらぁッ!!」

 ただ鈍重な巨像の攻撃を避けると俺はその足にオーラを十分に込めたメイスを叩きつけ、離脱する。『妖精の声』が途切れ、死魚がこちらを向いたからだ。

 巨像から離れた俺に突撃してくる死魚達。それを盾を用いて捌きつつ、炎剣を振るい数を減らしていく。

「おぉぉ――らぁッ!!」

 炎剣を振るい、盾で防ぎ、メイスを振るう。『妖精の声』を使うための魔力がなくなれば水溶エーテルを飲む。

 死魚の数が少なくなってくれば巨像は再び自らの身体から死魚を吐き出し始め、しかし俺は冷静に、今まで通りを続けていった。

「こんな……もんか……!!」

 戦いは長時間に及んだが、所詮は死魚と鈍重な巨像である。俺に致命的な傷を追わせること無く、オーラを十分に込めたメイスによる打撃で巨像は消えていく。

 ただし、完全には終わっていない。疲労で少し息が乱れるが、残っていた死魚に炎剣を振るい、止めを刺していく。


 ――さぁ、次の階へ行くぞ。


 残った死魚を次々と屠っていく俺の目には、水のような瘴気で揺れる、壁に掛けられた次の階の鍵が見えていた。


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