第12話 サンダル
家に帰ると、父が珍しくリビングにいた。ケイシの帰りを待っていたようで、椅子に座っている後ろ姿からは、いつもとは違う空気が伝わってきた。
「帰ったか」
「うん」
予感は的中したようで、父はすぐに立ち上がると、テーブルの上にケイシが捨てたはずのパンフレットを、ゆっくりと並べていった。ゴミ箱から拾ったのだろう。父は、その事について、何も問いただそうとはしなかった。
「近場の塾だ。目を通しておけ」
どのパンフレットにも、開始時刻は部活と同じ時間帯が記されている。それは、部活を辞めて塾に通うようにという、父からのメッセージだということに、ケイシは気が付いていた。
「俺、行かないよ」
小さな反抗だった。絞り出した言葉に、父の表情が歪んだように見えた。
「サッカーが好きなのか?」
父は、諭すような口調で語りかける。ケイシの視線は思わず左右に揺れた。その問いかけには、まだ答えが見つからない。
「……分からない」
父が大きなため息をついた。
「なんだ、その答えは」
何か答えようとして探したが、ケイシは言葉に詰まっていた。ハルトの様に好きだと言える自信は、今のケイシにはなかった。
「そんな風だったらな、続けても無駄だよ。中途半端にやるぐらいなら、辞めてしまえ」
父の言葉に、ケイシは俯くしかなかった。
「今度の試合までだ。それまでに結論を出せ」
そういうと父は立ち上がり、診療所に戻って行った。父の期待が重くのしかかってきたように思えた。きっと父は、こんな自分に呆れている。ケイシは、情けなさと悔しさでいっぱいになっていた。
次の日、ケイシは早めに家を出た。昨日は、あまり眠れなかった。朝から父と顔を合わせれば、当然、気まずい雰囲気になるだろう。それは避けたかった。
少しでも早くグラウンドに着けば、何か見つかるような気がして、ケイシは自転車を飛ばしていた。
「あっ」
グラウンドに着くと、一足先にユウマがいた。
「おはよう」
振り向くと、後にはダイチもいる。
「言われっぱなしじゃ、悔しいだろ」
皆、考えは一緒だった。練習の約束をしたわけではないが、ユウマもダイチも、自然と足がグラウンドに向かったのだろう。自分達だってきっとやれる、そう言い聞かせるように、ボールを追いかけることにした。
「ハルト、おはよう」
ハルトを見かけると、ユウマがすぐに声をかけた。ハルトは何も言わず、教室の方に向かっていく。
「何だよ、あいつ」
「ほら、ダイチ、練習するぞ」
ふてくされているダイチに、ユウマがパスを送った。ハルトは、こんな自分達のことをバカにするかもしれない。それでも、何かせずにはいられなかった。
放課後、ハルトは部活を休んでいた。ダイチは、自分のせいかもしれないと口には出さないが、気にしているようで、少し落ち込んでいるようだった。坂田は、「関係ない」と言ったが、心のどこかでケイシも自分を責めていた。ハルトとは、必要以上にあまり口を聞いていない。
部活が始まると、捻挫で遅れをとった分、ケイシは1年生と一緒に筋トレからスタートしていた。グラウンドでは、ダイチが坂田にしごかれている。
「遅い!」
ユウマがパスを受け取ったと同時に、サイドから走り抜ける。そのタイミングがどうも合わず、何度も坂田の大声が響いていた。息を切らしたダイチは、一呼吸おくと大きく返事をして、坂田の練習に立ち向かっていた。
「来週、紅白戦をやる」
部活終わりに、坂田が言った。新人戦までは、1か月を切っている。この紅白戦で、レギュラーが決まる。誰もがそう理解していた。
「今日は以上だ」
「ありがとうございました」
坂田に頭を下げた後、ダイチは、ユウマを引き止めた。アドバイスをもらうダイチの真剣な瞳は、今までに見たことがなかった。
