夢の出来事

 誰にだって隠しておきたい秘密のひとつやふたつはあるものだ。例にもれず、小林さんにも他人には知られたくない秘密があった。

 フロアの電気を消して、会社を後にする。残業して最後まで残るのがお決まりとなっていた。小林さんは決して仕事ができないわけではない。しかし、上司から褒められることよりも、叱られることのほうが多かった。かといって、不真面目なわけでもない。どちらかといえば、本人は熱心に仕事をしている。要するに、能力が足りないのだった。それとなく、自分でも感じてはいるが面白くはない。毎日出勤する度にもやもやとしたものが心に溜まっていく。

 会社を出ると辺りはすっかり暗くなっている。小林さんは家路を急いだ。

 肌に纏わりつくような春の艶かしい空気の気配を感じつつ、仕事帰りのサラリーマンや夜遅くまで遊んでいる学生たちで賑わう繁華街を横目に通り抜ける。酒を飲んだり、誰かに愚痴をこぼしたり、そんな憂さ晴らしを羨ましく思うこともあった。しかし、小林さんはアルコールが苦手な体質で、ひと口飲んだだけで全身が赤くなり、気分が悪くなってしまう。愚痴をこぼそうにも、人付き合いは苦手で、話していると嫌なことを思い出してつまらない気分になってしまう。

「外で遊んだとしても気分転換にはならない。お金も無駄に減る一方。さっさと家に帰ったほうが健全だな。それに、家ではが待ってくれているからな」

 自分を慰めるようにつぶやいた。それから、歩を速めた。

 ときおり、肌を刺すような冷たい風が吹いた。風が吹く度に、肩をすくめ、コートの襟を引っ張って背中を丸めた。穏やかな春の夜を迎えるのはもう少し先のようだ。


 家に着くと、小林さんはてきぱきとシャワーを浴び、洗濯をした。つくり置きのごはんを温めて夕飯をすませる。小林さんにとって、と過ごす時間以外は無駄とでもいうべきであった。手を神経質に拭ってからことにかかった。

「きょうも一日疲れた。ひとのことを散々こき使いやがって。ようやく癒しの時間だ。他人には見せられたもんじゃないが」

 小林さんはクローゼットから大事そうに箱を取り出した。箱をあけて、を取り出した。

 それは高価な革製の鞄だった。

 小林さんは小さな赤ん坊でも扱うように、慎重に鞄を抱えた。撫でるように指先で優しく触れ、じっと見つめる。ときには革の匂いを嗅いで肺を満たし、ときには頬ずりをして感触を確かめる。この鞄を持って出歩くことはなくとも、丹念に手入れをした。手入れをすること事態が幸せであり、磨きあがった姿を見て、また幸せに浸るのである。休みの日には一日中、鞄を眺めていることができた。愛しているといっても過言ではない。

 同僚や友人はおろか、親にすら見せたことのない、小林さんの秘密だった。

 他人の目に映る小林さんの行動は奇怪そのものであったが、本人にとってはなくてはならない、日々の儀式のようなものであった。この鞄のおかげで、辛い毎日を頑張ることができるのだから。

 子どものころから、こういう癖があったわけではない。

 残業ばかりで鬱屈とした日々を過ごしているときに、たまたま通りかかった百貨店で衝動買いしたのだ。一目惚れのようなものだった。店頭のガラスケースのなかに飾られていて、鞄だけに光が当たっているように見えた。色や形、持ち手や金具。すべてが小林さんの好みに合っていた。取り憑かれたように店内に入り、店員に鞄を求めた。会計時に示された値段は予想よりもはるかに高かった。今後の生活のことが頭をよぎったが、鞄の魅力には勝てなかった。分割払いにしてもらい購入した。それ以来、金銭的に生活は苦しくなったが、小林さんは幸せだった。すべては鞄のおかげだ。


 その日、小林さんは久しぶりに鞄を胸に抱いて寝ることにした。ふだんはきちんと箱にしまうのだが、ときどき、抱いて寝ることもあった。

 仕事の疲れもあったのか、すぐに眠りに落ちた。そして、夢を見る。鞄の夢だ。

 幸せな気分。夢のなかでも愛する鞄と一緒にいられるのだから。しかし、違和感に気づいた。鞄の様子がおかしい。愛らしい鞄が威圧感を放っていた。

「どうしたんだろう? 私に不満でもあるのだろうか」

 小林さんは首を傾げた。もちろん夢とはいえ、鞄が喋ることはない。だが、違和感はだんだんと膨らんでいく。そして、違和感の正体がわかる。鞄が徐々に大きくなっているのだ。はじめは抱えられるほどだったが、いまでは小林さんよりもひと回りほど大きくなっていた。無言の時間がつづいた。これからなにが起きるのだろう、と小林さんは腕を組んだまま立っている。がちゃりとふだんよりも重厚な音をたてて、鞄の口がひらいた。

「なにをする」

 驚いた声を上げたときには、小林さんは鞄のなかに飲み込まれてしまっていた。丸くなった格好で窮屈。さっさと出ようにも口は閉じたままでひらく気配がない。なかは真っ暗でなにも見えない。飲み込まれたままなにが起こるわけでもなく、不安ばかりが募る。無理やりあけようなんて乱暴なことも愛する鞄にはできなかった。

 外から音が聞こえた。がたがたと震える音だ。縦に小さく揺れているようだった。それから、横に大きく揺れた。振り回されているのかもしれない。小林さんは上も下もわからなくなった。

「やめてくれ」

 情けない声を出すことしかできない。小林さんの願いは聞き入れられず、揺れはますます大きくなった。崩れる音。倒れる音。ものが割れる音。何かが落ちてくる音。

 小林さんはパニックになった。叩いたり、身体を懸命に動かしたり、とにかく鞄のなかから出ようと躍起になった。

「このまま死にたくない。早く出してくれ」

 大声で叫ぶ。それでも鞄は口をひらかない。とうとう蹴破ろうと足に力を込めた。

 みしみしと嫌な音。もう少しで出られそうだ。ますます力を込める。そして、足が伸びきる。鞄が破れたらしい。解放感。同時に夢から目が覚めた。

 息は荒く、背中から嫌な汗が流れた。小林さんは深く息を吸って呼吸を整えた。

「よかった。夢か。あんなこと現実にあったらたまったもんじゃない。大事にしていたのに、その鞄に飲み込まれるなんて」

 呼吸は整ったが気持ちはまだ落ち着かない。水でも飲もうかと思って立ち上がり、ようやく部屋の異変に気がついた。部屋のなかが荒れているのだ。椅子や机はひっくり返っており、壁に立てかけてあったものは床に散乱していた。何枚か皿が割れていた。

「大きな地震でもあったのか。それにしても、気づかず寝ていたなんて」

 ベッドの周りにも本棚から落ちてきたのか、たくさんの本や小物が散乱していた。当たっていたら怪我でもしていたかもしれない。幸い、痛いところはなかった。

「こんな幸運なこともあるんだな」

 ふと、足元にある鞄が目に入った。形がおかしかった。持ち上げてみる。小林さんは、あっと驚いた。まるで蹴破られたかのように、鞄の底には穴があいていた。

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