第28話 虹
「もう一人、会わせたい人がいるんだ」
南稜高校を出て、駅に向かおうと歩き出したケイシをユウマが呼び止める。ユウマの視線を追うように振り返ると、車椅子に乗った人影が、少しずつ近づいてくるのが見えた。キャップを被った少年は、ゆっくりと車椅子を進めてくる。
「あれは、もしかしてマコト?」
確かめるように横を見ると、ユウマはしっかりと頷いた。
「そうだ」
マコトの通う東谷川中学は、この辺りにあるが、ユウマが連絡を取り合っていたとは知らなかった。
「たまたま、俺がハルトをつけた日にここで会ってさ。色々な話をしているうちに、仲良くなったんだ」
あの試合の日、ユウマはマコトが"チームの頭脳だ"と言った。マコトのことをよく知っていたからこそ、言えたのだろう。
ユウマが手を振ると、マコトも気が付き、手を振り返した。駆け寄るユウマの後を、ケイシも追った。
「久しぶり。今日は、ケイシも連れてきたんだ」
マコトは、ケイシの方に車椅子ごと体を向けた。ケイシの顔をじっと見つめると、試合の時のようなクールな表情ではなく、にっこりと笑顔を見せた。
「また会えて嬉しいよ」
差し出された手を、ケイシは戸惑いながらも、しっかりと握りしめた。マコトも、力を入れ直すようにして握り返してくる。
「ここ、僕が小さいころからずっと憧れていた高校なんだ」
校舎全体を見上げるマコトの瞳は、小さな子どもがヒーローを見ているかのようにキラキラとしていた。この付近に住むサッカー少年は、一度は皆、南稜高校のサッカー部に憧れを抱く。それは、ケイシも同じだった。
「たまにね、前に進めなくなりそうになることがある。そんな時は、ここに来ることにしているんだ」
マコトはそう言うと、校舎の周りを右回りに進んでいく。ケイシが、マコトの車椅子を押そうと手を伸ばすと、ユウマが首を横に振った。マコトは、それに気がつくと、「ありがとう。自分出来ることは自分でやるようにしてるんだ」と、言った。
「事故にあって、サッカーからは、随分と離れていたんだけど」
テニスコートを通りすぎると、グラウンドの奥がよく見えた。奥では、ハルトが、また、部員たちと一緒にランニングをはじめていた。表情は険しく、とても苦しそうだった。三坂中学では見られない姿に、ケイシの心は揺れていた。
「ここにきて、ハルトの姿を見て驚いたんだ。まさか、あのハルトが、ここまで来てるとは思ってもみなかったからさ。ここの部員、何人いると思う?」
マコトの問いかけに、ユウマもクイズを楽しむような表情をした。
「ざっと、200人だ」
「そんなに?」
ランニングをしている部員の他に、グラウンドの端では、多くの部員が筋トレやボール磨きを行っていた。これだけ多くの部員がいるのならば、ろくにボールも触らせてもらえない者もいるだろう。どの部員も皆、自分の与えられた練習や、役割に一生懸命に見えた。腐ったらそれで終わり。きっと、この部を去るしかない。
「強豪チームになると、それくらいはいるもんなんだ」
唖然とするケイシに、ユウマが付け加えるように言った。
「ハルトを見てたらさ、自分も何かしないといられなくなった。正直、ハルトを見つけた時は、とても悔しい気持ちで一杯だったんだけど……。何度も通っているうちにそんな気持ちよりも、また、サッカーをやりたいって、そう思う気持ちの方が強くなったんだ」
休憩の合図が出された。ハルトは、グラウンドの端に倒れこむようにして座り込むと、ペットボトルに手を伸ばした。部員たちの中で、ハルトに声をかける者はいない。楽しそうに談笑する部員とは違い、ハルトは少し孤立しているようにも見えた。
「僕は、ここを受けるつもりでいる」
「え?」
マコトは、はっきりと言い切った。目標を口に出したマコトの瞳は、まったく迷いがない。
「一般入試になるけど、ここにいたくて。そして、必ずサッカー部に入るよ」