ダイチたちと別れた後、ケイシはその足でプールへと向かっていた。鞄には、水着も用意していた。
今日から500メートルを毎日泳ぎ切る。それを目標にすることにしていた。小さな目標でも、毎日コツコツとやれば夢が叶う。昨日の眠れない夜に読んだ、金メダリストの体操選手の本にそう書いてあった。ケイシは、それを実行しようとしていた。
誰にも言わないでおこうと思っていたが、杉山の顔を見た途端、今日から500メートルは泳ぐと、宣言することにした。そうしないと決心が揺らぎそうだったからだ。杉山は、ほほぅ、と何とも言えない笑みを浮かべている。
いつまで続くのか、そう言われているかのようで、苛立ちに似た感情が込み上げてきた。信用されていない。いや、自分が一番、自分を信用していないのかもしれない。この苛立ちは自分自身に向けられているものだと思うと、今はそれを認める余裕はなかった。
プールサイドに出ると、数人の学生らしき集団と出くわした。奥から教師だろうか、30代くらいのジャージ姿の女性が、早くシャワーを浴びて帰るようにせかしている。管理室から杉山が出てくると、何やら話し込んでいた。
プールには、一人で泳ぎ続ける女性が見えた。水面から顔が見えると、それがユイだと気づいた。ユイは、ゆっくりと手すりを使ってプールサイドに上がっていく。
「補講だとよ」
杉山が、声をかける。ユイに見とれてしまったケイシを、からかうような眼差しだ。ケイシは思わず、視線を外す。
「補講?」
「あぁ。体育の授業を休んだ分、まとめて泳がせるんだと。なかなか厳しいんだなぁ。学校のプールが補修工事で使えねぇんだってさ」
ユイは女性教師の前に立ち止まり、何やらサインをすると、頭を下げて更衣室へと出ていった。
「1週間くらいはここのプール使うらしいぞ。にぎやかになる」
杉山が、ケイシの背中をポンッと叩いた。ユイに会える日が増えて良かったな、と言われているようだった。
学生達がいなくなると、いつものプールになった。プールの水は、まだ少しだけ揺れている。ケイシは、ゆっくりと水面に顔を沈めた。水の音が耳元を覆っていく。心地よい音が、不定期なリズムを刻む。目を瞑り、口の中の息を小出しにするように吐き出していくと、また、新しいリズムになった。
顔をあげ、大きく息を吸い込む。勢いよく足蹴りをして前に進むと、水しぶきがたった。俺だって出来る。負けそうな気持ちに蓋をするように、ケイシはただがむしゃらに500メートルを泳ぎ切った。
更衣室のドアを開けると、管理室の前には長い髪が濡れ、タオルを肩に巻いたままのユイの姿が見えた。ケイシは驚き、一旦ドアを半分閉めた。
「杉山さん、ありがとう」
「あぁ、気を付けて帰るんだぞ。見つかったらすぐに連絡するから」
ユイは頷き、扉を開けて出ていく。その足元は、ぶかぶかの履き古されたサンダルだった。
「気づいたか?」
杉山が、目配せをした。
「ユイちゃん、いじめられてるかもしれないなぁ」
いじめ?凛とした印象をもっていたユイに限って、それはないだろうと否定しようとしたが、昼間に泳ぎに来ていたのはそういうことだったのかと、納得する自分もいた。
「嫌な世の中だよ、まったく」
杉山はそう言うと、プールの照明を落とした。
自転車を動かそうとしたとき、側溝に無造作に捨てられている茶色いローファーを見つけた。きっと、ユイの靴だろう。
ケイシは、確信した。ユイは一人で戦っている。大人びて見えたのは、どこか人を信じていない、警戒している目のせいかもしれない。
ケイシは、手を伸ばし、ローファーを拾い上げた。杉山は、また鍵をかけるのに手間取っている。大きな声で呼ぶと、杉山は振り返った。
持ち上げたローファーは、泥だらけだ。
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