第7話 苛立ち

「どんどん食べてね。遠慮はいらないから」

 その言葉通り、ハルトはもうカレーを2杯食べている。母はそんなハルトの顔を見て、微笑んでいた。

「もう十分だろう。何杯食べるんだよ。行くぞ」

 ハルトが家へ来るのは、久しぶりだ。避けていたわけではない。ハルトも、そして自分も忙しかったからだ、とケイシは心の中で呟いていた。

 ケイシは、3杯目をつごうとした母を止め、ハルトを2階へと連れ出した。

 もうすぐ受験生になるのだという自覚はケイシにもある。ケイシは、一瞬迷ったが、漫画ではなく、宿題の出た数学の教科書を手に取った。するとハルトも、面倒くさそうに、カバンから教科書を取り出した。

「で、ここは?」

「あれ、こうじゃねーの?」

 ハルトは頭を抱え、1時間もしないうちに、我が家のようにベッドに寝そべって漫画に夢中になっていた。

「ケイシ、ちょっと」

 母の声がして、ケイシは1階に降りた。

「夜食に」

 ハルトが来たことが、とても嬉しかったのだろう。母は、いつも以上にはりきっていた。スープのいい匂いがする。ふと、外を見ると、診療所にはまだ明かりが灯っている。

「なぁ、親父、まだ仕事してるの?」

「そうみたいよ。イグアナの調子が良くないんだって」

「そう」

「早く持って行きなさい。冷えちゃうでしょ」

「分かったよ」

 ケイシは、2階には上がらず、そっと診療所を覗き込んだ。椅子に座る父は、覗きこむケイシには気づかない。真剣な父の背中は、あの頃と同じだ。

 

幼いころに、小さな子猫が運び込まれたことがある。首輪をしたその猫は、やせ細り、とても怯えて震えていた。

 その小さな子猫の目を、時々思い出す。幼かったケイシが一目見て、助からないことが分かるくらい、その子猫はひどく衰弱していた。

「きっと、飼い主に捨てられて、ここらに迷い込んだのでしょう。……可哀そうに。こんなに痩せてしまって。どうにかなりませんか?」

通りすがりに子猫を見つけた男性は、涙を流しながすがりついていた。父は、あずからせていただきます、とだけ言って頭を下げた。

 その日から、父は3日間付きっきりで看病した。朝も夜も、ずっとその猫に寄り添い、ごめんな、ごめんな、と声をかけ続けていた。

 息を引き取った後、涙を流す父がいた。通りすがりの男性も子猫の死を聞きつけて飛んできた。何度も、何度も父に感謝の言葉を伝えて泣いていた。


「あ……」

 ケイシは、夜食が冷めはじめたことに気がついて、慌てて2階に上がった。

「ハルト、お前、まだ食べれるか?」

 ドアを閉めて振り返ると、ハルトはケイシのベッドで、すやすやと眠っている。まるで自分の家みたいに、枕に顔を埋めていた。

「おい、ここは俺の家だぞ」

 ハルトの寝顔は、幼かったころと変わっていない。

「まったく、お前は、自由でいいな」

 ハルトには、母親がいなかった。父親は仕事が忙しく、1人で過ごすことが多かった。ハルトは、たまにこうしてうちに上がり込んだと思えば、爆睡して帰って行く。ハルトは、そのまま1時間も眠り続けた。

 夜の12時を回ったころ、ハルトの父親が仕事帰りに迎えにやってきた。

「どうも、すみません」

 ハルトの父親が何度も頭を下げる。

 ハルトはどことなく父親と似ている。大きな手や、きりっとした眉、細身の体から力強さがにじみ出ている。ハルトの父親は、建築関係の仕事をしていて、夜遅くなることも多く、昔はよくうちでこうやって迎えがくるまで一緒に過ごしていた。

「いいんですよ。もう、ハルト君はうちの息子、同然ですから」

 ハルトは寝むそうに、靴を履く。

「ほら、挨拶しろ」

 その声に、ハルトは、下げたのか下げてないのか分からないほど小さく会釈した。

「何だ、その挨拶は。やり直せ」

 大きな手が、ハルトの頭を覆う。ハルトは、その手を払いのけて、また下げたのか下げてないのか分からない会釈をして出ていった。

「申し訳ない」

「いいんですよ。それじゃぁ、また遊びに来てくださいね」

「すみません。それでは、失礼します」

 ハルトは父親の前だと、少しだけ大人しい。ハルトの性格は、この強烈な父親のせいなのかもしれないと思うことがある。

「なぜ泣いている?泣いている暇なんてないはずだ。そんな時間があるなら、その時間を行動に移せ。お前が泣いている間に、どれだけ多くの人間が努力していると思っているんだ」

 試合に負けて泣いていたハルトに、父親が言った言葉だ。泣き虫だったハルトは、この頃からあまり涙を見せなくなった。

 ハルトの父親は、決してハルトをほめたりしない。県大会ベスト4が決まった試合も、もちろん見には来なかった。活躍したハルトを周りがちやほやする中で、この父親だけは、ここで負けて悔しいと思わないのならサッカーは辞めろ、とだけ言っていた。

 ハルトは、その日からベスト4の話をあまりしなくなった。


「あぁ、今日も負けたな」

 練習試合は、完敗だった。これで3試合勝ちなしだ。ケイシは、途中からではあるが、何度か練習試合に出場する機会が与えられていた。しかし、ポジションも定まらず、なんだか不安定な起用に留まっていた。

