第8話 恋
「随分、久しぶりじゃねぇか」
杉山が、ケイシを見つけるとからかうように笑った。
「この頃、練習が厳しいんだよ」
「そうか。それは良かった。若いうちはしっかりしごかれろ」
今日もプールには誰もいない。ケイシは一人プールに浮いた。
新人戦が近いというのに、どこか緊張感がないのは、自分だけなのだろうか。県大会の予選までは、まだ随分時間がある。その前の新人戦は、1勝くらい勝てればいい。そんな風に思っている自分がいた。
「ちょっと、そこ、どいてくれない?」
すらりと伸びた足が、突然、目に映りこんできた。ケイシは、慌ててプールに足をつく。目の前には、スクール水着を着た色白の女の子が立っていた。目鼻立ちがくっきりとしたその顔立ちに、ケイシは、つい見とれていた。
「そこ、泳ぐコースだから、いい?」
女の子が、コース分けしてあるポールの貼り紙を指さした。利用者が少ないせいか、ケイシはそんなことを気にしたことがなかった。
「あ、ごめん」
すぐに、隣のコースへと移動する。女の子は、ゴーグルをはめてプールサイドに手をかけた。飛び込み禁止だと知っているのだろうか。躊躇することなく、綺麗なフォームで飛び込んでいく。
「すげぇ……」
ケイシは、ただ、茫然とその姿を見つめていた。軽々と400メートルを泳ぎきると、満足したのか、女の子はさっとプールを出て行った。
「ね、アレ、誰?」
ケイシは、水着のまま、受付にいる杉山のところにいた。
「あ?何だ?」
杉山は、事務所のテレビに夢中で、ケイシの話に耳を貸そうとしなかった。
「だから、あの女の子!」
「あ?あぁ、あの子は……」
杉山が答えようとしたその時、更衣室のドアが開いた。
「うわぁ」
ケイシは、驚いて尻餅をついた。
青いセーラー服を着た女の子は、さっきよりも少し大人びて見えた。
「何びっくりしてんだよ」
杉山の笑い声に、女の子は怪訝そうな顔をしている。
「いやぁ、こいつが誰だ、誰だって言うもんでね」
「ちょと、じいさん!」
ケイシは、とにかく慌てていた。ここに人が来るのが珍しいからとか、同い年くらいの子かなぁと思ってとか、後に続ける言い訳を必死に頭の中で考えていた。
「永見ユイ」
女の子は、濡れた髪の毛をバスタオルで拭きながら、面倒臭そうにそう呟いた。
「え?」
「誰だって聞いたから答えたんだけど。じゃ、杉山さん、また来るわね」
そういうと、女の子はタオルを肩にかけたまま、外に出て行った。ケイシは、永見ユイという名前を、何度も頭の中にインプットしていた。
「なんだぁ、小僧」
杉山の顔がにやけている。ケイシはまた、急いでプールの中に戻ることにした。
家に帰ると、時計はもう11時を回っていた。診療所の電気は相変わらずついたままだった。
「今日は、やけに遅かったわね」
母は、急いで台所から仕舞った晩御飯をテーブルに並べた。
「今日は、いいや」
「珍しいわね。どうしたの?」
なんだか今日は、やけに食欲がわかなかった。胃の痛みは治まったはずなのに、どこかお腹が一杯だった。
「もうすぐテスト期間に入るだろう。ちゃんと勉強しろよ」
部屋に向かう途中、診療所から父の声が聞こえた。ケイシは、小さく頷いた。
その日から、どんなに練習がきつくても、なぜだか自然にプールに向かっていた。ただの気晴らしに通っているだけで、それ以外の理由はない。プールはいつも通り、貸し切りだし、練習の疲れを癒すにもちょうどいい。そう言い聞かせて、ケイシはプールに浮いていた。次の日も、またその次の日も、ケイシはプールに浮いていた。ユイは、なかなか現れない。
「おい、小僧、時間だぞ」
いるのは杉山でだけで、なんだかざわざわする気持ちがケイシの中にあった。
「何だ、小僧。今日はやけに早いな。まさかズル休みでもしたんじゃねぇだろうな」
珍しく、この日は昼間からプールを訪れることにした。
「今日は、テスト期間なんだよ」
ケイシは、杉山からロッカーの鍵を受け取った。
テスト期間中、部活は全て中止だ。勉強が嫌いな生徒が、嫌でも教科書に向き合う期間だが、ケイシはプールと向き合うことにした。
