第14話 雨
次の日も、ハルトは部活を休んでいた。
「ねぇ、知ってる?ハルト君のお母さん、体調崩して入院しているんだって」
家に帰ると、母が深刻な顔をしていた。
「ハルト君に会いたいって言ってるらしいわよ。母親の顔も知らないで育ったから、戸惑ってるだろうって、ハルト君のお父さんが。ケイシ、何か力になってあげなさいね」
そんなことは、知らなかった。ハルトの母親は、ハルトを産んですぐに家を出ていった。ケイシの記憶にあるハルトは、もう父親と二人のハルトだ。母親のことは、よく知らない。小学生になると、片親のハルトに向かって浮気じゃないかとからかう同級生もいたが、どうもそうじゃないらしいことは、ケイシもなんとなく感じていた。ハルトを産んですぐ、心身のバランスを崩したのだと母から聞かされたのは、ケイシが中学に入学してしばらくたった頃だ。その事を、ハルトと話したことは一度もない。
ケイシは、食べかけたご飯をそのままにして、玄関へと向かった。
「また、プールか」
父の声がした。母が、診療所に向かい、小言をいう父に何か話していた。そんなことをする母は珍しかった。靴のかかとを整えてドアを開けると、「あまり遅くなるなよ」と、父の声が聞こえた。
自転車で向かうのは、プールではなくグラウンドだ。きっと、ハルトはそこにいる。ケイシは、自転車のスピードを上げていた。
勢いよく学校までの坂道を上ると、灯りのついたグラウンドが見えた。ケイシは自転車のブレーキをかけて止まる。そこには、いつものように一人でボールを追いかけているハルトがいた。
「ハルト!」
ケイシの声に、ハルトは振り返らない。そういうヤツだとわかっているが、悲しくなった。自転車を止めて、ハルトに近づく。
「何で言わないんだよ」
ハルトは、転がったボールを手に取ると、まだケイシの顔を見ようとはしなかった。
「母親のこと、どうして」
ハルトは、黙ってリフティングを始めた。調子が上がらないのは、きっとそのことがあったからだ。しかし、ハルトはきっと認めないだろう。
「会いに行ったのか」
「行ってない」
「行かないのか」
「さぁ、分からない」
そう呟いたハルトは、リフティングしていたボールをゆっくりと足の先に乗せると、少しだけボールを浮かせ、そのままシュートを放った。そのボールは、ゴールから大きく右にそれて転がっていく。ハルトは、悔しそうに空を見上げていた。
ボールを拾いに向かう後ろ姿は、グラウンドで見る強気なハルトではない。その後も、ハルトは何も話そうとはしなかった。
ボールをゴール前にセットすると、ハルトはサッカーに集中するように、一歩ずつ後ろに下がって間合いをとっていく。ケイシは、そんなハルトの態度に、納得がいかなかった。ハルトが走り込もうとしたその時、ケイシは後ろから勢いよく走り出して、そのボールを先に蹴りあげた。ボールは大きくバーを越えていく。
「下手くそ」
ハルトに促され、ケイシはボールを拾いに走った。ここでゴールを決められないのが、自分だと思うと、なんだか笑いが込み上げてきた。
「何、笑ってんだよ」
「いいだろう。俺だって笑いたい時だってある」
ボールをパスすると、ハルトは気だるそうにドリブルをして、右下にゴールを決めた。ここで決めるのが、ハルトだ。ケイシは、笑い転げていた。
「本当にお前は、サッカーバカだな」
ハルトは少しムッとしたのか、ボールを拾い上げると片付けを始めた。
「また、俺ん家来いよ」
ハルトは、右手を上げて帰っていった。
「じゃ、練習の最後に、今日はランニングだ。始め!」
