080


「……助けてくれ……いやだ……いやだぁ……」

 数時間前には足元をちょろちょろと流れるだけだった水位は、もはや天井付近まで上昇していた。

 囚人として、簡素な真っ白い布の服だけを与えられた男は残った僅かな隙間に唇を突き出し、必死に空気を吸っている。

 男とて、こんな終わりを迎えるにあたって何もしなかったわけではない。無駄だと思っていても必死になって出口を探したのだろう。扉に叩きつけられたであろう木製の椅子や机は粉々になって底に沈み、分厚い石の壁には水で洗い流せないほどに血に塗れた拳の痕が残っている。

 格子のついた鉄扉も同様だった。何度も殴りつけたのだろう。溺死しようとしている男の血がべっとりと残っている。

「……畜生……畜生……」

 ここは善神大神殿の時計塔であると同時に、簡単に殺せない地位を持つ罪人を収容する為の監獄でもあった。


 ――幽閉塔。


 辺境の民からは、そう呼ばれる塔である。

「……助けてくれ……誰か……誰か……」

 こうして死にゆく男も元はそれなりの地位にあった貴族である。現王と対立したが為、政治犯として収容されたのだ。

 それが、どうしてこんなむごい死に方をしなければならないのか。

 幽閉塔に囚人を水死させる為の設備はない。

 そして善神大神殿は背の高い丘の上に作られている。ここは、その善神大神殿の塔だ。高い位置にあるが水に沈むなど、世の道理に反している。

「……糞ぅ……糞ぅ……畜しょ……」

 罪深き森が傍にあろうと、悪名高きデーモンに囲まれようと、邪悪なる邪神の眷属を相手にしようと、この塔が水に沈む筈がなかった。

 言葉は途切れ、空気を取り入れようと最後まで抵抗をしていた男の唇が水に沈む。

 どうしてこんなことになったのか。

 どうしてこんなことになってしまったのか。


 どうして――


 ――無念はそこで途切れていた。


 わけもわからず溺死した男の骨が俺の目の前にある。

 ここは塔三階にいくつかある鍵のかかった牢の一つだ。探索を進めることで牢の鍵を手に入れた俺は、いくつかの部屋を開き、中身の入った長櫃や放置された死体を見つけ、長櫃からは道具を、死体からは死の記憶を経験した。

 政治犯を収容するための石造りの牢獄。そんなものも善神大神殿にはある。

 もっとも神殿に収容される囚人はただの罪人ではなく、とてつもなく高貴な人物に限られるのだが……。

 俺は骨に添えていた手を引き、袋より取り出した聖印を持つと、ヤマに死者の安息を祈った。

「ヤマよ。この男に安息を……。しかし、水か。今のこの場所と違って現実に水が侵食していたとはな」

 現在とは環境が違う。

 ここに水は存在しない。あるのは水のような瘴気だ。

 時間と共に水が水の属性を持つ瘴気へと変化したのか。それとも高位のデーモンは水の属性を持つ瘴気を水に変える魔術を使えるのか?

 ここまで来る間に、ここのデーモンが水の魔術を扱えることはわかっている。

 しかし現実に牢を水没させるほどの水を顕現させるのは酷く手間がかかることだし、そこまでの力量を持つデーモンにはまだ会っていなかった。

 それに、溺死させることでデーモンの好みである絶望を程よく生み出せるとはいえ、水死させるよりも水の魔術で苦しむように撃ち殺した方が圧倒的に楽だろう。

 デーモンは酷く不条理でありながら、酷く合理的な面もある。こういう殺し方をするのは不自然とは言わないが、効率が酷く・・悪いように思えた。(最も、少しばかりの手間なら奴らは気にもかけないだろう。今回の疑念は"少しばかり"の範疇から外れるからだ)

「最も、奴らの考える事など俺にはわからないが……どうにもここではおかしなことが起こったようだな」

 俺は湿った石壁を撫でた。

 この辺りの石壁は青く光り、苔のような趣の暗い色の水草が生えている。

 またデーモンとも言えない小さくとも不気味な貝が連なるように壁に張り付いており、視界の端では小指の先ほどの人面蟹がのそのそと歩いていた。

 ここもまた、絶望の一つの形なのだろう。

「ここにもなかったか」

 リリーの為に探索を強行する決断はしたが、俺がすべきことは何も変わらない。

 探索、探索、探索だ。

 それはボスデーモンの居場所を探ることでもあるし、長櫃等から道具を回収するためでもある。

 死者の記憶で自らを強化することでもあるし、雑多なデーモンどもを倒すことで自力を引き上げることでもある。

 未熟な俺にとって、無駄なことなど何一つない。

「次の部屋に行ってみるか……」

 泳ぐようにして遺骨のあった部屋から俺は出る。

 塔に入ってから、長櫃から手に入る道具も変化した。今までのように一度の使用で決定的に戦況を変化させるようなものが少なくなった。

 もう道具一つで覆る戦いは終わりなのだろう。

 それに、俺も強くなった。装備も強力になった。ならばもはや、ダンジョン自身が手を貸す必要はないと判断したのか。

「まぁ、手を貸されても業腹だしな……」

 先ほど拾った、恐らく水溶エーテルなんだろうが、ラベルが読めないために未鑑定品として扱っている水薬を袋に入れつつ俺は壁を蹴りながら進む。

 この場は歩くように、というよりも水中だと割りきって進んだほうが楽だ。これも戦いの中で学んだことだ。

「鑑定もな。できるようになればいいんだが」

 ここで手に入る薬は親切にもラベルが貼ってある。ラベルと中身が違うという可能性もなくはないが(猫はラベルだけでなく中身を『視て』判断しているらしい。商業神の眷属あるアレは物品の本質を見通す『鑑定』の権能を持っている)、そういった悪辣なものは今まで見ていない。

