第30話 クロス
息を切らして校門をくぐると、グラウンドでは、片づけを始めようとするハルトが見えた。ケイシは、フッと大きく深呼吸する。気持ちを落ち着かせるようにして、手を胸にあてる。確かめるように一度、頷くと、ケイシはグラウンドに向かって駆け出した。
「ハルト!」
ケイシが声をかける。ハルトは、荷物の上に置いているタオルを取ろうとして、声のする方に振り向いた。声をかけたのがケイシだと分かると、タオルを取ろうとした手を戻して、その場に立ち尽くしていた。
「ハルト、勝負しろ!」
ケイシは、転がっているボールを拾うと、ハルトに向かって蹴り出した。ハルトは、まだ、戸惑った表情をしている。足元にボールが届くと、ハルトは迷っているのか、足元でボールを遊ばせていた。
「こい!」
呼びかけにハルトは、ケイシに向かってボールを蹴り返した。ゴール近くまで誘導した後、ボールを投げ渡すと、受け取ったハルトは、少し緊張しているような表情をした。
勝負を挑んだあの日と同じように、ケイシは、ハーフコートの中央に立った。あの時は、勝負すらさせてもらえなかった。ハルトは、ケイシの様子を伺うようにして俯いている。
「びびってるんだろ?」
挑発するように笑ってみせると、ハルトの顔つきから緊張が解けていくようだった。
「びびってねぇよ」
「勝負だ!」
ケイシの掛け声に、ハルトは決心したのか、重心を前にして走り始めた。ボールは、ハルトの足に磁石のように離れては吸い込まれていく。ケイシも、負けじとハルトに体を寄せていった。
あの日と同じように、先に仕掛けたのはケイシだった。ハルトの足元を狙いに動いた瞬間、ハルトは体を右に動かした。フェイントにつられた形でケイシも右に動いていく。ハルトが抜け出そうとして、ケイシは遅れを取りながらも、体を強引に左に起こすと、ボールに足を伸ばした。あの時は、ここでハルトが力を抜いた。今回はあの時とは違って、ケイシのつま先からボールがこぼれ落ちていった。ハルトは、軽々とケイシをかわして突破していく。
「くそ!」
そのまま抜け出したハルトは、ケイシを置き去りにして、勢いよくゴールを決めた。ネットに転がるボールのバウンド音が聞こえる。ケイシは、はっきりと実力の差を見せつけられたようで、それを噛みしめるように天を仰いだ。
「もう一回、勝負だ」
何回続けても、ケイシはハルトのボールを奪えなかった。ハルトは、いつしか息を切らして向かってくるケイシと、一緒にボールを追いかけることを、どこか楽しんでいるようだった。幼い頃と同じように、ただ、がむしゃらにボールを追いかける。あの頃と変わったのは、ボールを取れずに悔しがっているのがハルトではなく、ケイシだということだ。
ボールに足を伸ばした瞬間、つま先に触った感覚があった。いけるかもしれない。そう思った時には、もう、ハルトがケイシの足ををかわして走り抜けていた。
5回目のゴールが決まったと同時に、ケイシはその場に倒れ込んだいた。右腕を額にのせたまま、空を見上げる。鼓動は、ずっと早いままだ。ふと、目の前に広がる星空が、きれいだと感じた。
「やっぱり、お前はすごいなぁ」
ハルトと、ただ、こんな風に思い切りプレーしたかった。何も考えず、あの頃と同じように、ただ真っ直ぐに追いかけていたかった。ハルトとの力の差は、歴然で、それを認めるしかない。きっと複雑な感情がよぎるような気もしていたが、何だか心はとても軽いままだった。
空を見上げて倒れこんでいるケイシの顔を、ハルトが覗き込む。
「おい、お前はそんなものなのかよ!違うだろ!まだ、やれるだろう!」