坂田の声を合図にして、一斉に走り出す。ハルトとユウマは、また二人だけ先に抜け出していた。ハルトは、昨日の姿が嘘のように、強気な表情をしていた。ケイシも負けまいと、後を追いかける。その横を、歯を食いしばり、走り抜けるダイチがいた。ユウマのすぐ後ろまで、ダイチは迫って行く。ダイチは真剣な眼差しで、真っすぐ前を向いて、無我夢中で走っている。その姿は、どこか吹っ切れた様子だった。ケイシも、後を追いかける。置いていかないでくれ、ケイシは心の中で必死に叫んでいた。
ダイチの背中は、いくら手を振っても、足を前に出しても近づくことは出来ない。ここまでか。ダイチがゴールしようとした時、少し力を抜いた自分がいた。
「ダイチが3位!」
ランニングは、ダイチがユウマのすぐ後ろをキープしたままゴールした。頑張りを讃えるように、ユウマがダイチに近づき、ハイタッチをした。坂田も、満足そうな表情でダイチの背中を叩いている。
ケイシは、辛うじて追走の10名には入らなかった。「以前より早くなったな」と、ユウマが声をかけてきたが、ダイチの成長のスピードには追い付いていない。ユウマのハイタッチに、息を切らしながら投げやりに応じた。
雨音が建物全体を覆ていくかのようだった。昼から降りだした雨は、一向に止む気配はない。
「今日も補講あってるぞ」
窓に降り注ぐ雨を見つめいていると、杉山が受付から顔を出した。プールでは、星蘭中学の男子生徒達の泳ぐ姿が見えていた。
杉山から鍵を受け取ると、ケイシは更衣室には行かず、そのまま2階へと向かった。2階には、プール全体を見渡せる観覧席が設けられている。ドアを開けると、そこには誰もいなかった。プールでは男子生徒が次々に力強い泳ぎをしている。
根性がないと思っていたダイチよりも、今の自分は、きっと根性がない。前に進めないのは、もう自分だけなのかもしれない。隣にいたはずのダイチは、多分、ずっと先にいる。星蘭中学の生徒が、プールから上がるのを確認して、ケイシは立ち上がる。
1階に降りていく途中で、階段の下から、女子生徒の言い争う声が聞こえてきた。
「返して」
「私らがやった証拠でもあるの?」
囲まれているのは、ユイだ。その姿は、体操服の上着にスカート、明らかに何かおかしいことはすぐにわかった。
「おい!」
ケイシの声に、女子生徒達は一瞬ひるんだようにみえた。ユイはそのまま、ケイシの前を走り去っていく。
「何してたんだよ」
制服を隠されたのだと気が付き、ケイシが問いただす。
「何もしてないって」
3人組の女子生徒は、この間入り口ですれ違った顔だ。
「どこにあるんだ」
ケイシの声に、女子生徒達は後ずさりした。
「さっさと言えよ!」
一人が、思わず視線を落とした。その先には、自動販売機がある。ケイシは、急いで自動販売機の横に設置されているごみ箱の蓋を開けた。そこには、ブルーのセーラー服の上着が切り刻まれて捨てられていた。
「何で、こんなこと……」
「うちらがやったって証拠でもあるの?」
ケイシは、女子生徒を睨み付けた。女子生徒たちは悪びれた様子もなく、笑っている。
セーラー服を手に取ると、ケイシは、すぐにユイの後を追った。受付を走り抜けたとき、杉山から呼ばれたような気がした。
次こそは、自分の気持ちを伝えよう、正直に思ったことをそのまま。自分に何ができるかはわからない、だけど、力になりたいと、そう思っていた。
建物の外に出ると、雨の勢いは止まらず、あっという間に、ケイシはずぶぬれになっていた。建物を右に曲がった時、ユイの姿が一瞬だけ見えたような気がした。
ケイシは声をかけようとして、立ち止まる。
そこには、手を引かれて歩いている少女がいた。それは、ケイシと同じ、サッカー部の青いジャージを肩から羽織ったユイだった。手を引く相手に驚きを隠せない。ずぶ濡れになりながら俯くユイの手を引き、歩いていくのは、紛れもなくハルトだった。
ケイシは、二人を、ただ呆然と見つめるしかなかった。
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