第15話 手のひら
「これ、預かってくれないか」
差し出したユイの制服を見て、受付から顔を出した杉山は、眉をひそめた。
「あの子らか?」
視線の先には、あの3人組の女子生徒が楽しそうにプールサイドで笑っている。きっと、もうユイのことなど忘れているのだろう。その姿を見ると、ケイシは問い詰める気力も失っていた。
「こりゃ、ひでぇな」
セーラー服を広げると、何か所もナイフのようなもので切り刻まれた跡があった。
「よくもまぁ、こんなことするもんだ」
なぜ、ハルトはあの場所にいたのだろうか。ケイシは、杉山の話に耳を傾ける余裕もなく、頭の中で何度も手を引かれるユイの姿を思い出していた。
「とりあえず、小僧。風邪をひくから、これで頭を拭くんだ」
杉山は、管理室の奥から白いタオルを取り出すと、ケイシの頭にゆっくりと被せた。滴が、頬に流れていく。ケイシは、それを呆然と拭いた。
「これは、俺から学校に返しておくよ」
制服を丁寧にたたんだ杉山は、大きく息を吸い込んだ。ケイシは、ゆっくりと頷くとタオルを握りしめて、入口へと向かった。
「おい、気を付けて帰れよ」
杉山の声は、優しかった。
空を見上げると、外はまだ雨が降り注いでいた。躊躇せず、駆け出して駐輪場に向かうと、雨が全身に降り注いできた。雨音で全てをかき消して欲しい。ケイシは、自転車の鍵を外すと、無我夢中でこぎ始めた。
家が近くなる頃には、雨は小降りになっていた。玄関を開けると、母は驚いた表情をして、そのままケイシを、風呂場へと連行した。
シャワーの温度は、いつもより熱く感じ、体の周りを白い湯気が覆っていく。
バスタブに浸かると、また、ケイシの頭の中は、ユイとハルトでいっぱいになった。ユイは、以前からハルトのことを知っていたというのか。二人は、一体どこで知り合ったのだろう。
―三島ハルトって人、いるんでしょ。性格が悪くてわがままで、調子にのってて。自分が一番で、誰よりも上手いって勘違いしてる。私が一番嫌いなタイプよ―
あの日のユイの言葉は、ハルトのことをよく知っているような口ぶりだった。ケイシは、二人が知り合いだったという事実に、気付きもしなかったことに呆れていた。きっと、随分前から、ユイはハルトのことを知っていたのだ。
「ハルトくんはどう?」
風呂から上がると、母は濡れた制服をドライヤーで乾かしていた。
「お母さんの容体も、心配ね」
そのまま空気も読まずにハルトの心配ばかりする母に、ケイシはろくに返事をしなかった。そんなケイシに苛立ったのか、母は「風邪ひくわよ。早く寝なさい」と、言って部屋を出ていった。
次の日、ケイシは、ベッドの中からなかなか起き上がることが出来ないでいた。しびれを切らした母から布団をはがされると、「少しだけ熱っぽい気がする」と、訴えてみたが、差し出された体温計には36度5分という平熱を示していた。
ずる休みをする理由を探しているうちに、ケイシは叩き起こされ、テーブルの前には朝ごはんが並べられた。口にしようと箸に手を伸ばした時に、時間だからとおにぎりを渡され、玄関へ背中を押された。自転車をこぐ足は重く、頭痛がした。
教室に着くと、朝の練習に来なかったケイシを心配して、隣の教室からユウマが声をかけにきた。
「ごめん」
「いや、謝ることはないよ」
ユウマは、何かあったのだろうと察したのか、特にそれ以上、訳を聞くことをしなかった。
「あ、何で朝練来ないんだよ!サボりか」
ケイシを見つけると、ダイチはドタドタとすぐに近づいてきた。
「ちげぇよ。ちょっと熱があって……」
思わず嘘をついてしまった。ユウマが真に受けて、「今日の部活は、休んだほうがいいんじゃないか」と、言葉をかけた。心配するユウマとは、目を合わせることができず、ケイシは、「大丈夫だよ」と、返事をした。
