一. 失速⑦



〝起きてる?〟


 お風呂から上がって部屋に戻ると、有川からラインが来ていた。そういえば夜連絡するとか言っていたっけと思いながら、画面に表示された文字を眺める。

 きっと走ろうという誘いだろう。あんなに嫌だって言っていたのに突撃してくるなんて、どんなメンタルの持ち主なんだ。私なんて友達と気まずくなっただけで、こんなにへこんでいるというのに。

 髪の毛をタオルで拭きながら栞奈のことを考えていると、またピコンとスマホが鳴った。


〝下にいる〟


「はーっ 」


 思わず声が上がる。ほんとに人の言い分を聞かない男だ。

 半信半疑でカーテンを開け隙間から外を覗き見ると、そこには小さな光に照らされた有川の姿があった。しかもいつもの自転車だ。

 有川は私に気がつくと大きく手を振った。

 仕方なく窓を開けると「起きてた?」と第一声が飛んでくる。小さく頷くと、来い来いと手招きをされた。

 どうしてこうなるんだ。いつもいつもあいつのペースに乗せられてばかり。

 そんなことを考えている間も、早くしろと言わんばかりに手招きを強める。どうせ下りていくまでしつこいんだろう。

 あいつの姿を見ていると結局観念せざるをえなくなり、仕方なく傍にあったパーカーを掴むと、両親に見つからないようにこっそり階下へと下りた。


「よ、お疲れ」


 玄関を開けると有川が嬉しそうに手を挙げた。

 服装は陸上部のみんなでそろえたジャージ姿で、顔は疲れの一つも見えない。むしろ生き生きしている。

 つい数週間前までの私を投影してしまうけど、今の私は打って変わって部屋着のパーカーに短パンで、髪はまだ少し濡れている。足元なんてサンダルだ。


「本当に来たんだね」

「行くって言ったじゃん」

「そりゃそうだけどさ……」


 拒まれたから諦めるという選択肢はこいつの中にないのだろうか。


「行くぞ」

「行くってどこに?」

「走るんだよ」

「やだよ!」


 どうしてそこまでして走らせたいの?

 もうあんな想いはしたくない。忘れたいのに……。

 パーカーの裾をギュッと掴み唇を噛みしめ俯いていると、有川のあっけらかんとした声が届いた。


「じゃあ俺が走るから、お前チャリで伴走しろよ」


 そうして乗ってきた自転車を私に突き出してくる。


「えっ? ちょっと……!」

「ほら、乗れ! 行くぞ!」


 躊躇う私を半ば無理やり自転車に乗せると、行け! と、押し出された。


「もう! どうしてそう勝手なのよ!」


 人の意思を無視した言動に、怒りを通り越して呆れてしまう。

 だけど本人はなにも気にしていない様子で、涼しい顔で私のあとをついてくる。

 ついさっきまで走ってたんでしょ? いったいその体力はどこから湧いてくるんだ。

 心の中で愚痴りながらしぶしぶ自転車をこぐ。

 その時ふと、夜風の心地よさに気がついた。しかも気持ちが和らいでいく。不本意だけど、気持ちいい――。

 有川に言ったら「そうだろ?」って、得意げにされるのが手に取るようにわかるから、絶対口にしないけど。


 少し走ったところで、数メートル先に「三木」という表札のかかった一軒の家が目に留まった。優花の家だ。

 まだ夜の九時だということもあり、周りの家は灯りが点いているところが多い。だけど優花の家だけは真っ暗で、人気もないように感じた。

 優花がいなくなってからこの家の前に来るのは初めてだ。千花さんに会ってしまったらと思うと怖くて、この道を通ることができずにいたから。

 もし今千花さんが出てきたらどうしよう。

 声をかけられたらなんて言えば……。


「どうして約束を守ってくれなかったの!」


 あの日、病院の霊安室で向けられた叫び声が頭の中で鳴り響く。一度思い出すと耳から離れなくなり、思い切り首を振った。

 心の準備ができていない。どんな顔をして会えばいいのかわからない。

 だって、優花を死なせたのは私だから――

 お願い、かち合いませんように。見つかりませんように……。


「栗原!」


 心がぐちゃぐちゃになりながら家の前を通り過ぎようとした時、有川の焦ったような声が届いた。ハッとして視線を上げると、私の目の前には電柱が迫っていた。


「きゃっ」


 避けようとハンドルを切った時にはすでに遅く、気がついたらバランスを崩し自転車ごと転んでいた。


「大丈夫か?」


 有川が慌てて駆け寄ってくる。ひっくり返った自転車の車輪が真横でカラカラと空回りしている。


「う、うん……平気」

「なにやってんだよ、ぶつかるって何度も言ったのに」

「ごめん、なんかボーっとしちゃって」

「足、擦りむいてる。洗ったほうがいい。そこの公園まで歩けるか?」


 言いながら有川は躊躇なく私の肩に手を回す。そしてゆっくりと立ち上がらせてくれた。


「痛っ」


 だけど立ち上がった拍子に痛みが走り、思わず声を上げてしまった。


「あ、悪い」

「……ううん、平気」


 言いながらひょこひょこと足を引きずって歩き出す。だけど有川はなにを思ったのか、「ちょっと辛抱しろよ」と、まるで背負い投げでもするように無理やり私を背中に乗せると、そのまま一直線に駆け出した。


「えっ やっ、ちょっと有川!」


 なにが起きたか理解できないまま有川の背中でジタバタする。


「下ろして! 恥ずかしいから!」


 そう訴えるも聞く耳持たずで、有川は私をおぶったまま軽快な足取りで公園へと向かった。


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