第17話 天井
水面から顔を出すと、いつもと変わらない天井があった。星蘭中学の補講も終わり、プールはいつもの静かな空間に戻っていた。敗北感。ケイシは、レギュラーに選ばれなかった現実を飲み込むように、大きく息を吸い込んでいた。
「そこ、どいてくれない?」
プールに浮かぶケイシの顔を覗き込んだのは、杉山ではなく、ユイだった。
「あ、ごめん」
突然、現れたユイの姿に、ケイシは動揺する気持ちを押さえるのに必死だった。真っ直ぐな視線から目を逸らしてコースを譲ると、ユイは、勢いよく水の中に飛び込んでいった。水しぶきが、ケイシの顔を濡らしていく。ユイは、そのまま勢いを止めることなく、25メートルを一気に泳ぎきろうとしていた。ユイが水面から顔を出す前に、ケイシは、慌てて深く潜って足蹴りをする。むしゃくしゃする気持ちを掻き消すかのように、勢いよく飛び出した。動かしても動かしても、なかなか前に進まない。体は重く、ケイシの気持ちと一緒に沈んでしまいそうだった。
プールサイドに手をかけ、水面から顔を出すと、横には真っ直ぐと揺れる水面を見つめるユイの横顔があった。肌は白く、長い睫からは瞬きをするたびに滴が一つ一つ、零れ落ちていった。ケイシは、それを心の中で数えるようにして、速い鼓動を落ち着かせようとしていた。
「この間は、ありがとう」
予想していなかったその言葉に、ケイシは小さく頷くことしか出来なかった。
「制服、ダメになっちゃった」
真っ直ぐ水面を見つめたままのユイは、どこか寂しそうに、そう、ポツリと呟いた。水面が揺れる度に、プールサイドの溝に水がぶつかる音が聞こえていた。その音は、二人の沈黙を唯一無くしてくれるものだった。
「星蘭の制服も、きっと似合うと思うよ」
褒め言葉のつもりだ。星蘭高校のグレーのブレザーは、大人びたユイをもっと引き立てるに違いない。その言葉を聞いても、ユイの表情は変わらず、寂しげなままだ。多分、ユイも同じなのかもしれない。周りとのずれにもがいて、苦しんでいる。その表情は、今の自分と、どこか重なって見えた。自分をどうにか保とうとするユイの気持ちが、ケイシの心の中にどっと流れ込んでくるような気がしていた。
「グレーに染まったわけじゃない。そうだろう?」
自然と言葉が出た。声をかけずにはいられなかった。自分に語りかけたような気がして、心の中で小さな音がする。自分の足で立っているのだということを確認したかった。揺さぶれる感情に飲み込まれたくはない。ケイシも、必死に溺れそうな感情を救い出そうとしていた。
ケイシの言葉を聞くと、ユイはようやく顔を上げ、言葉を噛み締めるように返事をすた。
「そうね」
しばらく、その横顔を見つめていると、ユイの表情は、次第にいつもと変わらない凛としたものになっていった。
「おい、もうすぐ閉めるぞ」
管理室から、杉山が顔を出し、手を振って、ケイシに向かって合図を送ってきた。ケイシは、右手を軽く上げて、返事をする。
「片づけ、手伝ってくれないかな」
ケイシの誘いに、ユイは一瞬、目を丸くしていたが、すぐににっこりと笑って頷いた。
プールサイドの壁には、貸し出し用のビート板がずらりと並んでいる。上下逆に並べられたビート板を、端から丁寧に入れなおす。ユイも、杉山の合図に答えるように、ケイシがいる場所の反対側から一つずつ確認し始めた。ビート板同志があたって、キュッキュと音をたてる。リズミカルに聞こえる音は、なんだかケイシの心を和ませていくようだった。真ん中あたりでユイとぶつかると、棚全体にスプレーを吹きかける。消毒液の香りが、ケイシの周りを囲んでいった。思わず表情を歪める。すると、ユイがケイシの手からスプレーを取り、代わりに消毒を始めた。
「ありがとう」
