二. 変転④


「……う、ん。大丈夫。ビックリした」

「誰だよちゃんと片付けてないのは」


 小さく愚痴りながらバケツを上の棚に上げる。背が高いって便利だなぁと思いながら見上げていると、どうかした? と首を傾げる水嶋くんと至近距離で目が合った。


「ううん、なんでもない」


 声が上ずる。男の子とこんなに密着することなんてないから、動揺してしまう。顔も熱い。真っ赤になっているかも……恥ずかしい。

 有川とだったらこんなことしょっちゅうだったけど、あいつはもはや例外だし。


「あ、栗原の髪、糸くずがついてる」

「え? どこ」

「じっとして、取ってあげる」


 緊張する私とは裏腹に、水嶋くんは冷静な口調で言って髪に触れる。背中にはロッカーの扉。目の前には水嶋くんの大きな体。押し込まれたようなこの状況に息がしづらい。


「はい、取れたよ」

「……ありがとう」

「こうやって近くで見ると、やっぱ栗原って背小さいんだな」

「えっ?」

「走ってる時はすげぇ大きく見えるのに。あ、ほら、サッカーコート隣だからさ。見えるんだよ。最初に見た時、そのギャップに驚いた」


 知らなかった。水嶋くんが部活中の私を見たことがあったなんて。

 するとそんな私に向かって、水嶋くんがさらに意外なことを言い出した。


「しかも教室ではクールなのに、部活の時は子どもみたいに楽しそうに笑うし」

「え? な、なにそれ」


 真面目な顔して言うものだから、気恥ずかしくなって慌てて目を逸らす。

 きっと水嶋くんは何気なく見たままを口にしているだけなんだろうけど、そんなこと言われ慣れていない私の体は一気に熱を上げていく。心臓もバクバクと早鐘を打っていた。

 でもきっと水嶋くんは涼しい顔をしているんだろう。人を戸惑わせておいて自分は無傷だなんてなんだか悔しい。


「なにしてんの、そんなところで」


 そこに聞き慣れた低音が聞こえてきて、ハッとしながら慌てて水嶋くんから距離を取る。

 声のした方向を見るとどういうわけか、部活に行ったはずの有川が教室の引き戸の所に立っていた。


「有川、お疲れ。見ての通り掃除当番手伝ってた」


 水嶋くんがいつもの落ち着いた調子で答える。だけどそれとは正反対に有川はまったく笑ってなくて、むしろ不機嫌だ。


「お前こそどうしたんだよ」

「練習のメニュー表忘れたから取りにきただけ」


 水嶋くんに対してぶっきら棒に言うと、有川は自分の机に向かい捜し始めた。

 久しぶりに見る有川のユニフォーム姿。ずっと陸上部の前を通らないように避けていたから、この姿を見るのは二十日ぶり。


「栗原、俺行くね」


 ぼんやり眺めていると、水嶋くんが私の肩をポンと叩きそう言った。


「あ、うん。ありがとう。手伝ってくれて」

「ううん、全然。また明日。気をつけて帰れよ」


 キラキラとした笑みを浮かべ、爽やかに駆けていく。その姿を見てふと誰かが言っていたのを思い出した。水嶋くんは絵本の中から出てきたリアル王子様だと。

 その時はピンと来なかったけど、今ならわかる気がする。たった数分言葉を交わしただけなのに。

 それに正しいことは正しい。悪いことは悪いときちんと言える人で、誰に対しても分け隔てがない。

 クラスメイトの喧嘩にも躊躇なく仲裁に入るし、以前教科担任が私たちのクラスを馬鹿にしたような発言をしたことがあった時も、それは間違っていると堂々と反論した。

 きっと、そんな風に部活でもみんなを引っ張っているんだろう。そんなことを想像しながら、机にかけていたカバンを手に取った。


「そんなに仲良かったっけ?」


 机の中からプリントを一枚引き出した有川が、冷たい口調で声をかけてきた。


「え? なにが?」

「水嶋とお前だよ。さっきそこでやけに親密そうだっただろ」


 掃除道具入れの方を指さし苛立ったように言う。


「あれは違うよ、頭にごみがついていたから取ってもらってただけ」


 というか、その話は蒸し返さないでほしい。思い出すのも恥ずかしいから。


「あいつはやめとけ」

「だからそういうんじゃないってば」

「らしくない顔してたけど」


 そんな馬鹿なと、無意識に頬を手で覆った。確かに水嶋くんがあまりに近すぎてドキドキしてしまった。だけどそれは単に慣れていないからで、特別な感情があるわけではない。

 そんなことより、そんな自分を見られていたことのほうがもっと恥ずかしい。しかもよりによって有川に。


「変な誤解しないでよね。違うから」


 必死にそう言うも有川はどう取ったのか、面白くなさそうに「どうだか」と言い残し教室を出ていった。


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