 それはダイチも同じで、新人戦はまた観客席なのかと不安になっていた。

「なぁ、これからどうする?」

「そうだな、腹減った。食べにいこうぜ」

 負けた試合のことなど考えるよりも、ケイシはコロッケのことで頭が一杯だった。

「なぁ、ハルトもいかないか?」

 ケイシの誘いに、ハルトは何も答えず、すぐにグランドを後にした。

「あいつ、どうしたの?」

「さぁ?ほら、行こうぜ」

 ハルトはこの頃、少し様子が変だ。

「おじさん、コロッケ2つ」

 コロッケ屋のおじさんは、顔色一つ変えることなく、無愛想なまますぐにコロッケを手渡した。

「なんだよ。急に冷たくなりやがって」

 ケイシは、小声で呟いた。商店街では、サッカー部だということで声をかけてくる人も少なくなった。あの時の話題は、あっという間に、ケイシの前を駆け抜けていった。

「なんか、勝てる気が全然しないんだけど」

 ダイチが、コロッケを頬張る。

「そうだなぁ」

 試合は、初歩的なパスミスを何度も起こし、中盤で何度もボールを奪われ、劣勢になることが多くなった。高さを生かしたクロスボールもなくなり、ハルトのゴールも少なくなっていった。

「まぁ、俺らが心配するのは、まずはベンチ入りだな」

 ダイチが言う通り、ベンチ入りさえ出来れば、それでいい。ケイシもなんだかそれでいいような気がしていた。


 次の日、グラウンドにハルトの怒鳴り声が響いた。

「おい!どこ見て蹴ってるんだよ!」

「悪い」

 後方から蹴られたボールは、コートを大きくそれて転がって行く。ハルトは、もう一度やり直せ、と怒鳴り散らしていた。

 しばらくすると、坂田が紅白戦を始めると言った。ケイシもダイチも、サブメンバーでゼッケンを渡された。

「やっぱり俺らは、こっちだよな」

「ほら、さっさとやるぞ」

 ユウマは、不満そうな顔をするダイチの背中を軽く叩いて、真っ先に走って行った。

 ユウマは、まだハルトにポジションを奪われたままだったが、最近ではポジションを変更しながらレギュラー組でプレーすることもあった。

「ユウマはいいなぁ」

 ゼッケンを着ていないユウマを見て、ダイチが口を尖らせた。

「始め!」

 坂田の声で、ゲームが始まった。ボールは、前線へと繋がる前に、パスが乱れて大きく左に逸れていく。

「おい!ちゃんとしろよ!」

 また、ハルトの怒鳴り声がした。

 周りの期待も少しずつ減っているように感じている。ハルトを応援する女子の数も、前より少なくなったような気がしていた。去年が良すぎたのよとか、まぐれだったんだろとか、応援の声はいつしか失望の声へと変わっていった。


「何やってるんだよ!」

 ハルトは試合中以外でも、強い口調で怒鳴り散らすことが多くなっていた。

「なぁ、また負けたんだって?ハルトがいてなんで勝てないんだ?」

 サッカー部ではない生徒は、どこかこの不調を喜んでいるようだった。ハルトのことを面白くないと思っているヤツは、結構いたんだということにケイシは驚いていた。

 ハルトは、そんな声にも何も言わず、ただ口を紡いでいた。坂田も、いくら負けが続いても、黙って練習しろとしか言わない。


「あいたたた」

「どうしたんだよ」

 ケイシはわき腹を抑えていた。この頃の坂田の練習メニューのせいで、体は悲鳴をあげていた。痛いのはわき腹だけではない。全身が筋肉痛だった。

「階段どれだけ昇らせるんだよ」

「今日も、終わりの見えないランニングあるかなぁ」

 一番の恐怖は、走る時間も距離も分からない、坂田の気まぐれなランニングのトレーニングだ。スタミナのないダイチは、それを一番嫌っていた。

「おい、どこいくんだよ。部室あっちだぞ」

 前を歩くハルトは、休むとだけ言って帰っていく。この頃ハルトは、こうして時々部活を休むことが多くなっていた。

「あいつ、本当にどうしちゃったの?」

「わからねぇ」

 ハルトの様子は、明らかに変だ。練習中も、ハルトらしくないミスを出すことが増えていた。何があったのかを聞いても、ハルトは答えようとしない。

「ほっとこうぜ」

 ケイシは、ハルトのことが分からなくなっていた。


「もう、ハルト先輩とはやっていけません」

 1年生が、ユウマにそう言い始めたのは、新人戦まで2カ月を切った頃だった。

「どうしたの?」

 ユウマは、歯切れの悪い返事をした。後輩に目をやると、次々と不満の声をあげていく。

「僕らが下手くそなのは、分かります。だけど、あんな言い方……」

「確かになぁ」

 ケイシも、この頃のハルトの様子はどこか気がかりだった。

「何で、そこで俺にパスしないんだよ!どうせお前のシュートじゃ入らねぇよ!」

 ハルトの怒鳴り声で、1年生は皆、恐怖で固まっていた。

「すみません」

 1年生は、ハルトの苛立ちを敏感に察知してしまい、大事なところでミスを連発する。

「まぁまぁ。そんなに怒らなくても。もう一回やろ」

 ケイシが間に入っても、ハルトは機嫌を直すことなく、ふてくされてグラウンドを去っていった。今思えば、ハルトを上手く使っていたのは、先輩達の方なのかもしれない。

「実は、前から結構、ハルトに対して不満が出ていたんだ」

 ユウマが、珍しくため息をついた。

「俺からも、何度かハルトに話したんだけど……」

 責任感の強いユウマは自分を責めているようだった。

「あいつ、この頃変だからなぁ」

 何かに焦っているような、そんなハルトの姿はあまり見たことがなかった。

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