ケイシは、この作業が何度やっても好きになれないでいた。この時だけ、診療所の父の顔が浮かんでしまう。何だか一気に現実に戻されたような感じがする。
「ほらよ」
着替えを済ませると、受付から杉山が手招きをした。手には、2本のオレンジジュースを持っていた。
「これ、ユイちゃんの分もだ」
杉山からオレンジジュース受けとると、ケイシは、女子更衣室のドアの前を覗きこんだ。更衣室の小窓から、荷物をまとめるような人影がチラチラと映し出されている。背を向け立って、しばらくすると、更衣室のドアが開いた。振り替えると、星蘭中学の制服を着たユイが出てきた。
「何、ぼーっとしてんだ」
杉山から背中を押され、ケイシはハッとする。想像していた以上に、星蘭中学の制服に袖を通したユイは、綺麗だった。
ユイは、半乾きの髪が気になるのか、何度か髪に手をやると、杉山に頭を下げて出口へと歩いていった。
「後は、俺が閉めるから。ほら、帰った、帰った」
追い立てるように、杉山がケイシの背中を押した。戸惑いながら、振り向くと、杉山はポンっと背中を強く押した。
小走りをして、前を歩くユイに追い付く。ユイの隣に並んぶと、歩幅を合わせるように歩きだす。ジュースを、そっと横に差し出す。ユイは瞬きを2回すると、微笑んで受け取った。
駐輪場から自転車を出すまで、ユイは入口の門で立ち止まって待っていた。ケイシは、そんなユイの行動に、高鳴る胸を抑えながら鍵を回そうとして慌ててしまい、手から鍵が零れ落ちた。拾い上げると、深呼吸をして急いで鍵を回した。自転車を押し出すと、タイヤからは、カラカラと音が聞こえた。
隣に並ぶユイの横顔は、また、どこか浮かない表情に変わっている。
「こっちに来たらね、何か変わるかなって思ってたんだけど」
公園にさしかかるところで、ユイがポツリと話し始めた。
「結局、状況は何も変わらなかった」
見下ろすと、三坂中学のグラウンドには、灯りが見えた。ボールを追いかけているのは、ハルトしかいない。ユイは、ハルトの姿を確認するように、足を止めた。風が、ユイの髪を揺らしていく。
「強くなるのって、難しい」
ユイの呟いた言葉が、蓋をした気持ちをこじ開けようとしていた。あの日、なぜユイは、ハルトに手を引かれていたのか。ハルトとは、いつから知り合いだったのか。頭の中で、何度も同じ質問が繰り返されているのに、ケイシは、それを飲み込むしか出来ないでいた。
「新人戦、勝てるといいね」
ユイの瞳は、ハルトの勝利を信じきっているかのようだった。ケイシの心の中は揺れ、気持ちが一気にこみ上げていった。
「ハルト、レギュラーから外されたんだ」
出てきた言葉は、情けないものだ。ユイが見つめるハルトから、少しでも輝きが消えてしまえばいいと思っていた。
「そう」
ユイは、表情一つ変えることなく、小さく返事をした。ハルトを信じきっている。ユイには、きっと今の自分の言葉は届かない。ユイの横顔を見つめながら、手の平をぎゅっと握りしめていた。ハルトが憎い。気持ちが溢れだしそうで、握りしめた手の力を抜いた。
グランドのハルトは、照らされた光の中で、一人、ボールに囲まれている。ただ、真っ直ぐにゴールに向かう姿は、いつもの強いハルトそのものだった。
ユイを見送ると、ケイシは座り込んで空を見上げた。雲一つない夜空には、星があちこちに輝いている。大きな世界に取り残されている自分は、なんてちっぽけな存在なんだろう。ケイシは押し潰されそうな気持ちに声を出した。
「くそ!」
何もかも、上手くいかない。ほんの少し、何かがズレていくような感じがする。カチッとはまってはくれない歯車が、空回りしてケイシの心を壊していくようだった。
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