ユウマも、横で深く頷いていた。
「だから、僕は次の試合でハルトに勝たないといけないんだ。ここに入ったら、ハルトと同じチームになるだろう?そうなる前に、僕は、ハルトに勝ちたいんだ」
マコトは、マネージャーとして南稜高校を支えたいと話した。その力強い眼差しを見つめていると、掲げる目標がすぐにでも叶うように思えていた。
「次の試合は、絶対に勝つ。そうハルトに伝えておいて」
そう言うと、マコトは、また握手を求めた。差し出された右手を、ケイシは握りしめる。
「俺たちも、負けないからな」
ユウマが、応戦するように言葉をかけると、マコトは、また、にっこりと笑った。
帰りの電車の中では、久しぶりにユウマと笑いあっていた。会話は途切れない。部活のこと、ハルトのこと、以前のことを思い出しては、わけもなく笑っていた。
窓の外は晴れていたはずなのに、いつの間にかどしゃぶりの雨が降りだしていた。
「すごい雨だね」
「そうだな」
遠くの空は、雲の切れ間から晴れた空が見えて光が差し込んでいる。
「降りるまでに止むといいね」
「きっと、通り雨さ」
窓に打ち付けられる雨の音は、まるでケイシの心の中を、一気に洗い流していくようだった。それほど、ケイシの心は軽くなっていった。
「今日は、ありがとう」
「誘ったのは俺だから。俺も、ケイシと一緒にハルトを見たかったんだ」
ユウマの優しさに、ケイシは少しずつ心が満たされていくような感覚になっていった。
「自分自身を信じることが、多分、一番大切なんだろうな。ハルトを見てたら、そう思うよ。自分を信じられないことがきっと一番苦しさを生み出しているのかもしれない。誰も味方がいないなら、せめて自分くらいは自分を好きでいないとね」
「そうだね」
ハルトもユウマもマコトも、皆、自分と戦いながらもがいている。ユウマの言葉に、ケイシの中の何かが弾けたような気がした。
電車を降りると、雨はもう上がっていた。
「やっぱり通り雨だったようだね、ほら、あそこ。虹だ」
ユウマの指差す方に、顔を向けると、空にはうっすらと虹が見えた。
「それじゃ、ここで」
「うん、ありがとう」
ユウマと別れて、家へ向かう途中、虹の方向が変わっているのに気がついた。方向は違えど、さっきより距離は近づいたようにも思えた。ケイシの悩みも見方を変えれば、きっと答えも変わってくるのかもしれない。ケイシは、虹を掴むようにして手を伸ばした。今にも掴めそうになり、手を閉じてみる。手の平を広げると、そこにはまだ、虹が見えた。ケイシは、また手を閉じると、目を瞑り、心の中に虹をしまいこんだ。
まずは、父に話をしよう。ケイシは、父との約束を思い出していた。今伝えられることがあるはずだ。ケイシは、弾けて軽くなった心に呼び掛けるように、深呼吸した。
家に帰ると、ケイシは真っすぐ診療所に向かった。上手く伝えられる自信はない。だけど、今の気持ちを素直に伝えたかった。
「なぁ、親父」
「なんだ?」
父は、振り返ることもなく、診療台の犬と格闘していた。
「俺、サッカー続けたい」
父は、何も言わず治療を続けている。
「まだ、ちゃんと向き合ってないんだ。俺、今やっと、ちょっとだけ見えた様な、そんな気がするんだ。だから、もうちょっとだけ時間をくれないか。ちゃんと考えるから」
ケイシは、父に頭を下げた。こんな風にしっかりと頭を下げたことなんて、きっと初めてだろう。父が、深い溜息をついた。
「まったく、お前はいつも、中途半端な答えしかだせねぇな。一体誰に似たんだか」
「うるせぇ」
父は、ケイシの目をじっと見つめた。
「やるなら、徹底的にやれ」
そういうと、父が少しだけ笑ったようにも見えた。
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