あるところに医者がいた。といっても、本人が医者と名乗ったことはなかった。周りが勝手にそう呼ぶのだ。とはいえ、男のほうも医者と呼ばれて否定はしなかった。満更でもないらしく、医者と呼ばれる度に、はにかみながら受け入れてきたのだった。

 男は多くの人を治療してきた。多くの人に感謝されてきた。どんな難病でも怪我でも治してしまうのだから。しかも、助手もつけずにたったひとりで。多くの人が男の治療方法を知りたかったが、男は決して他人に治療するところを見せなかった。患者にさえ、見せることはなかった。必ず、患者を寝かせてから治療をはじめた。暗い部屋で患者と二人きり。男が持っているものといえば、小さな箱をひとつだけ。治療にはそう時間もかからない。男が先に部屋から出てくる。後から患者が出てくる。出てきた患者は見事に完治しているのだ。どんな治療をしたのか。患者や記者、医療関係者に訊かれても、男は恥ずかしそうに下を向いて頭をかくだけだった。

 それもそのはずだ。男は治療などしていないのだから。

 男が持っている箱。これが魔法の箱なのだ。

 男の家は代々医者の家系だった。幼少期から親から医者になるように言われて育った。男自身も人を治すことに憧れていた。しかし、頭がよくなかった。どんなに勉強をしても医者になれる頭脳ではなかったのだ。

 それでも、男は医者になることを諦めきれなかった。たくさんの人を治すことが、男の小さいころからの夢だった。

 自分の力では医者になれないことがわかった男は、悪魔と契約することにした。どんな形でもいいから医者になりたい。願いを伝えると悪魔は箱を取り出し、説明をした。

「この箱の蓋をあけて、念じればどんなものでもしまうことができる。たとえ病だろうと怪我だろうとな。そして、二度と取り出すことはできない。もちろん、タダではやれん。おまえの命と交換だ」

「おまえの言うことが本当かどうか、一回試しに使ってもいいだろうか?」

「いいだろう。しかし、使ったら契約は交わしたことになるぞ」

 悪魔はにやにやと悪そうな笑みを浮かべた。

 男は試しに目の前の悪魔をしまってみようと考えついた。箱の蓋をあけ、悪魔をしまうと念じた。悪魔はなにかを言おうとしたが、箱に吸い込まれていった。そして、勝手に蓋が閉じた。

 契約は途中だったからか、命を取られることはなかった。悪魔には悪いことをしたと思いつつも、男はこの箱を使って治療をはじめた。


 あるとき、男は戦場に向かった。多くの人が傷つき、悲鳴を上げていた。男は多くの人を治療した。治療しても、治療しても、怪我人はいなくならない。毎日、毎日、恐ろしい悲鳴を聞いた。もう、聞きたくない。戦場から逃げ出したくなった。しかし、人を治すことは小さいころからの夢なのだ。男は箱の蓋をあけて念じた

「私の聴覚をしまっておくれ」

 箱の蓋が閉じた。男は耳が聞こえなくなった。


 あるとき、男は友人からの手紙を受け取った。不治の病にかかった妻を治してほしいと書かれていた。男は急いで友人のもとに向かった。

 道中にはたくさんの病人や怪我人がいた。治療を頼まれると男は断れなかった。人を治すことは、男の小さいころからの夢なのだから。たくさんの人を治療しながら、友人のもとを目指した。

 男が友人のもとに辿り着いたときには、友人の妻は亡くなっていた。男は頭を下げて謝罪した。友人は顔も合わせてくれなかった。

 男は悲しみにくれた。長いあいだ立ち止まっていたが、男は自分の使命を思い出して立ち上がった。そして、箱の蓋をあけて念じた。

「私の感情をしまっておくれ」

 箱の蓋が閉じた。男は感情を失った。


 あるとき、男は疲れて寝込んでしまった。休む間もなく、治療をつづけていたのだ。自分のことを求める人がいれば飛んでいった。どんな困難があろうとも、人を治すために進みつづけた。充分すぎるほどの人々を治療してきた。そろそろ、休んでもいいのではないか。頭のなかで考えが過った。しかし、腹の底から熱いものが溢れてきた。自分の夢は、使命はなんなのか。自分はなんのために生きているのか。

 男は箱の蓋をあけて念じた。

「私の疲れをしまっておくれ」

 箱の蓋が閉じた。男は疲れを感じなくなった。


 それからも男は治療をつづけた。男の働きは機械のようだった。狂気に満ちた目をしており、だんだんと人が近づかなくなった。

 そして、とうとう限界を迎えた。身体が動かなくなったのだ。男は最期の最期まで、人を治すことだけを考えていた。もはや執念だった。だが、もはや男に治療をしてもらおうとする人はいなかった。

 ベッドの上で男は箱をぼんやりと眺めていた。多くの人を治療してきたことを思い返していた。

 ふと、悪魔のことを思い出した。命と交換だったはずだったが、悪魔を箱にしまってしまったので、うやむやになってしまっていた。代わりになるはずもないが、箱に命をくれてやろうと思った。

 箱の蓋をあけて念じた。

「私の命をしまっておくれ」

 箱の蓋が閉じた。男は箱に吸い込まれた。

 しかし、まだまだ人を治したいという、男の想いは箱に収まりきらなかった。箱は膨らみすぎて、跡形もなく壊れてしまった。

 男の想いはいまもまだ世界に遺りつづけている。

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