ハルトは、そう言って笑った。その言葉は、ケイシが南稜高校の練習で、疲れ果てたハルトにかけたものと同じものだ。
「お前、あの時の声、聞こえてたいたのかよ」
恥ずかしそうにケイシは、手で顔を覆う。ハルトはろくに返事もせず、リフティングを楽しんでいた。それはまるで、倒れ込んでいるケイシのことを、からかっているかのようだった。
「あぁ、もう。お前ってヤツは」
ケイシは、両手を大きく広げた。息は少しずつ整っていく。大きく吸って、吐き出すと、思い切り吸った息が、全身に行き渡っていくようだった。
「ごめん!」
ケイシは、大声を出した。精いっぱいの想いをその言葉に込めて、空に向かって叫んでいた。ハルトは、リフティングしていたボールを、足元に落とす。そのまま、ボールを高く上げると、ゴールに向かって力強く蹴飛ばしていった。ボールがゴールネットに吸い込まれたのを確認すると、ハルトは振り返る。
「何のことだ?」
茶化すような顔をするハルトに、ケイシは笑みを浮かべるしかなかった。
「ひどいこと、沢山言っただろう」
「さぁ、覚えてないよ」
ハルトはそう返事をすると、ボールを拾い上げ、ケイシの頭を目掛けて転がした。頭の近くまで転がったボールに、ケイシは手を伸ばす。ボールを胸に抱きかかえると、ケイシはハルトに仕返しするように言った。
「お前が俺のことを羨ましがっていたなんて、知らなかったよ」
ケイシの言葉に、ハルトの顔色が変わる。
「おい、そんなこと……。誰から聞いたんだよ」
慌てたハルトを見て、ケイシはボールを抱えたまま、笑い転げていた。
「なぁ、俺たちもまぜろよ」
声のする方を振り向くと、そこには、ユウマとダイチが呆れているような、安心したような顔をして立っていた。
「あれ、お前たち何で?」
「まったく、いつになったら気付くのかと思ったら」
ダイチが、いつものように腕組みをしてふくれっ面をしていた。
「ランニングの帰りに、ちょうどここを通ったんた。そしたら、ハルトとケイシが見えたからさ」
ユウマが、優しく付け加える。
「また、ケンカでもしてるかと思ったぜ」
ダイチはそう言うと、倒れ込んでいるケイシに駆け寄り、腹をくすぐり出した。
「あははっ。やめてくれよ」
「そうだ!」
突然、ダイチが思いついたように叫び出した。その顔は、悪い顔をしている。
「ケイシ、ハルト!勝負しろ!」
ダイチに応戦するようにユウマも続ける。
「俺ら二人に勝てると思うなよ」
ユウマもケイシのボールを奪うと、指をさして挑発してきた。
「いくぞ!」
ダイチの掛け声に、ユウマは了解と、合図を送った。ケイシも起き上がると、ハルトと目を合わせた。ハルトの瞳は、捨て猫なんかじゃない。幼い頃と変わらない、真っ直ぐな瞳に変わっていた。
「負けるもんか!」
そう叫ぶと、グラウンドの中央へ走り出す。ダイチがボールをセンターマークにセットすると、ケイシが来るのを待たずに、ユウマにパスを出した。
「あ、汚ねぇぞ」
ダイチは、お構いなしだ、とばかりに駆け出していく。パスを受けたユウマは、ハルトと一対一の勝負に挑んでいた。真正面から突破しようとして、ユウマはハルトの動きを見て左に体を倒した。上手くかわして前に進もうとしたところで、ハルトの長い足がユウマのボールを奪っていく。
「待て!」
悔しそうな表情のユウマが、すぐにハルトを追いかけていく。
「ケイシ!」
抜け出したハルトのパスに、ケイシは全力でボールを追いかけた。ダイチもユウマも、負けまいと後を追ってくる。ボールに足をかけると、やっとの思いで追いついたダイチがスライディングをかけた。それをなんとかかわすと、ケイシは、そのままコーナーまで一気に駆け上がっていった。ハルトが両手を広げて呼んでいる。俺に任せろ、そう言っているような気がした。ユウマが、そうはさせないと、ハルトを抑えるために体を一気に寄せていく。
