一. 失速⑧


「よかった、たいしたことなさそう」


 傷口を水で洗い流しハンカチで拭いていると、有川がホッとしたように言った。さっきひっくり返してしまった自転車も、いつの間にか取りにいってくれたみたい。本当にタフで俊敏な男だ。

 優花の家の前を通っただけなのに、頭が真っ白になって体が震えた。こんなにも気持ちが掻き乱されるとは思わなかった。色んなことが一気にフラッシュバックして、私の中で何一つ整理できていないことに気づかされる。


「さっき転んだ場所ってさ、もしかして例のあの子の家?」


 有川の声にハッと意識が戻る。


「優花ちゃん、だっけ?」


 少しの間ののち、私はその問いかけに力なく頷いた。

 優花が事故に遭った時、錯乱する中どういうわけか私は有川に電話をかけていた。混乱する私に有川は何度も落ち着けと言って、その直後には駆けつけてくれていた。だから有川はあの事故のことを唯一知っている人物。


「お前も食べる?」


 いつになく真剣な顔をしていると思ったら、今度はいきなりなにかを差し出してきた。

 見ると今朝も食べていた焼きそばパン。どこに隠し持っていたのかと思わず二度見する。


「いらない」

「お前そんなんだから細いんだよ。さっきも人を背負ってる感覚全然なかったし。もっと食え」

「なっ、大きなお世話。それに細くないし」


 そう抗議してみるも、有川の言う通り少し痩せたような気はしている。前のように小まめに計っているわけではないから正確にはわからないけど、食欲がないからそうなるのも仕方がないと思う。

 少し前までは有川と同じように私も食べることが大好きだった。よく二人で部活のあと買い食いしたり、寄り道したりしていた。

 だけど今はなにを食べてもおいしいと感じることができなくなっている。


「俺なんてこれで五個目」

「あんたの胃袋どうなっているのよ」

「食っても食っても腹が減るんだよ」


 確かに有川は常になにか食べている。朝から放課後までずっと。食費がすごそう。


「そろそろ帰る? 家の人心配するだろ」


 飲み物のようにあっという間にそれを流し込むと、有川は突然立ち上がった。それにつられるように私もそうだね、と言って立つ。

 だけどすぐに駆け出すのかと思いきや、有川は夜空をじっと眺めていた。


「有川? どうかした?」


 声をかけると、有川が背を向けたままポツリと呟いた。


「俺、お前が練習前や試合前に長い髪をキュッと頭のてっぺんで結ぶ仕草が好きなんだ」

「は? なに急に」


 いつの間に、見てたの?

 それは私の昔からの願掛けでもあってルーティンだ。きつく髪を結ぶと気持ちが引きしまるから。

 まさかそんなところを見られていたなんて、全然気がつかなかった。


「顔つきが一気に変わって、まるでなにかに取り憑かれたみたいに目の色が変わる。見ているこっちまで気合が入った」


 だから、と言って振り返った有川の顔には月明かりが射していた。そして憮然とする私を見据え、こう言った。


「また一緒に走ろう。お前が戻ってくるの、待ってるから」


 有川の真剣な眼差しが、私を久しぶりにあの場所へと連れていく。一瞬だけ、グラウンドに舞う砂の匂いがした気がした。

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