「何だ、ユイちゃんに会いにきたのかと思ったが?」
「何言ってるんだよ、違うよ」
ダイチに誘われたテレビゲームを断ってここにきたことは、杉山には言わなかった。どうせまた、からかわれるに決まっているからだ。
「来るわけないかぁ」
そう呟いていると、遠くから足音が聞こえてきた。振り返ると、そこにはユイがいた。細く長い手足は、人形みたいに見えた。ケイシは、そっと潜ってコースを譲る。
ユイはまた、ためらいもなく真っすぐに飛び込んでいった。プールには、水しぶきが水面に広がっていく。綺麗なフォームで、ユイはそのあと、30分も泳ぎ続けた。
着替えを終えたケイシに、杉山が目で合図をする。目の前には、着替えを終えたユイがいる。
「ほら、帰った、帰った」
杉山に促されるように、ユイとプールを後にすることにした。ユイは、ケイシの顔を見ることなく、何も言わず、ただ隣を歩いている。
「いつも、泳ぎにくるの?」
沈黙に耐えきれなくなったケイシが、言葉を絞り出した。
「たまに」
ユイの返事は素っ気ない。
「そう。あまり見かけないから、どうなのかなって思って」
「お昼に来ることが多いの。それに、こっちに引っ越してきて、まだ日が浅いから」
昼間にくるということは、学校はどうしているのだろうか。ケイシは、踏み込んではいけないような気がして、言葉が出なかった。
「制服、三坂中学のでしょ?」
ユイの質問に、ケイシは気が付いた。ユイの着ている青いセーラー服は、この辺りでは見かけないものだ。
「そうだけど。君は?見かけない制服だけど」
ユイは、少し俯いたように見えた。
「この制服、前の学校のなの。後少しで卒業だから、このままで」
ケイシはまた、続ける言葉が見つからなかった。
「サッカー強いんだってね」
次に沈黙を破ったのは、ユイだった。
「あ、うん、強い」
「そう」
また、沈黙が流れていく。ケイシの心臓は大きな音をたてていた。
「俺も、サッカー部なんだ。県大会ベスト4までいったんだよ」
口ぶりは、まるで自分がレギュラーだったように聞こえただろう。ケイシは、惨めな気持ちを抑え込むように、大きく息を吸い込んだ。
「私、サッカーってあんまり好きじゃないの」
すごいねとか、去年のベスト4の試合を見たとか、そういうことを言われると思っていたケイシは、ユイの言葉に拍子抜けしていた。
「三島ハルトって人、いるんでしょ。性格が悪くてわがままで、調子にのってて。自分が一番で、誰よりも上手いって勘違いしてる。私が一番嫌いなタイプよ」
「そんなことない」
咄嗟に答えていた。
「あいつは、そりゃわがままで自由で、猫みたいなやつだけど、君が思ってるようなそんな悪いやつじゃないよ。真っすぐで、人に厳しい分、あいつは自分にも厳しいやつで、良くいえば素直なんだ。それに、サッカーは誰にも負けてない」
意外にも、ハルトの良いところをすらりと挙げられる自分がいることに驚いていた。ハルトを認めたようで、何だか複雑な気持ちだ。
「どうせ、サッカーでは食べていけないわ。せいぜい今だけ調子にのってればいいのよ」
「そんなの、分からないじゃないか!」
ケイシはいつの間にか、ユイにムキになって言い返していた。ハルトを全否定されたようで、なんだか悔しかったのだ。こんな感情があったなんて、ケイシは思いもしなかった。
「だったら見に来てよ。来週、練習試合があるんだ。きっとハルトのプレーを見れば君も分かる」
「ハルトって人のこと、大好きなのね」
ユイと初めて目があった。ユイの表情は笑っているようにも見えた。いつも振り回されているハルトのことを、どこかで認めてしまっている自分がいる。ケイシは、戸惑っていた。
「それじゃ、また」
そう言うと、ユイは帰っていった。試合を見れば、きっとユイもクラスの女子みたいに、ハルトに惚れてしまうかもしれない。そんなことを考えもしないで誘ってしまったことを、ケイシは、後から少しだけ後悔していた。
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