『僕の5月1日 夜』その1

「君は今日いた新入部員!」


 女性が指をさしながら、アフロの人と一緒に狭い廊下を小走りで向かってくる。

 締め付けられる恐怖を感じた僕は、即座に自分の部屋の中に逃げ込み、素早く扉を閉め、カギをかけた。

 ドアにもたれかかり、脚を折り曲げて床に座り込む。


「危なかった。捕まったらマジ死ぬところだった。けどよりによって僕の部屋の隣に……」


 ぐっと肩の力が抜けて、体が布切れみたいにしなしなにへたれた。

 でも部屋に逃げ込んだから流石に中に入ってくることはない。家にいればもう大丈夫のはずだ。

 たぶん……。


「ピーンポーン」

「……」


 絶対に居留守、居留守をする。今出た所で僕に得などない。また襲撃に決まっている。両手で両耳を抑え、目を瞑る。


「おーい」


 扉を隔てて、外からデスコールが。


(聞こえない。聞こえない。聞こえない。)


 聞こえない呪文を延々と唱え続けた。


「財布忘れているぞ」

「……、ふぇ?」


 自分らしからぬ、そもそも今のは自分の声なのか、と思える位のひっくり返った声が漏れた。

 財布だと……。

 急いで自分のポケットやバックなどに手を突っ込む。だけど財布は見当たらない。

 急激に血の気がひいていくのが分かる。

 鞄をひっくり返して全部確かめた。本や筆記用具が床に散乱した。

 だけどその中に、財布の姿は無かった。

 みるみる顔の血の気が引いていくのを感じた。


(どうしよう)


 ここまで純粋な不安が出るなど、あまり無いだろう。


(このまま出てもまた厄介事に巻き込まれそうだし、でも財布がないと明日に支障が出るし、でも出たら。そうだとしても出なかったら……)


 出るか出ないかの葛藤。


 結論、やはり財布は命の次に大切。という答えのもと僕はドアを開けることを決意した。


 岩みたいに重くなった体をゆっくりと起こし、ドアノブに手をかける。

 静かに鍵を回し、ほんの数センチだけドアを開いた。

 瞬間、アフロの男性がぬっと隙間から顔を覗かせる。

 全身に鳥肌が駆け巡ったが、それでも平静を装うようにして話す。


「財布返してくれませんか」


 静かに冷徹な表情で目の前の男の人を直視する。

 さすがのアフロの男性も、戸惑いを表情に浮かべる。


「お前どうしたんだ。この世の終わりみたいな顔は……」


 お前のせいだ。と言いたいのを我慢しつつ、男性の手の高さまで視線を落とす。

 ドアの細い隙間から黒色の長方形の物体が見えた。


「とりあえずほれ、お前の財布だ」


 男性はすっと扉の隙間から手を入れ、黒い長財布を渡してきた。

 僕は小声で礼を述べ、財布を奪いとり、速攻でドアを閉めようと、全力でドアノブを引っ張る。しかしドアは閉じるまであと数センチにも関わらず、微動だにしなかった。

 正面にいるアフロの男性は、何事もないような顔をしている。扉に手を当てている気配もなく、この人が邪魔をしているように見えない。


 じゃあ一体誰が邪魔をしているというのだ。


「どうも、新入部員」


 アフロの男性の胸のあたりから、ひょこっと顔を出した。

 この男性のもう一つ隣にいた女性である。


「おいおい。エリ。流石に少年が困っているだろ」

「ええー。それ、てるやんの口から言えるセリフ?」

「いや。それは、まあそうだけど」


 てるやんと呼ばれた男性は口をへの字にさせる。

 自覚はあるみたいだ。

 二人が気を取られているその瞬間に再度ドアノブを引っ張るが、一ミリも動かない。焦りの色が濃くなる。


「ちなみに少年。ドアは私が全力で引っぱっているから、たぶん動かないよ」

「え?」


 女性はにっこりとした表情を見せてきた。

 いやそれよりも、顔一つ歪めずに僕の全力の力を止めている事実と、それにニコッとしたその笑顔、悪魔だと悟った。


「それよりさ少年。腹減ってるだろ。今から飯でも食いに行かないか」


 女性が突然の提案をしてきた。確かに腹は空いているが、会って間もない人とご飯行くのは気が引ける。それに今日してきた事実を照らし合わせると、この人の言うことは疑念の塊でしかない。


「とてもありがたいのですが、今日は疲れているので……」

「じゃあさ」


 女性がドアの内側に手を入れて、身を乗り出してきた。


「飯全部奢るからさ。それに今日のことで少年に侘びというか。謝罪というか……」

「今日は流石に悪かった。だからせめての罪滅ぼしで、おごらせてくれ」


 アフロの男性も一緒にドアの隙間に入り込むようにして、懇願してきた。

 露骨な言い方で「一方的な謝らせてくれ」とか、そんなの普通は聞けない。

 けど多少なり反省をしているのは、なんとなく伝わった気がした。


「仕方ないですね。分かりました。その分一番高いのを食べさせてもらいますよ」

「わかった。それでもいい!」


 てるやん先輩がにかっと笑った。

 その笑いがいい方向だといいなと、淡い期待を願ったのであった。

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