 つまりラベルが読めれば中身もわかる。そうなれば手に入れた道具がその場で使えるようになる。

 指輪もだ。二階で手に入れた指輪を思い浮かべる。読める文字だけは読み『水』に関連する道具であることはわかったが、それが水にどういう形で関連するか俺にはわからなかった。

 水の魔術の威力を強める指輪なのか、水の魔術に耐性を与える指輪なのか。それとも水中呼吸を可能にする指輪なのか。

 聖言を読み切れない俺にはどうにも効果がわからない。

「呪いの道具で、つけたら溺死させられるものかもしれないしな……。なんとも不勉強が痛いぜ」

 武器や盾なら追加の効果などは関係なくただ武器として使えばいいだけなのだが、なんとも悩ましい話であった(最も防具などは怖くて着れないが)。

 そもそもが俺の人生にこんなところを探索する予定はなかったのだからしょうがない。武術の鍛錬やデーモンの種別の判断だけ覚えてきたのが己だ。

 俺も爺も、文字が必要になるのは軍に入った時だと思っていた。だから爺は俺に文字を教えなかったし、俺も覚えようとはしなかった。

 それに、今まで使わなかったことも災いした。覚えようと思う機会など全く無かったのだ。

 辺境で生きるにあたって、覚えることは山のようにある。事実、使わない文字の勉強に割く時間はないのだ

「だが、何事にも備えておけ、という話なのか? こいつは」

 爺は俺に様々なことを教えてくれたが、そんな爺が俺に文字を教えなかったのは、俺に魔術の才能がなかったからだ。

 辺境で俺のような農民に関係する文字を扱う職は、魔術師か、軍人ぐらいだ。

 魔術師は様々な文字を読めなければならない。古の魔術を扱うには、古の知識が必要になる。そして、その知識を学ぶにはその時代の文字を読めることが前提になる。

 軍はなにやら書類などを作る時に必要になる。どんな書類かは知らないが、近所のおっさんどもの話では、文字を読めないと偉くなることはできないらしい。

「所詮俺は農民だからなぁ。忠実なる国民として国に属しちゃいるが、軍に入って偉くなろうなんて――」

 考えてもみなかったぜ、と呟きつつ、俺は剣を鞘から引き抜いた。

 通路の先にデーモンが見えた。

 半魚人マーマンに似たデーモン。ただし上半身は魚顔の鱗人うろこびとではなく、苦悶を貼り付けた人間だ。

 そして下半身は、腐れたウツボのような、ヒレの生えた太く長い不気味なナニカである。

「なんとも、悪趣味な造形かたちだな!」

 鉄扉が並ぶ通路、石壁を蹴りつつ、俺は泳ぐように素早くデーモンへと接近する。盾と槍を持つ半魚人の兵士は、接近しようとする俺に気づくと、ぬるりとした動きで槍を構え、無言で突き出してくる。

(うぉッ、動きに反してなんとも鋭い!!)

 少なくとも、槍の扱いだけならば辺境の戦士にも匹敵する腕前だ。大陸人など歯牙にもかけない強さ。こいつ一体で大陸の小さな都市程度なら壊滅できそうである。

 そんな鋭い槍を俺は身体を錐揉みさせるようにして躱し、槍の内側にするりと降り立つと剣をデーモンの身体に右から左から激しく叩きつけ、敵の身体をやたらめったらと斬りつけた。

「だが、悪いな! 俺の得意は人型なんだよ!!」

 死魚と違って、構造がわかりやすいし、例え死鮫のような恐ろしいタフネスを持っていようが、この程度の人型であるならいくらでも粘ることができる。

 槍を捨てた敵が腰の剣を抜き出してきたのを盾を叩きつけることで止め、一瞬だけ発動させた龍眼で弱所を把握すると俺はそこに何度も剣を突き入れた。

「こんなもんか」

 弱所への攻撃が決め手だったのだろう。デーモンは断末魔の悲鳴を上げ消滅する。

 デーモンの残した銀貨を袋に仕舞うと、俺はデーモンがいた通路の先を目を細めて見た。

「ボスのデーモンはこの先のようだな」

 この先は雰囲気が少しだけ違うように見える。瘴気が濃いというか、首筋にちりちりとした圧迫感があった。強敵の気配という奴だ。

「いや、そうではないか」

 ここは鉄扉が左右に並ぶ通路で、その先には一際巨大な鋼鉄の扉がある。

 ダンジョンには様式美セオリーという奴がある。こんな大仰な扉の先にボスのデーモンがいなければ、それは詐欺というものだろう。

 周囲には未だ未探索の扉があったが、俺は剣を強く握り、覚悟を決めた。

「そうだな、望むところだ」

 とにかく先へ進む。何があろうとも、だ。


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