「ハルト!」
追いかけてくるダイチのディフェンスをかわし、体勢を崩しながら蹴り上げたボールは、綺麗な放物線を描いてハルト目掛けて飛んでいく。あの時と同じように、ハルトは、高く、高く飛んだ。
「いけ!」
ケイシの声が、ボールに込められていく。真っ直ぐ、そのまま真っ直ぐ飛んで行けと、ケイシは願っていた。
わずかの差でユウマに競り勝ったハルトのヘディングシュートが、勢いよくゴールネットを揺らしていく。
「ゴール!」
ハルトは、子どものようにはしゃぎまわる。胸に拳をあてて、空を指さすと、グラウンド中を駆け回っていた。幼い頃にやっていたケイシのパフォーマンスを、ハルトは覚えていた。ケイシも同じく、胸に拳をあてて、空を指差す。ケイシに駆け寄ってきたハルトは、喜びを全身で表現しているようだった。
「俺がやった方が、かっこいいだろう」
得意気に笑うハルトの顔は、憎らしいくらい無邪気だった。
「うるせぇよ」
その日は、遅くまでボールを追いかけた。あの頃のように、ただ思う存分ボールだけを追いかけていた。
「ぷふぁ」
ケイシは今日も、プールの中だ。プールは相変わらず貸し切りで、杉山は管理室に座り込んでこちらを眺めている。ハルトはいつも通りサッカーに夢中で、ユウマは変わらず優等生だ。ダイチも決まって、ちょっかいを出してくる。地区予選は、もうすぐそこまで迫っていた。
「そこ、どいてくれない?」
振り返ると、目の前にはユイがいた。ケイシは慌ててコースを譲った。
「ごめん」
ユイは、また、綺麗なフォームで飛び込んでいった。水しぶきが上がると、ユイは一気に50メートルを泳ぎ切る。ユイは、水面から顔を出すと、満足したのか何も言わずプールサイドへと上がっていった。
「あの!」
ケイシは咄嗟に、ユイを呼び止めた。ユイは、不思議そうな顔をして立ち止まる。
「今度の試合、見にきてよ。きっとハルトも、また、活躍すると思うからさ」
出てきた言葉が、こんな言葉かとケイシは慌てていた。
「そうね。次は、あなたの応援に」
ユイは、そう言うと微笑んで、更衣室へと去っていった。
ケイシは、ユイの言葉に全身の力が抜けていくようだった。倒れ込むように水面に浮かぶと、天井は、いつもと変わらず古びていて、電球は切れかかったままだった。
杉山が、ケイシを覗き込む。
「おい、小僧、もう閉館だ」
ケイシはまた、一度深く潜って、浮き上がった。
「がんばれ!」
観客達の大きな声援が、グランド中から聞こえていた。
「俺たち、負けないよ」
差し出されたマコトの手を、ハルトがしっかりと握り返していた。
「あいにく、こっちも負けられないんでね」
「それでは、地区大会決勝戦をはじめます」
「いくぞ!」
ユウマの掛け声に、ダイチも大きく声を出した。
「下手なクロス上げるなよ。まぁ、俺なら決めてやるけどな」
「何言ってんだか」
「絶対に勝つぞ」
「当たり前だ」
ケイシは、ハルトとハイタッチをしてピッチへ駆け出す。会場には、手を振る父と母の姿が見えた。そして、その奥には、ユイがいた。
ケイシは、靴紐を結びなおすと、目を瞑って深呼吸する。
「やれるか?」
「あぁ、やれるさ」
心の中で自分に返事をすると、目を開けた。
審判が、試合開始のホイッスルを鳴らす。会場からは、大きな声援が飛んだ。
クロスボール 利由冴和花 @riyusae
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