チャイムが鳴ると、ユウマは隣の教室へと戻っていく。
「あれ、ハルトは?」
見渡す限り、姿が見えない。
「そういえば、今朝は見かけてないな」
教室に入ってきた担任を見つけると、ダイチはすぐに手を挙げた。
「先生!ハルトは?」
「今日は、休みだ」
「え?何で」
「家庭の事情だ。ほら、さっさと座って。始めるぞ」
ハルトが学校を休むなんて、母親の容体がそれだけ悪いということなのだろうか。ケイシは、ハルトの心配よりも、顔を合わせなくてよかったことに少しだけほっとしていた。どんな顔をすればいいのだろう。ケイシの姿は、ハルトには気が付かれていないだろう。手をひかれたユイは、手を頬に添え、泣いていた様にも見えた。自分が知らないユイの顔があって、ハルトはきっとそれを知っている。ケイシの心の中は、怒りにも似た感情が渦巻いていた。
部活の終わり、坂田から「明日は、紅白戦を行う」と、伝えられた。
500メートルを毎日泳ぐという目標は、昨日で途切れてしまった。それすら達成できない自分が惨めで、真剣な眼差しをしてプレーしているチームメイトとの温度差に、ケイシは焦りを覚えていた。
「なぁ、ダイチ。今日一緒に走ってもいいかな」
ダイチは、びっくりした表情をしたが、「すぐに遅れるなよ」と、肩を叩いてきた。プールに行けば、ユイに会ってしまうかもしれない。会いたい気持ちと、会いたくない気持ちで、ケイシは壊れてしまいそうだった。
待ち合わせ場所は、プールから少し先にあるバス停になった。プールの駐輪場に自転車を置いて歩き出すと、街灯の下には、もうダイチの姿が見えた。
「遅いぞ!」
そう声をかけると、ダイチはケイシが来るのを待たずに、先に走り出していた。急いで追いかける。ダイチは、隣にケイシが並んだのを確認して、徐々にスピードを上げていく。
「いつもと同じコースでいいか」
指をさす方向には、ハルトがいるグラウンドだ。ケイシは頷いた。
「よし!」
昨日の雨が嘘のように、昼間は晴れていた。夜になって、空には少しだけ雲がかかっている。星は、雲の間に少しだけ見えては、消えていく。
隣でダイチは、時計でタイムを何度も確認していた。
「記録しているの?」
「一応ね」
茶化そうとして、ケイシは止めることにした。ダイチが、思ったよりも真剣な表情をしていたからだ。
長い坂道を登り終えたところで、グラウンドの灯りが見えた。ハルトはいるのだろうか。半歩、遅れをとりはじめたケイシを見かねたのか、グランドの入り口に着くと、ダイチは足を止めた。
「休憩するか?」
グラウンドには、ハルトはいなかった。息を切らして地べたに腰を下ろすと、ダイチも隣に座った。
「ハルトのやつ、いないな」
ダイチも不思議がっている。
「ここを通るとさ、俺も頑張らないとなぁって、そう思うんだよな」
ハルトに言われた時の気持ちを思い出すために、ダイチはこのルートで走っているという。
「俺は弱いから、すぐ忘れちゃうんだよ。でも、忘れたらなんだか、もう前に進めなくなりそうでさ」
ダイチはしっかりと自分と向き合っている。話す言葉が力強く聞こえるのは、続けてきた自信があるからだろう。
「レギュラー、一緒に取るぞ」
そう言うと、ダイチは立ちあがる。差し出されたダイチの手のひらは、ケイシの手を包んでしまうかのように大きく見えた。
ケイシは、その手を掴んで立ちあがる。
「行こう」
ダイチは、時計をセットすると、また走り出す。
空は、雲が消えていた。ケイシの心も、この空のように晴れることがあるのだろうか。ダイチの背中を追いながら、ケイシは止まりそうな足を、一歩ずつ前へ押し出していた。
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