人の皮を被ったなんとやら、なんて言葉があるだろう? この言葉を知ったのは、私が外で元気よく遊びまわるようになってからだ。テレビで聞いたのか、大人たちが話しているときに耳にしたのか、とにかく、意味が気になって調べずにはいられなかった。そういうきっかけになるようなことがあってね。


 夏の暑い日のことだったと思う。

 蝉がうるさく鳴いていた。ときおり、かすかに風が吹いた。風鈴が音を鳴らす。夏は嫌いだったが、風鈴の音だけは好きだった。蒸し暑い夏の苦しさのなかで、風鈴の透き通った音が唯一の救いだったのだ。


 その頃の私は、一日の大半を縁側で過ごしていた。居間から延長コードを引っ張ってきて、縁側で扇風機を動かす。扇風機の風で暑さを凌ぎながら、家の隣に広がっている雑木林を眺めていた。いまの私の姿しか知らない人にはなかなか信じてもらえないのだが、幼いころの私は病弱だった。肌は白く、身体は同年代の友達よりもひと回り小さい。運動はまったくできない。少し走っただけでも息が上がってしまう。外で遊ぶことは、医者からも親からも禁止されていた。雑木林で走り回ったり、虫網を振り回している同年代の子たちを、縁側からただただ眺めていることしかできなかった。

 縁側でぼうっとしてばかりいる姿を見て心配したのか、父親が外国産のクワガタを買ってきてくれたことがあった。大きくて奇麗な色をしていた。ひどく興奮をしたのを覚えている。周りの子が持っていないものを持っている。それだけで嬉しかった。熱心に世話もした。一日中観察していることもあった。指先で撫でたり、画用紙に模写したり、しばらくのあいだ、クワガタに夢中だった。が、次第に飽きていった。熱は冷めていき、いつもの縁側で雑木林を眺める日々に落ち着いた。クワガタでは気持ちを満たしてくれない。甲高い笑い声が聞こえてくる度に、堪らなく外へ出かけたくなるのだった。


 その日も縁側で雑木林を眺めていた。昼食を取ったあとだった。

 近所の子どもたちが集まって遊んでいた。騒ぎ出して、黄色い声が響き渡る。私はひどくイライラしていた。暑さのせいだったかもしれない。額からぼろぼろと汗が床へと零れ落ちた。拭っても拭っても汗が止まらない。扇風機は熱風を送りつけてくるだけだったので止めていた。風はなく、風鈴の音も聞こえない。珍しく、雑木林を眺める気にはなれなかった。代わりにひと眠りすることにした。起きたときには、夏の暑さも、雑木林も、笑い声も、何もかも消えてしまえばいい。そんなことを思いながら眠りに落ちた。


 揺れている。運ばれているようだった。

 誰だろう。父親だろうか。そうっと目を開ける。黒いものが動いていた。黒いものが列を為して動いている。山のようでもあった。いくつも連なる山。しかし、違った。少しずつ黒いものの正体を理解した。声を出すことができたら、叫んでいただろう。なぜだかわからないが、声を出すことができなかった。黒いものは蟻だった。巨大な蟻。すれ違う蟻の触覚が上下に動く。見えているのかわからない黒い目。黒光りする身体。細かい毛の生えた脚。背中から嫌な汗が噴き出した。状況を理解することはできないが、どうにかしなければいけない。それだけは考えることができた。

 冷静になって辺りを見渡す。どうやら、私のほうが小さくなってしまったようだ。目の前の大地、雑草、砂粒。何もかもが巨大だった。自分の家の庭がこんなにも大きいとは思わなかった。声を出すことはできないので、助けを呼ぶこともできない。身体を動かそうと試みる。もぞもぞと芋虫のようにかろうじて動くことができた。このまま地面に転がり落ちよう。そう思った瞬間、脇腹に激痛が走った。噛まれたらしい。痛みで意識が遠のく。もはや少しも動くことはできない。蟻たちは行進をつづける。霞んでいく視界のなかで、暗闇が迫ってくるのがわかった。蟻の巣だ。早く逃げなくては。最後にそんなことを思いつつ、意識を失った。


 さっきのは夢だったのだ。そして、いまも夢がつづいている。そう思い込みたかった。

 気がつくと周りは白に覆われていた。正確には白に覆われている感じがするだけで、目を開けることすらできなかった。本当はどうなっているのか、わからない。もしかしたら、すでに蟻に食べられてしまっていて、死後の世界なのかもしれない。そうしたら、ここは天国なのだろうか。相変わらず、身体を動かすことはできなかった。声を出すこともできない。諦めることしかできなかった。

 突然、世界が揺れた。それから、力が加わるような感触。徐々に力が強まっている。ぴきりと割れる音がした。上のほうで穴が空いたらしい。白い世界にひびが入っていく。白い世界が崩れていく。解放されるのだろうか。外はひんやりとしている。何かがうごめいているのを感じた。ゆっくりと目を開ける。目の前にいたのは巨大な蟻だった。上下に動く触覚が私の身体に触れた。叫び声を上げる。自分の悲鳴が耳に突き刺さった。


「そんなところで寝ていると、風邪を引きますよ」

 母親の声だった。

 私は縁側で横になっていた。母親の姿が視界を通り過ぎる。空は赤く染まりはじめていた。ずいぶんと時間が経ったらしい。荒く呼吸をしている自分に気がついた。服が濡れるくらい汗をかいていた。心臓は大きく脈を打っていた。

 助かった。最初にこう思った。それから、さっきのは夢だったのだ、と思い込むことにした。頭を大きく横に振った。最後に触覚が触れてきた感触が頭に残っているような感じがしたのだ。

「もうすぐ、晩御飯にしますから、こっちへいらっしゃい」

 優しい母親の声に安堵した。

 それからが不思議だった。

 病弱だった身体が嘘のように、元気に動けるようになったのだ。周りの友達よりも力強くなったくらいだ。外を走り回る姿を見て、医者は不思議な顔をしていた。両親は喜んだ。雑木林で一緒に遊べるようになって、友達も喜んでくれた。もう、縁側で過ごすことはなくなった。友達とたくさんの思い出を作り、幸せな少年時代を過ごすことができた。


 ときどき、蟻のことを思い出して、不安になる。

 どうしてかって?

 自分のなかに、自分ではない別のなにかが潜んでいるではないかと、心配になることがあるんだよ。美味しそうなものや甘そうなものが視界に入ると、身体が勝手に動くんだ。ほら、指先がうねうねと。虫の脚のように。

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