026
猫のところで一晩休み、あの鉄箱を使い、下水道へと戻ってくる。途中で嗅覚殺しの果実を噛み砕き、汚水による不快感を和らげておく。
道中で見つけた給仕女に一通りオーラを叩き込み、消滅させる。
休んだことと瘴気のない空気を吸えたことで、自身の肉体は絶好調だ。
絶好調だから、何一つ戸惑う理由がないから、今からあの開いた大扉の向こうへと向かう。
何か1つでも間違いがあれば生きては帰れないだろうが、そんなもの些細なことだ。
「くくく。そんなことは今更なんだよ……」
命が大事ならこんなダンジョンになど来なければよかったのだ。一度地上へ帰ったのだからだ。
だが俺はこうやってここにいる。わかってて地下へと戻ってきた。この地獄へと自ら望んで入ったのだ。
猫から新しく買ったベルトに袋から取り出した剣とメイスを下げると、俺は口角を歪に釣り上げた。
「俺がやらなきゃ誰がやるってな」
そして、大扉の先を覆っていた、中さえも見えぬ瘴気へと触れる。それは小さな抵抗を返してくるが、拳に力を込めて押し付けると、ある一点を越え、今度は受け入れるように俺の身体を取り込み、闇の奥へと
「ここ、は……」
酷い悪臭だと本能的に感じる。嗅覚殺しを使っていてなお隠せぬ腐臭が周囲には漂っていた。視界を覆うように霧が漂っている。
「ッ、呪病の霧か」
今の俺は臭いはわからないが、一嗅ぎすれば辺境人としての本能でデーモンの使う呪いであることは察せられる。
俺は慌ててベルセルクの指輪を外すと、袋から飾り箱を取り出し、病耐性の指輪を身に付けた。
心持ち身体が楽になり、一息吐く。もちろん、その間も警戒は忘れない。
敵はどこだ……。瘴気、というより病魔の霧が濃い。目がなれるまで迂闊に動けない。
「調理場に見えるが」
天井には鎖によって死体が大量に吊るされている。周囲の壁には拷問具や工具、調理道具が等間隔に並べられている。また、等間隔に金属製の調理台が並んでいた。
まるで厨房のような悪趣味である。
チチ、と鼠の声が聞こえ、振り返れば小さな鼠のデーモンがこちらを窺っていた。
「なんだ? やんのかコラ?」
ガンをくれてやるとふいと顔を背けてどこかへと消えていく。ああいうものはいちいち相手にしていられないが、デーモンが一匹でも生きて俺の前から逃げ出したというのはひどく気分が悪い。
が、目的は別にある。この厨房の主を探さなければならない。
「進む、か」
いつでも使えるように呪毒と病に対する丸薬を鎧の隠しに入れておく。猫が売っているような耐性薬ではなく、単純に罹ったら体力を相応に消費して完治させる地上の薬だ。割と出回っている品である。
視界が悪いためじりじりとすり足で歩きながら、腰の剣の柄に手をかけつつ、いつでも襲撃に対応できるように盾をしっかりと構えておく。
進む。進む。進む。
(ッ。なんだぁ、こりゃ)
かなりの時間がかかったが調理場の奥へとたどり着いた俺の前に
見上げる。天をつくような巨体。魂が曲がるような腐臭。そこにデーモンがいる。
跳ねれば天井に頭が付きそうな巨体のデーモンは、腐れた前掛けを腐れた汁に染め、肉斬り包丁を片手に一心不乱に何かを切り刻んでいる。
俺には気づいていない。
「アアア……ハヤく料理を作らネバ……まるがれーたが来ちマウぜ……」
そいつは何かを切り刻んでいる。四肢を鎖で拘束され、口を拘束された何かをだ。
病の霧がひどく、視界が通らない。この拘束された何かから霧は出ているようだった。
しかし見えなくともわかる。嗅覚を潰しているというのにわかってしまうほど腐臭がひどい。ろくでもないものであることは確かだ。
更に言えば、鎖で拘束され、切り刻まれているその肉は、斬り刻んでいる巨大な料理人のデーモンよりもなお巨大である。
どうする?
俺はどうすべきだ。このデーモンに挑むべきなのか。あのゲルデーモンよりも強大なデーモンが2体もいるのだ。
退く判断をすべきだった。
口角が歪に歪む。
(逃げるだと? 知った事か。デーモンは全て殺す。そうに決まっている)
そう、俺にはそれしか選択肢はない。そもそもがあの瘴気の壁がゲルデーモンのものと同じなら入ることは許されても出ることは許されていない。
体調は万全だ。装備も揃えてある。鎧にも慣れた。
一戦もせずに退く理由が1つもない。
それに、だ。こいつは料理人に間違いない。『料理人』のデーモン。話の通りなら、弟龍マルガレータの友にして、泣き虫姫エリザの料理人がデーモン化した姿。
話の内容はこうだ。エリザの供であった龍が空腹により毎日厨房に来ることに困った料理人は様々な知恵を凝らして龍を追い払おうとする。それに対してマルガレータは引っかかったり、怒ったり、呆れたりと一人と一頭は知恵比べをしながらお互いを理解しあっていく。
また話の中ではデーモンの企ても存在するが、それを察した弟龍マルガレータによってデーモンは龍の力によって打ち砕かれる。
そんな、誰もが全力で生きている愉快で痛快な話。俺も特に好きな話だった。その登場人物が目の前のデーモンで、そいつは俺に気づくことなく一心不乱に何かを調理している。
デーモンの言葉から推測するなら、料理人はマルガレータの為の料理を作り続けていたのだ。
「今、終わらせてやる」
心の底から湧いてくる悲しみを振り払い、剣を引き抜くとオーラを込め、接近していく。この巨体だ。どう全力を込めても一刀では倒せない。だが、相手は気づいていない。初撃で相手に致命打を与えるチャンスである。そんな想いを抱きながら、俺はゆっくりと剣を振りかぶり――
――霧の奥、切り刻まれる
俺を睨みつけるのは、爬虫類の目。
「は……?」
俺は、切り刻まれているのは、物語の敵役である大鼠のデーモンか、それとも何か得体の知れない肉塊か何かだと思っていた。
だって、そんなものだろう? デーモンが犯すのは人の心であって、デーモン自体にまで悪意を持たせる必要はないはずだ。
だから、目の前のものを一瞬とはいえ俺は否定してしまった。
だから、それを見た瞬間に頭に血が上った。
――体を一瞬で冒した熱、これは
その
翼ある鱗、龍である。
「料理人が、友である、マルガレータを、調理、していただと……」
それに、そんなバカなという思いが脳を支配する。そうだ、マルガレータには――。
だが最後まで考えられない。
思考を支配するマグマのような荒れ狂う怒り。しかしデーモンの前であることまでは俺は忘れていない。だから忘我は一瞬で、だが何よりも致命的な無防備なその一瞬。
料理人のデーモンが、恐るべき速度で振り返っていた。
既にその腕の肉斬り包丁は振りかぶられている。
対する俺は、剣を振りかぶった姿のまま。
これは、避けられな――
「部外者ガァぁあああ! 厨房に入ったらァ!! イけないよぉおおお!!」
巨体で鈍重そうに見えてもその本質はデーモンである。圧倒的な身体能力から繰り出される巨大な肉斬り包丁の一閃に、俺は黒鉄の剣を全力で打ち付けた。
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